ラグリナとノエル
空が茜に染まる頃、二つの影が深い森を必死に駆け抜けていた。
ラグリナとノエル。かつてカリストの審問官として、アナスタシアに仕えていた二人は、長い沈黙の中からようやく言葉を交わしながら走っていた。
「……もうすぐ、よ。あの街が見える」
「リヴィエールじゃない、高原の街スラリーよ。だけど……きっと、アナスタシア様の仲間に会える」
疲労困憊だった。クラリーチェの洗脳から解放された後、彼女たちは一息つく間もなく逃走を始めた。ノイエルの叫びが脳裏に焼きついている。
『捕まえろ! あの裏切り者どもを!』
自分たちが「裏切り者」と呼ばれるとは、かつて夢にも思わなかった。だが今、こうして自分たちの意志で走っていることに、後悔はなかった。
「アナスタシア様に、伝えなきゃ……私たち、今度こそ、信じて仕えたいの」
「そうね……フィーネにも……会えるかもしれない」
森の端にたどり着いたとき、二人は思わずその場に座り込んだ。
高原の街スラリーが、ようやく目の前にあった。
木々の隙間から見える建物群は、かつて彼女たちが知っていたどの都市とも違って、どこか穏やかな、魔力の圧がない不思議な空気を纏っていた。
「……ここ、本当に魔女がいないの?」
「でも、健司がいるわ。アナスタシア様と共にいた男……」
「ふふ……会ったら何て言おうかしら。まず、詫びからね……」
立ち上がったその時だった。
「随分、息を切らしてるわね」
前方から現れたのは、一人の女だった。鮮やかな白銀の髪を持ち、瞳は燃えるような赤。その姿に、二人は息を呑んだ。
「アウレリア……!」
魔女のトップ層に位置した者の一人。アナスタシアと並び称された存在であり、彼女たちにとっては、過去の敵に近い存在だった。
「どうしたの、そんなに顔色を変えて。私が怖い?」
アウレリアの笑みは、どこか楽しげだったが、威圧感は凄まじかった。逃亡の途中で出くわすには、最悪の相手。
「わ、私たちは……」
言いかけて、ラグリナは拳を握った。
「アナスタシア様に、会いたいんです。どうか、通してください」
ノエルも続いた。
「私たちは、もうカリストに戻る気はありません。アナスタシア様にすべてを話したい……だから、お願いします!」
アウレリアはしばし黙って、二人を見つめた。
その瞳の奥には、かつてアナスタシアと共に戦った戦場、裏切り、苦悩、すべてを知る者だけが持つ深い感情が宿っていた。
「……ふふ、懐かしい顔ね。まさか、あなたたちがここまで来るなんて」
アウレリアは一歩、近づいた。
「あなたたち、勘違いしているみたいだけど……私は、アナスタシアと敵対してないわ」
「え……?」
ノエルが、目を見開いた。
「リヴィエールでアナスタシアと再会して、一緒に笑ったわ。昔のようにね」
アウレリアの声には、懐かしさと優しさが混じっていた。
「今の私たちは、カリストの純血主義に背を向けて、ここにいるの。健司と共に、この地に“愛”をもたらすために……」
ラグリナは、言葉を失った。
アナスタシア様が……アウレリアと和解を……?
「でも、それをカリストの上層部が知れば……」
「当然、健司を抹殺しようとするでしょうね。クラリーチェもリズリィも動いた。だけど、彼女たちに健司は倒せなかった。むしろ、魔法の在り方が根本から揺らいだのよ」
「魔法が……揺らいだ?」
ノエルが呟く。
アウレリアは、彼女の肩に手を置いた。
「健司の魔法は、私たち魔女の常識を越えている。死者すら、愛の記憶として蘇らせる。彼に触れた者は、皆、変わっていく……。それが、クラリーチェをも動揺させたのよ」
「……希望が……本当に……あるんですね」
ラグリナの瞳が、涙で潤んだ。
それは、長い間心の奥底に封じ込めてきた想い――かつての「主君」を信じたいという純粋な気持ちだった。
「アナスタシア様に……もう一度……仕えさせてください」
「ふふ、言われるまでもないわ。もう、あなたたちはアナスタシアの仲間よ。彼女の“選んだ道”を信じて、ここに来た。それだけで、充分よ」
アウレリアは、二人を優しく抱きしめた。
その温もりが、過去の苦しみと恐れをすべて溶かしていくようだった。
「ようこそ、高原の街スラリーへ。あなたたちも、これからは愛の味方よ」
その言葉に、二人は涙を流しながら頷いた。
――その時、背後で音がした。
パチパチと、何かが燃えるような音。
森の入り口に、魔力が渦巻いていた。
「追手……!?」
ノエルが振り返ると、数人のカリスト魔女が姿を現した。
「ラグリナ!ノエル!カリストに戻りなさい!」
――ノイエルの声だった。
「ここにいたか……捕まえて連れ帰れ!」
「……っ、やっぱり……!」
ラグリナが身構える。だが、アウレリアは静かに手を伸ばした。
「私に任せて」
その瞬間、彼女の背後に、健司の気配が現れた。
「間に合ったね」
やさしい声が、二人の肩を支えるように届いた。
「……健司……」
ラグリナとノエルの目に、確かな希望の光が宿った。
過去の苦しみ、罪、裏切りを越えて、今こそ、新たな未来へ。
アナスタシアのもとへ、愛のもとへ、彼女たちは歩み出していた。




