セレナの記憶――紅い目の夜
静かな夜だった。
風もなく、月が冴え冴えとした光を放っていた。
銀の光は森の葉を撫で、草を照らし、そして少女の顔にもそっと触れていた。
セレナはまだ幼かった。姉のレリアと一緒に森の中を歩いていた。
ふたりは人間の青年と話をしていた。青年の名前はルイという。優しく、臆病で、どこか健司に似ていた。
「魔女と人間が話すのは、禁じられていることじゃないの?」
セレナが小さな声で聞くと、レリアは笑った。
「カリストではね。でも、ここは境界の森。誰かが見てるわけじゃない」
それは甘い油断だった。
いや――甘さすら知らぬ、ただの希望だったのかもしれない。
――あの夜。
突然、木々の間から冷たい風が吹き込んできた。
それは風ではなかった。気配だった。
ぞっとするような、血の匂いのする気配。
「……誰?」
レリアがすっと立ち上がった。
現れたのは、紅い目の魔女。
リズリィ――審問官であり、純血主義の象徴。
人間との接触を忌み嫌い、それを「穢れ」と断じる女。
「穢れた姉妹よ。人間の男と何を話していた?」
リズリィの声は冷たく、それでいて狂気がにじんでいた。
ルイが慌てて身を引こうとしたが、次の瞬間、彼の胸を闇が貫いた。
それは言葉より早く、祈りよりも残酷だった。
「ルイ!!」
セレナは叫び、レリアが彼女の前に立ちはだかった。
「セレナ、逃げて――!」
リズリィの魔力が一閃した。
夜空が一瞬、紅に染まったように見えた。
そして――レリアの体が崩れた。
まるで月が落ちたように。
セレナは声も出なかった。
血の匂い、焼けた空気、紅い月、そして笑う魔女。
「次はお前の番よ」
セレナは逃げた。
それが姉の願いだったと、信じたかった。
何も見えぬ夜の森を、必死で駆け抜けた。
何度転び、何度もつれ、何度涙をこらえても――
命だけは、つなぐしかなかった。
そして今、セレナはその夜を思い出していた。
リヴィエールの屋上。風が通り抜ける静かな場所。
遠くに見えるのは、カリストの山並み。
あの忌まわしき国家。純血を掲げ、人間を否定し、愛を罪と呼ぶ国。
「姉さん……」
あの夜からずっと、セレナは自分を責めていた。
逃げたこと。ルイを救えなかったこと。
何より、姉の手を握り返せなかったこと。
そして――リズリィは生きている。
「あなたは強いね」
と、健司は言ってくれたことがある。
でも、セレナはその言葉に首を振った。
「私は、逃げただけの女よ。何も守れなかったの」
けれど、彼の目は曇らなかった。
「だったら、これから守ればいい。もう、過去に囚われないで」
セレナはその言葉に、泣きたくなった。
本当に、涙が出そうだった。
――でも泣かない。
あの夜を越えるために。
自分の中にいる少女を、ようやく抱きしめるために。
カリストは、今も純血主義の牙を研いでいる。
健司がアナスタシアを破ったと聞き、いよいよ動くつもりだろう。
そして、リズリィも――。
「あの時の私のような犠牲者を、これ以上出さないために」
セレナはそっと目を閉じた。
姉の声が、森の奥から聞こえた気がした。
――セレナ、強くなってね。あなたならできる。
「うん……姉さん」
月明かりが、やさしくセレナの頬を照らした。
あの夜とは違う、温かな光だった。




