どこに行くの?
朝露の光が、影の谷の地面をゆっくりと濡らしていた。
谷の空気は澄みわたり、まるで長年閉ざされていた息苦しさが洗い流されたかのように感じられた。
クロエは、立ち止まって空を見上げた。
今まで闇に覆われていたこの谷に、朝日が差し込んでいる。
その光景が、どこか夢のように思えた。
隣を歩く健司が、小さく笑いかける。
「この谷、ずいぶん明るくなったね」
クロエは、少しだけ視線を落とした。
そして、ぽつりと口を開いた。
「ねえ……健司。あなたは、どこへ向かうの?」
彼は立ち止まり、風に揺れるクロエの髪を見つめながら、ゆっくり答えた。
「“魔女が住みやすい場所”を探してる」
「……でも、まだ何も決まってないんだ。だから、旅をしながら探すつもりだよ」
クロエはその言葉を、しばらく黙って反芻した。
魔女が住みやすい場所。
そんな場所、本当にあるのだろうか。
「魔女が……住みやすいって、どういう意味?」
健司はしばらく考えた。
その問いには、いくつもの答え方があった。
「怖がられない場所」
「能力を否定されない場所」
「ちゃんと、“人として”見てもらえる場所」
「笑える場所、眠れる場所……そして、愛を感じられる場所」
クロエは目を細めて、微笑んだ。
「そんな場所が……あるのね」
「いや、まだ見つかってないけど、作ればいいと思ってる」
健司は少し照れたように言った。
「最初はひとりで探そうとしてた。でも、ルナやミイナ、そしてクロエさんと出会って……一緒に探していく旅がいいなって思った」
クロエはその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
いつの間にか、彼の語る“未来”が、自分の心のどこかを揺さぶっていた。
かつて愛したレオンも、同じように言っていた。
「君と暮らせる場所を見つけるよ」と。
けれど、その未来は叶わなかった。
だが今、違う誰かが、違う形で――けれど同じ想いで、手を差し伸べている。
「私も……行ってもいいのかしら?」
クロエの問いに、健司は即座に頷いた。
「もちろん。クロエさんの居場所は、これから一緒に作るんだ」
ミイナとルナも、少し離れた場所からその会話を聞いていて、微笑み合った。
「クロエさん、少し柔らかくなったね」
ルナがぽつりと言うと、
「うん。言葉の端々が、優しくなった気がする」
ミイナが頷いた。
谷を出て、彼らの旅は始まる。
まずは東の森を抜け、かつて魔女が迫害されたという村を訪ねる予定だった。
そこに、今も隠れて生きている魔女がいると、ミイナが噂を聞いていたからだ。
道中、健司はクロエに話しかけた。
「怖くない?」
「少しは、ね」
クロエは正直に言った。
「でも……あなたと一緒なら、なんとかなるような気がするわ」
健司は、にっこり笑った。
「僕も怖いよ。だけど、誰かが一歩を踏み出さないと、何も変わらない」
クロエは、風に髪をなびかせながら歩く健司の背を見つめた。
その姿に、亡きレオンの面影を重ねてはいけないと、心のどこかで思いながらも――
同時に、そうではない“誰か”として、彼を認め始めている自分がいた。
彼は「代わり」じゃない。
彼は“今ここにいる誰か”として、自分を見つめ、声をかけてくれる。
クロエはその足取りを、ほんの少しだけ軽くした。
夜が訪れる頃、彼らは森の手前にある小さな野営地にたどり着いた。
焚き火の炎が揺れ、薪のはぜる音が静かに響いている。
クロエは、炎の前でぽつりと呟いた。
「健司。もし、本当に“魔女が住める場所”が見つかったら……何をしたい?」
健司は、少し考えたあと、笑いながら言った。
「うーん……花畑を作って、音楽を流して、みんなでお茶を飲んで……」
「それから、昼寝して、笑って……恋をする」
その最後の言葉に、クロエの頬が少し染まった。
彼の言う“恋”は、誰に向けられるものなのか。
そこに確かな意味があるのかは、まだわからない。
けれど、その温かさに包まれたような感覚は、彼女の心をゆっくりと満たしていった。
焚き火の火が静かに燃え続ける中、クロエは目を閉じた。
過去に囚われていた心が、ようやく、ほんの少しだけ――
未来を夢見始めた。
そして、その未来には確かに――彼らと共に歩む、自分がいた。




