フィーネ帰還
リヴィエールの空が、深い蒼から淡い青へと色を変えていた。氷と水が支配していたこの地に、ようやく陽の光が届き始めていた。だが、その中心に立つアナスタシアの顔には、未だ晴れぬ陰が落ちていた。
「私は……負けを認めたわ」
静かに、そして確かに彼女は言った。
だが、健司は首を横に振る。
「勝ち負けじゃない。アナスタシアさんが、どうしたいかだよ」
その言葉に、アナスタシアは目を見開いた。
彼女の中で響いたのは、遠い昔の記憶だった。
力こそがすべて。正しさとは強さであると、誰もが信じていた時代。血統こそが価値だと信じ、心を捨てた者たち。彼女はそれを憎み、抗い、そして孤独になった。
でも。
「私が……どうしたいか?」
初めて、その問いを他者から投げかけられた。
すると、どこかで風が吹いた。
凍ったはずの水が、ささやかに波打った。
その時だった。
「アナスタシア様……」
聞き慣れた、けれど遥か遠くに消えたはずの声がした。
その声を聞いた瞬間、アナスタシアの表情が変わった。
「……まさか……」
そこに立っていたのは、見慣れた銀髪の魔女。年老いてはいない。けれど、時が過ぎてもなお、優しいまなざしだけは昔のままだった。
「フィーネ……?」
彼女の名を呼ぶと、フィーネはゆっくりと歩み寄ってきた。小さな一歩一歩が、時間の重みを伴ってアナスタシアに届いた。
「どうして……あなたがここに……」
「思い出したのです。忘れてはいけない人を、私は……忘れてしまっていました」
その言葉に、アナスタシアの胸が強く締めつけられた。
フィーネは微笑んだ。
「でも、ずっと心の奥に残っていた。アナスタシア様の声、笑顔、あの時、リヴィエールで共に過ごした日々」
アナスタシアの瞳に涙が浮かんだ。けれど、それは悲しみのものではなかった。
「フィーネ……本当に……あなたなのね……」
フィーネは静かに、アナスタシアの前に立ち止まった。
「アナスタシア様。ただいま」
その言葉は、氷よりも冷たかったアナスタシアの心を、溶かすには十分すぎるほどだった。
「ああ……フィーネ……」
アナスタシアはもう耐えきれなかった。彼女の胸に飛び込み、しがみつくようにフィーネを抱きしめた。
涙が、止めどなく流れた。
「あの時、私は一人きりだと思っていた……誰も、もう帰ってこないと……」
「違います。私たちは、あなたを置いていったのではありません。ただ、忘れてしまっただけ……でも、それでも……帰ってきました」
アナスタシアは、フィーネの肩に顔を埋めたまま、何度も頷いた。
その光景を、健司たちは静かに見守っていた。
アウレリアがそっと呟いた。
「だから、あなたは強いのよ。健司」
健司は肩をすくめる。
「強いなんて思ってないさ。ただ、ちゃんと見たいだけ」
すると、リセルが隣で微笑んだ。
「それが、誰にもできないことだって、わかってる?」
その時、アナスタシアが顔を上げた。
頬は涙で濡れていたが、どこかすっきりとした表情だった。
「……あなたたちが信じる理由、少しだけわかった気がするわ」
健司は、笑った。
「理由なんて大げさなもんじゃないさ。ただ、目の前の人のこと、信じてみたいだけなんだ」
アナスタシアは、ふっと笑った。心からの、久方ぶりの笑みだった。
「なら……この街、もう一度始めてみようかしら。あの頃のように……ではなく、新しい私たちで」
「はい」と、フィーネが頷いた。
そして、その言葉が街に響いたかのように、凍てついていた水路が流れを取り戻し、空を覆っていた雲が晴れた。
陽の光が差し込み、リヴィエールの街に新しい朝が訪れていた。
•
その夜。
アナスタシアは一人、屋敷のバルコニーに立っていた。
ふと、誰かの気配に振り返ると、そこには健司がいた。
「ありがとう」
と彼は言った。
「……何が?」
「信じてくれたこと。自分を、そして、フィーネさんを」
アナスタシアは小さく笑った。
「……ねえ、健司。あなたにとって“信じる”って、そんなに簡単なことなの?」
「簡単じゃないよ。怖いことだって思う。でも、だからこそ、やる意味があるって思ってる」
アナスタシアは、静かにうなずいた。
「……この街も、信じてくれるかしら。私のこと」
健司は夜空を見上げた。
「この空の下でなら、きっと」
風が優しく吹いた。
その風に乗って、フィーネの歌声がかすかに聞こえてきた。懐かしい旋律だった。
アナスタシアの瞳がまた潤んだが、今度はその涙に、苦しみの色はなかった。




