アナスタシアの涙
リヴィエールに再び静寂が訪れていた。だが、それは安らぎの意味ではない。目の前の光景は、もはや幻想と現実の境が曖昧になっていた。
「だが、それは幻だと、私は話したはずよ」
アナスタシアの声が鋭く響いた瞬間、空間が歪み始めた。空が淡い青から暗い紺に染まり、街に残っていた温もりが一気に凍える空気へと変わっていった。
「——コキュートスドラゴン」
彼女の宣言と共に、大気が凍り付き、天から巨大な氷の竜が現れた。その鱗は澄んだ水晶のように煌めき、口から吐き出される冷気は命すら凍らせる。
氷の竜が咆哮すると同時に、地面が白く凍結し、あたり一面が氷原へと変わる。上空からは、大河のような水流が渦を巻きながら降り注ぎ、まるでリヴィエールそのものが大いなる氷の神に飲み込まれるようだった。
「避けて!」
セレナが叫んだ瞬間、カテリーナとエルネア、そしてミリィたちが一斉に動いた。防御魔法を展開しようとするが、空間の凍結は想像以上に速く、魔力の流れを鈍らせていた。
ガーネットが炎の盾を構えるも、その火すら凍り付く。
「ダメ……こんなに……」
氷の力は圧倒的だった。
カテリーナたちの動きが凍りつき、精霊の加護すら通じない世界に変わっていた。
——それでも、健司はその場に立っていた。
彼の身体は寒さで痺れていた。皮膚の感覚がほとんどなくなり、呼吸すらも凍るような中、それでも彼は前を向いていた。
アナスタシアはその姿を見て、静かに告げた。
「……弱ければ意味はない。幻想だけでは、誰も守れない。私は、もうそれを知っている」
凍える風に乗せて、どこか哀しげな響きがあった。
——だが、健司は口を開いた。
「たしかに、これは幻だ。僕も、君がそう思ってるのはわかってる」
「……だったら、なぜ立っていられる?」
「幻を見せているのは……誰か、わかるはずだよ」
その言葉に、アナスタシアの瞳がわずかに揺れた。
その瞬間だった。
風が止み、空に光の筋が走る。凍った世界に、確かに違う気配が流れ込んできた。
氷の大地に、ぽたりと水滴が落ちた。続いて、柔らかな風が頬を撫でる。アナスタシアの周囲から、目に見えぬ何かが解けていくような感覚。
——精霊たちが戻ってきていた。
「……まさか……」
アナスタシアの背後に、小さな声がした。
「アナスタシア様……」
水の精霊たちが、氷の中から浮かび上がるように現れた。その表情は穏やかで、懐かしさに満ちていた。かつて共に都を守っていた精霊たち——そして、アナスタシアと共にあった存在だった。
「……なぜ?」
アナスタシアの声が震える。
「なぜ……戻ってきたの? 私が……みんなを拒んだから、ここに誰もいなくなったはずなのに……」
小さな水の精霊が、アナスタシアの袖を引いた。
「違うよ。あなたが拒んだんじゃない。悲しんでいただけ」
健司が一歩、彼女に近づいた。
「君は、もう誰にも傷ついてほしくなかったんだ。だから、全部閉じて、誰も入れないようにして、自分だけで止めようとした……違う?」
「……!」
アナスタシアの目が見開かれた。
「本当に強い魔女っていうのは、ただ力で相手をねじ伏せることじゃない。誰かと共に立ち、誰かと一緒に歩んでいける人だよ。君は、それができる人なんだ。だから、精霊たちが戻ってきたんだ」
アナスタシアの視界が、滲んだ。
「私は……私は……っ」
その瞬間、氷の竜が砕け散り、空に舞った水流が柔らかな雨へと変わった。まるでリヴィエールの空が泣いているように、美しく、温かい雨だった。
精霊たちがアナスタシアを囲む。
「アナスタシア、もうひとりじゃないよ」
その声に、アナスタシアは膝をついた。全てを押し込めていた心が、ついに壊れた。
「私は……私は、ただ……みんなを、守りたかっただけなの……!」
アナスタシアの泣き声がリヴィエールに響く。
だが、その涙はもう冷たくはなかった。
——それを見ていたミリィが、そっと健司に寄り添った。
「……すごいね、健司」
健司は笑った。
「すごくなんてないよ。ただ、僕は……誰も泣いてほしくないって思っただけだよ」
その言葉に、アウレリアもローザも、ソレイユも、ダリアも、微笑んだ。
リヴィエールの街は静かに目を覚まし始めていた。
凍りついた建物の扉が風で開き、澄んだ空気の中に花が咲き始める。人の姿はまだなかったが、精霊たちが舞い、空が晴れていく。
アナスタシアは、もう一度立ち上がった。
「……ありがとう、健司。あなたに会えて、本当によかった」
彼女の瞳には、強さと優しさ、そして決意が宿っていた。
「これから、リヴィエールを……もう一度、皆の都に戻すわ。今度は、誰も排除しない。魔女も、人間も、精霊も……一緒に生きる都に」
健司は頷いた。
「うん。一緒に、やっていこう」
リヴィエールの新たな朝が、静かに始まっていた。




