奇跡
静寂の広場に、水音だけが響いていた。
アナスタシアは一歩、ゆっくりと足を進める。その瞳は深い海のように冷たく、けれど、どこかで揺れていた。
「実力もないあなた達が……奴らに勝てるとでも?」
彼女の言葉が落ちると同時に、空気が変わった。
突如、彼女の足元から水が湧き出し、それが瞬く間に広がっていく。水面には氷の結晶が浮かび、冷気が辺りを包む。
「ブルーエイジ……!」
ミリィが声を上げた。
それはアナスタシアの代名詞とされる魔法。水と氷を自在に操るだけでなく、流動と静止、温度と質量さえ操れると言われる恐るべき魔法だった。
アナスタシアが右手を掲げると、水は天へと伸び、やがて巨大な氷の槍となって降り注いだ。
「来るよ!」
ソレイユが咄嗟に魔法障壁を張り、リセルが闇の波動で砕きにかかるが、氷はそれすら上回る硬度を誇っていた。
アナスタシアは冷静に、まるで時の流れから離れたように、次の魔法を詠唱する。
クロエが叫ぶ。
「防御を固めて! 一撃で崩される!」
カテリーナが氷から身を守るために闇魔法を放つが、それさえも霧へと消えた。
そんな中、健司は前へと出た。まるで、すべてを受け止めるように。
アナスタシアの手から放たれた冷気が彼を直撃する。防御などしなかった。いや、できなかった。彼は魔法の才を持たない。
氷が彼の体を包み、血管にまで冷たさが忍び込む。
「っ……!」
ミリィが悲鳴を上げた。
アナスタシアは、無感情に言った。
「所詮、その程度。言葉だけで、世界を変えようとするから……」
しかし――そのとき。
リヴィエールの街に、風が吹いた。
生温く、どこか懐かしい風だった。
氷が少しずつ溶けていく。
どこかで子供の笑い声が聞こえた。店の扉が開く音、人々のざわめき、楽器の音。どこかで、恋人たちが再会を喜ぶ声も聞こえた気がした。
アナスタシアは、眉をひそめた。
何かがおかしい。何かが、変わっていく。
彼女は健司を見た。氷に包まれてなお、その顔は穏やかだった。
「……何をしたの?」
アナスタシアの声が震えた。
健司は静かに言葉を返す。
「僕がしたいことは、もう終えたよ」
「終えた……?」
「魔法じゃなくても、人の心は変えられる。リヴィエールが忘れていた『想い』を、少しずつ呼び戻しただけ」
確かに彼は戦っていない。だが、街に踏み入った時から、彼はずっと言葉をかけていた。
街の家々に、ひび割れた水路に、倒れた噴水に。
そして、沈黙していた魔女たちの心にも。
「こんな僕でも、信じてくれる仲間がいるんだ。だから、少しだけ……心の声に耳を傾けてみてよ」
アナスタシアの背後――古い屋敷の窓が開いた。
そこに、かつての魔女が立っていた。
彼女は震える声で、アナスタシアの名を呼ぶ。
「……アナスタシア様……?」
アナスタシアは息を呑んだ。
見間違いかと思った。彼女は、あの時……カリストに連れていかれたはずだった。
次々と、街の至るところから顔が覗く。
かつてこの街を出ていった人々――魔女も、人間も。
彼らが、戻ってきていた。
「何……で……」
アナスタシアの視界が滲んだ。
彼女の魔法「ブルーエイジ」は、感情によってその力が変化する。
悲しみに染まれば、氷は絶対零度の刃に変わる。希望が芽生えれば、水は命を育む流れとなる。
今、彼女の魔法が弱まり、周囲の氷が水に戻っていくのを、彼女自身が一番感じていた。
ダリアが近づき、そっと言った。
「……誰かに勝つことがすべてじゃないよ。私たちも、負けてから気づいたんだ」
アナスタシアの足元に水が広がり、その水面に、昔の自分が映った。
誇り高く、けれど孤独だった、かつての自分。
「私は……」
彼女の肩が、震えた。
「私は、間違ってたの……?」
健司がゆっくりと手を差し伸べた。
「間違ってても、やり直せる。僕たちが出会った魔女たちは、みんなそうだったよ」
アナスタシアは、何かをこらえるように目を閉じた。
次の瞬間――
水面に一滴の雫が落ちた。
それは、アナスタシアの涙だった。
氷の魔女として恐れられていた彼女の心が、ほんの少しだけ、溶けたのだった。
リヴィエールに、新たな風が吹いた。




