カリストとアナスタシア
リヴィエールの冷たい風が、ざわりと健司の髪を撫でた。広大な水路の間に沈黙が広がっている。かつては栄えていたこの都も、今は魔女一人の住処と化していた。
その静寂の中で、健司はつぶやいた。
「……やっぱり、何かあったんじゃないか。アナスタシアさんと、魔女の血統主義の国……カリストってやつと」
誰に言うでもなく放たれた言葉に、カテリーナが小さく頷いた。
「……あり得るわね。私たちがザサンで聞いた話と、リヴィエールの現状。それに、アナスタシアの表情」
エルネアも横で考え込むように腕を組んだ。
「魔女の間では有名な話だったのかもしれないね。けど、カリストの影響がリヴィエールにまで及んでいたなんて……」
健司は静かにアウレリアの方を向いた。
「アウレリア、アナスタシアとは……昔、知り合いだった?」
アウレリアは少し目を伏せてから、ふっと乾いた笑いを漏らした。
「知り合いというより……よく小競り合いを起こしてたわ。彼女の家系、アナスタシアの一族は、古くから水魔法の名門だった。カリストから見ても厄介な存在だったと思う」
「敵視されていた、ってこと?」
「ええ。アナスタシアの一族は実力主義だったの。血筋なんかより、どれだけ強い魔法を扱えるか。それがすべてだった。だから、血統を重んじるカリストとは、水と油だったのよ」
ルナが眉をひそめた。
「じゃあ、カリストの連中は、アナスタシアの一族を潰そうとして……」
「実際に動いたわ。じわじわと、彼女の側近を洗脳していったの。誰がカリストに取り込まれていたのか、アナスタシアにも分からなかった。気づいたときには、リヴィエールの大半がカリストに染まっていた」
アウレリアの声音は低かったが、そこには悔しさのような色がにじんでいた。
「アナスタシアが今、孤独にこの都を守っているのは……それが理由なの?」
健司の問いに、アウレリアは静かに頷いた。
「彼女は、戦わずに去らせたの。カリストに染まった魔女たちを、殺さず、縛らず……ただ、自らの元から追い出した。そして、この都を無人のまま守り続けてる」
「……それって、すごく、苦しい選択だったんじゃないのか」
健司の言葉に、今度はカテリーナが応じた。
「ええ。あのアナスタシアが、戦わなかったなんて……。信じられないけど、それほどに、仲間を傷つけたくなかったんでしょうね」
そのとき、水の都の中心、かつての宮殿の上空に、ゆらりと魔力が広がった。
ソレイユが声を上げた。
「来るわ……!」
水の壁が、彼女たちの前に現れ、ゆっくりと裂けるようにして姿を現したのは、かつての水の都の主、アナスタシアだった。
「……また来たのね、アスフォルデの環の魔女たち。今度は、随分と多いみたいじゃない」
その声は冷たくもあったが、どこかで疲れきった響きがあった。
アウレリアが一歩前へ出た。
「今回は違う。私たちは敵じゃない」
アナスタシアはその言葉を聞いても、表情一つ変えなかった。
「あなたたちの魔法は……心を惑わせ、命を奪い、不安と争いを生む。違うの? ダリア、リーベル、ガーネット、ユミナ……どれも、かつての仲間を蝕んだ魔女たちじゃない」
名前を呼ばれた魔女たちは、ぎくりと肩を揺らした。
リセルが思わず口にした。
「でも……今は違う。健司が、私たちを……変えてくれた」
「変わった?」
アナスタシアの視線が、健司へと移る。
「人間が、魔女を変えたと?」
その瞳は嘲りではなく、ただ不思議そうだった。
「……魔法は、心を表すものだと思うんです」
健司が口を開いた。
「だから、あなたの魔法も、過去も、全部……誰かを守ろうとする気持ちがあったんじゃないかって」
アナスタシアの顔に、ほんの一瞬だけ、動揺が走った。
彼女の中で、何かが揺れていた。
――かつて、信じていた仲間たち。
――共に過ごした日々。
――それが崩れていく中で、彼女は一人で、都を守ることを選んだ。
しかし、その決断は、本当に正しかったのか?
「……勝手に、私の気持ちを測らないで」
アナスタシアの声が震えた。その手がわずかに動き、水が空中に螺旋を描いた。
カテリーナが前に出る。
「でも、あなたはまだここにいる。リヴィエールを捨てていない。それが、すべての答えじゃないの?」
アナスタシアの手が止まる。
「……本当に、あなたたちは……変わったの?」
ソレイユがゆっくりと近づいた。
「私たちは、魔女として生まれた。けど、健司と出会って、人として生きようとしてる。信じてほしい」
静かな水の音が、街の中に響いた。
アナスタシアは、ゆっくりと魔法を収めた。
「……なら、証明して。あなたたちの“変わった”を。リヴィエールは、かつての仲間の心が沈んだ都。あなたたちが歩けば、それが本当か、わかるから」
そのとき、空に虹がかかった。
沈んでいた街に、一筋の光が差し込んだようだった。




