アナスタシア
水の都――リヴィエール。
その名に違わぬように、街中を縫うように水路が走り、かつては水の魔法で栄華を極めたと言われる美しい都。しかし今、その街には人の気配がほとんどなかった。水音だけが静かに響く、不思議なほどに静寂な街だった。
「……何だここは……」
健司は思わず口にした。瓦礫になった家々。朽ちた橋。けれど、水路だけはどこか整えられたように澄んでいて、誰かが手入れしている気配さえあった。
「ようこそ、リヴィエールへ」
その声は、どこか冷たく、そして凛とした響きを持っていた。
水面からゆっくりと現れたのは、青白い髪をたなびかせ、蒼のドレスを身に纏った一人の魔女――アナスタシア。
その姿に、アウレリアが小さく目を見開いた。
「……久しぶりね、アナスタシア」
「……アウレリア。あなたの顔なんて、もう二度と見たくなかった」
アナスタシアの表情には、微かに怒りがにじんでいた。
「まさか、人間に負けた魔女達がここまで来るとは思わなかったわ」
「負けた? 何の話かしら」
アウレリアが挑発的に返すと、アナスタシアの口元が少しだけ歪んだ。
「あなた達は、自分が“特別”だと思っていた連中よ。人間を見下し、血統や力だけを誇っていた。そんな魔女達が人間に“心”を揺さぶられて、変わった? 滑稽ね」
ミリィがそっと健司のそばに立ち、小さくささやいた。
「……アナスタシアは、変わらないまま……」
「ダリア、リーベル、ガーネット、ユミナ……そして、アウレリア。あの誇り高き魔女達が、今では人間と共に旅をしているなんて。何を求めているのかしら?」
「……あなたが言うほど、私達は変わってない。ただ、知ったのよ。本当に大切なものを」
アウレリアが真っ直ぐに返すと、アナスタシアはふっと笑った。
「……何が大切? そんな曖昧な感情で、あなた達はここに来たの?」
健司が一歩前に出た。
「僕達は、新しい場所を探してる。魔女でも、人間でも関係ない、普通に暮らせる場所を」
その言葉に、アナスタシアの視線が初めて彼に向けられた。
「……あなたが、人間のくせに魔女の魔法を無効化した男?」
「そうかも。でも、僕の魔法は戦うためのものじゃない。願いを叶えるための力だ」
アナスタシアは眉をひそめた。リセル、ソレイユ、ルナ……彼の周囲に集う魔女達の顔に一瞬目を走らせる。そして目を細めた。
「まさか、あなたに心を委ねたの? アウレリアまで」
アウレリアはゆっくりうなずいた。
「信じられないかもしれないけど、彼といることで私は少しずつ変わってきた」
「……滑稽ね。私は、そう簡単には変わらない」
アナスタシアが手を振ると、背後の水が竜のようにうねり、天に向かって巻き上がった。
「人間と魔女が共に生きる? そんな理想論、ここでは通じない。リヴィエールは、かつて“人間を追い出した都”よ。おとぎ話のような綺麗事は、この水の底に沈めてやる」
その瞬間、ダリアが前に出た。
「アナスタシア、お願い。話だけでも――!」
「下がりなさい、ダリア。さんざんやり合ったことは忘れたわ。あなたはもう、心を失った魔女よ」
ダリアは苦しそうに俯いたが、ソレイユがその背に手を置いた。
「私達が変わったのは、健司がいたから。それは確か。でもそれが悪いことだったとは思わない」
「……そうか」
アナスタシアが手を振ると、水の龍が一気に動き出した。健司達を飲み込むように、巨大な渦が地面を叩いた。
クロエがすかさず防御の結界を展開し、ソレイユがザ・サンフレアを放って渦を打ち消す。
「話し合いすらする気はないの?」
アウレリアが叫んだ。
「ないわ。私は……この都で一人で生きることを選んだの」
その瞳には、静かな決意と、どこか悲しげな色が宿っていた。
「……このリヴィエールには、もう何も残っていない。私の知っていた魔女達は、皆、あの血統主義の国に行った。ここにいるのは、私一人」
ミリィがぽつりと口を開いた。
「じゃあ、なぜ……ここに残ったの?」
アナスタシアは答えなかった。
ただ、ゆっくりと水の中に沈むように、姿を消していく。
アウレリアがその場に立ち尽くした。
「アナスタシア……」
健司は小さくつぶやいた。
「まだ、心が閉じてるだけかもしれない……彼女も、本当は変わりたいと思ってるんじゃないかな」
「健司……」
カテリーナが振り返る。
「あなた、また何かするつもり?」
「うん。まずは……あの人の“心の声”を聞きたい」
リヴィエールの風が、静かに水面を揺らした。
次なる波乱の幕が、そっと開かれようとしていた。




