影の深くに潜むもの
旅の朝。
静かな空気に鳥のさえずりが混じり、町の広場には穏やかな日差しが差していた。
ミイナは、昨夜までとは別人のような顔で立っていた。
夜の恐怖を超えた少女の瞳には、今、新しい決意が宿っている。
「ありがとう、ルナさん、健司さん。……私、変われた気がする」
ルナは優しく笑い、健司も静かにうなずく。
「でも、変わるって、きっとここからなんだと思う」
そう言ったミイナの言葉に、健司はふと気づいた。
その声に、どこか“影”が混ざっていたのだ。
「……何か、気になることがある?」
健司が問うと、ミイナは少し俯き、躊躇うように口を開いた。
「わたし……昔、ある“魔女”に会ったことがあるの。
夜の森で、迷っていた時に……黒い影のような人だった。
その人も、“夜”を力にしていた。でも……私とは違った」
ルナが小さく息をのむ。
「それって、どんな人だったの?」
ミイナは目を閉じて思い出す。
「……彼女は、闇そのものだった。
私が生まれた“恐怖”なら……彼女は“絶望”だった」
その魔女の名は――クロエ。
ミイナが幼い頃、夜の森で家族と離れ、恐怖に泣き崩れた時、現れた影。
黒いマントに顔を隠し、何も言わずに手を差し伸べてきた。
だが、その手は冷たく、そして優しさとは別の何かを纏っていた。
「“世界なんて、光じゃ救えない”って、その人は言ったの。
“闇だけが、真実を見せる”って……」
ルナが眉をひそめる。
「……まるで、愛を否定してるみたい」
健司は黙って空を見上げた。
“光があれば影が生まれ、愛があれば憎しみも生まれる”
世界が一方の感情でできているわけではない。
だが、だからこそ――健司は、愛を信じていた。
ミイナが続ける。
「クロエさんは……町の噂じゃ“影の谷”にいるって。
昔、村をまるごと包んだ黒い霧があって、その中心に、彼女がいたって……」
ルナが言った。
「そこに、行くの?」
健司は頷いた。
「もし彼女が、愛を失っているのなら……僕たちの旅の意味がある」
影の谷――それは、地図にも載っていない場所。
旅人の間では「闇の地」と呼ばれ、近づく者は少ない。
「でも……あの人、すごく強かった。私が近づいただけで、息もできなくなって……」
ミイナが不安そうに言うと、健司は優しくその肩に手を置いた。
「それでも、ミイナは覚えてる。怖いけど、忘れてない。
それは、きっと何か意味があるんだよ」
その言葉に、ミイナの瞳が再び揺れた。
旅は再開された。
目指すは“影の谷”。
闇の奥深くに潜む、クロエという魔女との対話を求めて。
道中、森を抜け、小川を越え、次第に空の色が変わっていく。
周囲の木々は黒ずみ、風の音も沈黙に近い。
ミイナが震える。
「ここが……近づいてる」
谷の入り口にたどり着いたとき、空は灰色に覆われ、太陽は姿を隠していた。
まるで空そのものが、クロエの力に呑まれているようだった。
谷の奥には、一軒の屋敷が見えた。
蔦に覆われ、灯りもない、古びた石造りの建物。
その前に、ひとりの影が立っていた。
黒のローブ。長い髪。
その姿に、ミイナは小さく叫んだ。
「クロエさん……!」
影がこちらを見た。
その瞳は、まるで夜そのものだった。
何も映さず、何も信じない、そんな深淵の色。
「また来たのね。……あの時の、子どもが」
その声は冷たくも、どこか哀しみを含んでいた。
健司は、一歩前へ出た。
「あなたに、話がしたい。世界を変える旅をしてる。……“愛”で」
クロエは微笑んだ。
「愛? くだらない。
人を信じた結果、私が得たのは裏切りだけよ」
ミイナが叫んだ。
「でも! 私は……あなたに救われたんです!
怖くて、どうしようもなくて、あなたの手に……助けられたの!」
クロエは目を伏せた。
「……それは、救いじゃない。
闇に引きずり込んだだけ。私は、救いなんて与えられない」
健司は、心を澄ませた。
クロエの言葉の奥にある感情――それは、孤独。
「あなたも、愛されたかったんだね。
誰かに、闇を見せても、抱きしめてほしかった」
その言葉に、クロエの肩が小さく震えた。
「……黙って。光のふりをするな。お前には、闇の痛みなんて……!」
しかし、健司は歩みを止めない。
「なら、見せて。あなたの“闇”を。
全部、僕にぶつけて。……それでも、僕は逃げない」
クロエの足元から、黒い影が広がった。
空が、闇に沈む。
それでも、健司の瞳は、彼女を見つめ続けていた。
「世界は、光だけじゃない。闇があるから、愛が試される。
だからこそ……僕は、あなたに愛を届けたい」
影の中、クロエの頬に、一粒の涙が落ちた。
それは、彼女がずっと流せなかった“夜の涙”だった。




