旅立ちの歌
朝の空気は澄んでいて、肌をくすぐる風に、かすかな春の香りが混じっていた。
ルナは村の外れ、小さな丘の上に立っていた。
昨日までと、同じはずの風景。
けれど、すべてが違って見えた。
村は静かだった。
昨日の出来事が夢だったかのように。
でも、ルナの胸には、確かに残っていた。
広場で歌ったあの瞬間。
震える声を、健司の手が支えてくれたこと。
恐れていた人々の目が、驚き、そしてやがて優しさに変わったこと。
「……本当に、ありがとう」
隣に立つ健司に、ルナはそっと言った。
風に揺れる黒髪の中、瞳がまっすぐにこちらを見ている。
「私、自分の歌を、好きになれそう。
歌って、誰かを幸せにできるんだって……初めて思えたの」
健司は、ゆっくりとうなずいた。
「ルナの歌には、人を癒す力がある。
誰かの恐怖を、誰かの孤独を、包むような温かさがある」
ルナは、少しはにかみながら笑った。
「ねえ……行ってもいいかな。私も……一緒に」
健司は、微笑んだ。
「もちろん。一緒に行こう」
ルナの手には、小さな荷物が握られていた。
歌うことを忘れようとした日々をしまい込んだ古びたマフラー。
森で一人過ごした寂しさと、でも歌を捨てきれなかった証。
「次は、どんな魔女に会うの?」
「さあ。でも、きっとどこかで誰かが、また一人きりでいる。
ルナのように、心を閉ざして」
「私、できるかな。今度は、私が誰かを支えられるかな」
「できるよ。ルナはもう、誰かに届く歌を歌えた。
それは、とても大きな一歩だよ」
ルナは、マフラーを首に巻き直した。
森の中で風よけにしていたそれは、今や新たな旅の証だ。
健司は歩き出す。
ルナは数歩遅れて、けれどしっかりとついていく。
道の先に広がる世界には、きっとまた恐怖もあるだろう。
拒絶や怒りに満ちた視線が向けられるかもしれない。
でも、今のルナには、それでも進みたい理由があった。
「ねぇ、健司」
「ん?」
「もし……いつか、もっと大きな場所で、ちゃんと歌えるようになったら……聴いてくれる?」
健司は足を止めた。
そして、振り返って優しく言った。
「もちろん。その日を、ずっと待ってる」
ルナの瞳が、潤んで光った。
「ありがとう……」
二人の足音が、まだ静かな朝の大地を踏みしめる。
小さな決意と、希望と共に。
やがて、村の入り口にさしかかると、数人の人影が立っていた。
ルナは、はっとして立ち止まる。
その中に、昨日、最初に彼女を「魔女」と叫んだ男の姿もあった。
男は、無言でこちらを見た。
ルナの指が、無意識に震える。
けれど――男は、一歩前に出て、頭を下げた。
「……すまなかった。あんたの歌、すごく良かった」
続けて、老婆が、にこやかに言った。
「また歌いに来ておくれ。あんたの声で、よく眠れたよ」
子どもが、ルナに手を振った。
「バイバイ、歌のお姉ちゃん!」
ルナの目が、驚きと喜びに染まる。
健司は、そっと背を押した。
「ルナ、ほら。ちゃんと、届いてる」
ルナは、おずおずと手を振り返した。
(ありがとう……ありがとう……)
言葉にはしなかったけれど、その笑顔がすべてを物語っていた。
村の門をくぐり、広がるのは、知らない世界。
でももう、ルナは一人じゃない。
旅は、始まったばかり。
けれど、その最初の一歩が、誰よりも勇敢なものだった。
風が吹く。マフラーがひらひらと舞う。
「健司、私……きっと、もっと強くなるよ」
「うん。君の歌は、これからもっと多くの人に届くよ」
ルナは、もう一度だけ、村の方を振り返る。
笑ってくれた人々の顔。
あの広場。あの空。
そして、もう一度、前を向いた。
これが、ルナと健司の、新たな旅の始まりだった。
世界はまだ、変えられる。
たった一人の歌と、たった一人の優しさからでも。
――そう信じて、二人は歩き出した。




