月の雫が問うもの
南の村に朝が訪れた。
鳥のさえずりと、森の奥から響く神聖獣の遠吠えが、夜の静寂をやさしく押し流していく。小屋の窓から差し込む柔らかな光に包まれて、健司たちはいつも通り、目覚めの時間を迎えていた。
「んー……朝だねー……」
ルナが欠伸をしながら布団から体を起こす。
「もうちょっと寝てたい……けど、お腹空いた」
とミイナも続く。
健司はゆっくりと目を覚まし、周囲を見渡す。クロエとリセルもすでに起きており、炉に火を入れ、朝食の準備をしていた。
「今日もいい天気だなぁ」
と健司が微笑みながら外へ出ようとしたそのとき――。
「……!」
空気が、震えた。
気配が変わったことに、クロエがすぐに反応した。
「来たわ」
「この魔力……まさか……」
リセルの声が震える。
そして――
「お久しぶりです、リセル様」
現れたのは、銀灰色の髪に紅い瞳を持つ魔女。
その姿を見たリセルは、目を見開いて声を上げた。
「ミリィ……!」
風に揺れるローブ。緊張感の中に、どこか寂しげなその面影。
クロエの顔からも、険しさが抜けた。
「……あなたが来たのね、ミリィ」
ミリィは頷いた。
「……クロエ様。私は、あなたを“正気”に戻しに来ました」
静かなその言葉に、場の空気がぴたりと凍りついた。
「……何をするつもり?」
クロエが問いかける。
「――ムーンドロップ」
ミリィがそっと手を掲げた。
その瞬間、空気が変わった。
薄い月光のような魔力が手のひらに集まり、きらきらと輝きながら空中へと放たれる。雫のような魔力がふわふわと宙に浮かび、まるで夜の静寂を再現するように、周囲の音が遠のいていく。
「これは、洗脳誘導魔法。月の雫に心を溶かされ、意識は深層へと導かれる。記憶や感情に作用し、正しい価値観を取り戻すことができます」
クロエも、リセルも、動けなかった。
だが――
「……あれ?」
ミリィが小さく声を漏らした。
魔法の雫が、健司の前に降り注ぎ、その頭上で煌めきながら、静かに――消えた。
効果が、なかった。
「……え?」
ミリィは目を見開いた。
「なぜ……? 魔法が、効かない……?」
彼女の手が小刻みに震え始める。
それを見た健司は、ゆっくりと彼女に歩み寄った。
「ミリィさん……あなた、今、少し怖がってるでしょ」
「え……?」
「この魔法が効かないことがじゃない。あなた自身が、“誰かを無理やり変えること”に、恐怖を感じてるんだ」
ミリィは一歩、後ずさった。
健司の声は、決して責めるようなものではなかった。
ただ、やさしく――けれど、真っ直ぐに彼女の心を見つめる声だった。
「ムーンドロップって、“正しい価値観”を戻す魔法なんでしょう? でも、その“正しさ”って、誰が決めるの?」
「それは……エルネア様が……」
「本当に? それがミリィさんの望む“正しさ”なんですか?」
ミリィの目が揺れる。
「あなたは……クロエさんのことを慕っていたんでしょう?」
「……はい。姉のように思っていました」
「なら、今ここにいるクロエさんを見て、本当に不幸そうに見えますか?」
ミリィは――見た。
クロエの横に立つリセル。
それを見守るミイナとルナ。
健司の隣に、自然に立つクロエ。
その姿は、確かに、どこか暖かかった。
「……あなたの本当のしたいことは、なんですか?」
健司の問いかけが、まっすぐにミリィの胸に突き刺さった。
「洗脳じゃない。支配でもない。あなたが心の奥で願っていること――それを、教えてください」
ミリィは、沈黙の中で立ち尽くした。
静かな風が吹き、森の葉がさわりと揺れる。
「……私は……」
口を開いたその声は、震えていた。
「私は、クロエ様が……幸せなら、それでいいって……思っていた」
「けど……私は何も変えられなかった。傍で見ていただけ。だから、また“組織”にすがって、正しさを信じて……自分を保とうとしていた」
「でも……本当は、そんなこと、したくなかった……!」
ミリィの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「私は……ただ、またクロエ様と一緒に……笑いたかった」
その言葉に、クロエが静かに近づいてきた。
「ミリィ……」
「クロエ様……」
「私は、あなたのこと、ずっと気にしてた。あなたが何を考えているのか、どう生きてきたのか。でも、強くなったわね、ミリィ。ちゃんと、自分の言葉で話せた」
クロエが手を差し出す。
ミリィは、震える手でその手を取った。
「……ごめんなさい」
「いいのよ。私たち、同じ“世界”にいたのよ」
リセルもそっと微笑んだ。
「あなたがここに来てくれて、よかった」
健司は、その様子を見ながら静かに頷いた。
(本当の心は、魔法じゃなくて、対話でしか見つからない)
そう思いながら、朝の空を見上げた。
空には、雲ひとつなく、青が果てしなく広がっていた。




