待っている人
朝露の降りた草を踏みしめて、健司たちは南の村に向けて出発した。
陽はまだ低く、森の木々の間から差し込む光は淡く優しかった。鳥たちのさえずりが響き、夜の気配をやわらかく洗い流していた。
健司は最後尾から一歩遅れて歩きながら、ふと前を行くクロエを見つめた。
(……やっぱり)
彼女の背は凛としていて、いつも通りの堂々たる姿勢だったが、どこか足取りに重さがある。時折、まぶたを長く閉じては、眠気を振り払っているようだった。
健司は少し歩調を早め、クロエの隣に並んだ。
「クロエ、昨日……あんまり寝てないでしょ?」
「……どうして、そう思うの?」
クロエは視線を前に向けたまま答えたが、口元に少し苦笑が浮かんでいた。
「ちょっとした顔色と、目の動き。わかるんだ、僕、そういうの」
「……さすがね」
「無理しないでよ。ちゃんと寝ないとダメだよ」
「私は魔女よ。体力は人間よりもあるわ」
「そういうことじゃなくてさ」
健司は少し声を落とし、優しく言った。
「大切に感じてるから、ちゃんと休んでほしいんだよ」
クロエは歩く足を一瞬止めそうになったが、すぐに元に戻して進み続けた。
「……気を遣ってくれてるのね。ありがと」
「ううん。違うよ」
健司はにっこりと笑った。
「クロエには、待っている人がいるんだよ」
その言葉に、クロエの肩がほんの少し揺れた。
「……誰?」
健司は正面を見据えたまま、きっぱりと答えた。
「僕だよ」
クロエは思わず足を止めた。ルナとミイナも、それに気づいて振り返る。
健司は気恥ずかしさを笑顔で隠しながら、続けた。
「一緒に生活するんでしょ? 村に着いたら、ちゃんと住む場所を決めて、毎日ご飯作って、話して、笑って――だから、無理して倒れたりしたら困るんだよ。僕、待ってるから」
クロエは口を開きかけたが、声にならなかった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
魔女としての誇り、冷静さ、自立心――それらすべてを越えて、あたたかな想いが胸を満たしていく。
「……何を、馬鹿なことを」
ようやく出た言葉は、照れ隠しの精一杯だった。
しかしその頬は、かすかに赤く染まっていた。
そんなクロエの様子を見て、後ろから近づいてきたルナとミイナがにんまりと笑った。
「ふふ、クロエったら照れてる」
「ねえねえ、健司ー。わたしたちも健司と一緒に住むんだよね?」
「えっ……あ、うん。もちろん」
健司が返事をすると、ルナとミイナは嬉しそうに顔を見合わせた。
「やったー! 私たち、ずっと健司といっしょ!」
「ごはんも、おふろも、ねるのも、いっしょ!」
「ちょ、ちょっと待って! さすがにお風呂と寝るのは……!」
クロエが慌てて止めに入るが、ミイナはにこにこと無邪気な笑顔を浮かべて答えた。
「だって、安心するんだもん。怖い夢見たら、健司がいれば大丈夫!」
ルナも頷いた。
「それに、わたしたち……こころから信じられる人、初めてだから」
その言葉に、クロエの心にも静かに響くものがあった。
魔女として生きてきた時間。
人間に恐れられ、仲間同士でも信頼よりも力関係が優先された世界。
そんな中で、健司という人間は、何の見返りも求めず、ただ寄り添おうとする。
「……信じる、か」
クロエはぽつりと呟いた。
健司がクロエの顔をのぞき込むようにして言った。
「ねえ、クロエ。僕たち、家族みたいになれたらいいなって思ってる。血はつながってないけど、心でつながるっていうか」
クロエは少し目を伏せ、静かに頷いた。
「……そうね。まだ想像がつかないけど。あなたとなら、そういう未来も、悪くない」
「うん、ありがとう」
健司が微笑むと、ルナが手を差し出した。
「じゃあ、手つなご! みんなでいっしょ!」
ミイナもすかさず反対の手を差し出す。
「こっちも!」
健司は照れくさそうに笑いながら、その小さな手をそれぞれ取った。
そして、ルナとミイナに挟まれるようにして、三人で歩き出す。
その後ろ姿を見て、クロエはしばらく黙っていたが、やがてそっと歩み寄り――健司の袖を軽くつかんだ。
「……私も、行くわよ」
「うん」
森の奥に、南の村の入り口が見えはじめていた。
希望の町。
魔女が、人間と共に笑える場所。
まだ誰も見たことのない世界を、彼らはこれから作っていく。
一歩ずつ、着実に。
まるで、家族になるように。




