夜の囁き、消されゆく心
夜の帳が降りて、森はしんと静まりかえっていた。
月は薄雲の向こうに隠れ、星々が瞬く空の下。
健司たちは小さなキャンプを作り、焚き火を囲みながら一日の疲れを癒やしていた。
リセルは、その輪の少し外――
影のように静かに座っていた。
焚き火の灯りが届くところにいながら、彼女はそこにいる誰とも目を合わせようとしなかった。
(……“綺麗だね”なんて)
昼間の健司の言葉が、まだ心の中でこだましていた。
(まったく……何を考えているの、あの人は)
ほんの少しだけ、心がふわっとなった。
でもすぐに、リセルは自分に言い聞かせた。
(ルナも、ミイナもいるのよ。私は……私はもう“調停者”じゃない。ただの女になって、浮かれてるなんて――)
そう、あのときの感情は危険だ。
女として、誰かに心を許したとき、自分は取り返しのつかない喪失を味わった。
だからこそ。
もう誰にも――そう思っていたはずだったのに。
(健司って……ほんと、不思議な人……)
焚き火の方を見ると、健司がルナやミイナと布を敷いて寝る準備をしていた。ミイナがふざけて健司に闇魔法をかけたり、ルナが笑っていた。
そんな光景を見て、リセルは微かに唇を噛んだ。
(……あの光の中に私はいない。私は“影”だから)
彼女がそっと立ち上がり、森の端へと歩いたそのときだった。
「……そうよね。不思議な人だよね、あの子」
――囁くような声が、耳元に届いた。
「……!」
リセルが振り向くと、そこには一人の女が立っていた。
闇と一体化するような黒と紫のローブ。
長い銀の髪、静かな笑みを浮かべたその女――
「カテリーナ……様……」
リセルの声が震える。
「どうして……ここに……?」
「様はいらないわよ。今のあなたに、敬意を払う価値があると思ってるの?」
その声には、冷たく刺すような毒があった。
「……どういう意味」
「あなたはかつて“調停者”だった。闇の均衡を保ち、誰よりも魔女の道理を貫いていた。なのに今はどう?」
カテリーナはリセルに一歩、近づいた。
「人間の男に心を許し、笑いかけられて赤くなる。女に戻った君は、もう必要ないのよ」
リセルの背筋に、ひやりとしたものが走った。
「……始末しに来たの?」
「ええ。今夜のことは誰にも気づかれない。月は雲に隠れ、風は静か。最も始末がしやすい“夜”に、あなたがいる場所まで歩いてきたわ。すべては予定通りよ」
「……!」
リセルは一歩後退した。
その目に浮かぶのは怒りではなく、哀しみだった。
「それが、カテリーナ様の選んだやり方?」
「違うわ。これは“魔女のためのやり方”。私は“信じる者”を選んだ。あなたは“揺らいだ者”。それだけのことよ」
「……私は、揺らいでなどいない」
「そうかしら? あの青年の言葉に、少しでも“嬉しかった”って思ってしまった瞬間に、あなたは魔女じゃなく、“女”になった」
リセルは、口を閉じた。
否定できない。
確かに、心が揺れた。
健司の言葉に、過去の自分を思い出してしまった。
信じてくれた、たった一人の人。
でも、その結果が、どれほど残酷だったか――彼が命を落とし、自分だけが生き残った。
「……だからこそ、もう同じ過ちは繰り返さない」
「言葉にしても、心が違えば意味がないのよ、リセル」
カテリーナが右手をゆっくりと上げる。
空気が一変し、周囲の闇がざわめいた。
まるで空間そのものが震えているかのような、魔力の圧。
「最後の問い。――戻る? 魔女として。すべてを切り捨て、私の元へ」
リセルは、目を閉じた。
浮かんだのは、あの焚き火の光景。
健司の声。
「君の魔法は“闇”かもしれない。でも、闇は光を知ってる。だから、僕たちは共にいられる」
心に残るその言葉。温かさ。
(私は……)
「答えなさい、リセル」
リセルは静かに目を開いた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「ごめんなさい、カテリーナ様。私は……自分の意思で歩きたい」
その言葉が落ちた瞬間――
闇が爆ぜた。
刃のような魔力がリセルに向かって放たれる。
その瞬間、リセルは魔力を全開にして構えた。
「――っ!」
交差する闇と闇。
静かな森が、一瞬にして戦場へと変わった。
その激しい魔力のうねりに――
「リセル!!」
健司の叫び声が、闇を裂いた。
焚き火のもとから駆け寄ってきたその声に、リセルはほんの一瞬だけ、気を取られた。
その隙を――
「終わりよ」
カテリーナが刃を振るった。
次の瞬間、何かが飛び込んできた。
「――ッ!」
リセルを突き飛ばし、代わりに受け止めた影――それは、健司だった。
闇の刃が彼の肩を裂き、血が飛び散る。
「健司っ!!」
叫んだのは、リセル。
彼女の中で、何かが崩れた。
決壊した。
止めようとしていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「……なんで、あなたが……!」
「大事な人が傷つけられそうなのに、黙ってられるわけないだろ……」
健司は、笑っていた。
リセルはその場に膝をついた。
カテリーナは、静かにリセルを見つめる。
「ならば、次は……本気で奪いにいくわ。あなたの“大切なもの”を」
風が吹いたとき、彼女の姿はもう消えていた。
*
リセルは、傷ついた健司の肩に手を当て、震える手で魔法を放った。
闇ではなく、優しい癒やしの光。
「……私、もう……誰にも、こんな風に思いたくないって、思ってたのに」
健司は痛みに耐えながらも、穏やかに答えた。
「もう誰かを好きになることを……悪いことにしちゃいけないよ、リセル」
リセルは、涙をこらえながら、彼の傷口を見つめた。
そして、心に誓った。
この人は、もう誰にも奪わせない。




