マリエの過去――〈絶望の源〉
マリエはルネイアに向き直り、淡々と告げた。
「連れてきたよ」
ルネイアが口角を上げた。
「サンキュー。これで形成逆転だ」
ミイナとルナは腕を掴まれたまま、不安げにルネイアを見上げる。
マリエは眉をひそめた。
「形成逆転?どういう意味、ルネイア?」
ルネイアは指で広場の方向を指した。
「状況を見なよ、マリエ。あれ、見える?」
マリエは振り向いた。
シミラが――倒れていた。
衝撃が胸に突き刺さる。
「ありえない……シミラが、あのシミラが……負けてる?」
マリエの喉が震えた。
シミラは“心を開かない魔女”。
決して他者の言葉に揺らがず、感情を閉ざし続けたはずだ。
なのに、そのシミラが――涙を流し、膝をつき、健司に癒されている。
理解不能。
世界が歪むようだった。
「なんで……?」
シミラの涙がきらりと光った瞬間――
マリエの脳裏を、ある記憶が閃光のようによぎった。
⸻
あの日、マリエは新しく幹部に昇格したばかりだった。
組織の理念は単純。
――裏切られた女は、救われるべき。
――世界の幸福を壊し、男女の信頼を壊す。
――それが“平等”だと説く。
マリエは当時、その理念にすがるしかなかった。
レオンの死と裏切りを合理化しなければ、生きられなかった。
その日訪れた村は穏やかで、空気は暖かく、人々は互いに微笑み合っていた。
マリエの胸がちくりと痛んだ。
夫婦と子供が家の前で笑っている光景を目にした時、特に――。
「……幸せそう」
思わず漏れた言葉。
本当は、羨ましかった。
本当は、戻りたかった。
本当は――あんな未来を、自分も持てたはずだった。
だが、その隙を突くように後ろから声がした。
「おやおやマリエ。あれ、絶好の獲物じゃない?」
振り返るとシミラがいた。
その横にはブラッドレインも立っている。
シミラが冷たく笑った。
「あの人妻……夫が頻繁に外へ出かけてるみたいね。
浮気でもしてるんじゃない?」
ブラッドレインが補足する。
「情報だと、夫は仕事と称して外へ行くことが多い……けど、真相は不明だ。
女がいると噂してる者もいるらしい」
マリエは眉をひそめた。
「……裏切り?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の何かが刺激された。
シミラが肩をすくめた。
「だから確かめようよ。あの妻がどこまで“信じてる”のか」
三人はゆっくりと家へ近づいた。
ブラッドレインが表に立ち、シミラが窓辺に回り――。
マリエは扉を叩いた。
幼い子供が走り寄ってきた。
後ろからは優しそうな妻が現れた。
「ど、どなたですか?」
マリエは微笑んだ。
「ねぇ。あなたの夫……よく遠くに行くんでしょ?
女に会いに行ってるんだよね?」
妻の表情が変わった。
「そんなこと……ありません。夫は家族のために働いてるだけです」
マリエの胸が、また痛んだ。
――信じているんだ。
本気で、あの頃の自分と同じくらい、相手を信じている。
その純粋さが、逆に。
マリエの心の“空洞”を刺激した。
「裏切りなんて、誰だってするのよ」
「夫はそんな人ではありません!」
妻は子供を抱き寄せ、毅然としていた。
マリエは唇をかみしめた。
「信じてる、なんて……馬鹿らしい」
妻が眉を寄せる。
マリエが一歩踏み出した。
「ねぇ……選んでよ」
妻が怯えたように後退った。
「え……?」
「夫と子供。どっちを選ぶ?」
「な……何を……?」
シミラが笑う。
「ほら、選びなよ。
裏切り者の夫か、守りたい子供か」
妻は首を振った。
「選べません……。どちらも大切なんです!」
その瞬間、マリエの胸の奥に――黒い衝動がはじけた。
「……だったら……!」
怒りでもない。
嫉妬でもない。
寂しさと喪失感の混ざった、どうしようもない感情。
マリエの魔法が暴発した。
妻の腕に衝撃が走り、子供が泣き声を上げた。
「やっ……やめて!」
妻が倒れ、子供を必死で守ろうとした。
マリエは冷たく言った。
「夫は帰ってこないよ。
なぜなら――もういないから」
妻の瞳が揺れ、色が抜けていった。
絶望とは、こういうものかと初めて知った。
息が止まり、声も出なくなる。
魂が壊れ、空っぽになる。
妻は崩れ落ち――二度と言葉を発さなかった。
シミラがほくそ笑んだ。
「いいねぇ。これで同類がまた一人」
ブラッドレインは眉をひそめた。
「マリエ、やりすぎだ」
マリエの胸に、後悔が押し寄せてきた。
「……すみません……」
その時だった。
足音が――遠くから迫る。
妻の夫が帰ってきた。
その姿を見た瞬間、マリエの心臓が跳ねた。
優しそうな顔。
家族を愛していると一目でわかる男。
男が家に飛び込み――絶叫した。
「……なぜ……こんな……!」
マリエは震えながら答えた。
「ただの……遊びよ」
男はマリエを見た。
その目が。
その目が――。
殺意ではなかった。
悲しみと、深い怒りと――
妻と子を守れなかった自責そのものだった。
シミラが冷笑した。
「泣きたい?怒りたい?どっちでもいいけど、もう遅いよ」
そこに、セイラが現れた。
「あなたたち、何をしてるの?」
ブラッドレインが軽く頭を下げた。
「ただの戯れです」
セイラはため息をついた。
「まぁいいわ。マリエ、それ以上は壊さなくていい」
その時。
男の背に――影が揺れた。
マリエは知らなかった。
この男こそ、
のちの〈ホワイトヴェル四天王〉――
“死神”ベルンド
であることを。
世界最強の“妻子を奪われた男”。
彼の絶望は、その場で始まり、
のちの魔女殺しの異名になった。
そして――
マリエが、自分が壊したものの大きさを理解するのは、もっと後のことになる。
⸻
マリエは現実に戻る。
シミラの涙。
健司に癒やされ、心を開き始めた姿。
その光景が――胸に槍のように刺さる。
「あのシミラが……心を開くなんて……」
あれほど閉ざしていた彼女が。
絶望を肯定し、希望を嘲笑い続けた彼女が。
変わっている。
自分よりも先に――癒されている。
マリエの喉は震え、言葉がこぼれた。
「……そんなの、ありえない……」
ルナとミイナが不安げにマリエを見た。
ルネイアが剣を構えた。
「さぁ、マリエ。
形成は逆転した。
私たちも動くよ」
マリエは――動けなかった。
胸の奥から、知らない声がした。
“あの子たちの未来を奪うの……?
また……同じことを繰り返すの……?”
マリエは唇を噛み締めた。
心の奥で、初めて“後悔”が叫びを上げた。




