スルネ vs アウレリア ― 透明の魔女、幻に
――北に行くほど空を、冷たい風が切り裂いていた。
スルネはひとり、霧の漂う森を走っていた。
足跡も、息づかいも、地面に残らない。
透明の魔女にとって、逃亡は得意分野のはずだった。
けれど今、その呼吸には焦りが滲んでいた。胸の奥を焼くような悔しさが、透明になった身体の奥から溢れてくる。
「……あり得ない。あのメルガが、負けた……?」
森の木々をすり抜けながら、スルネは呟いた。
あの魂の魔女――冷酷で、情を断ち切ったメルガが、愛なんて言葉を口にした。
信じられない。信じたくない。
彼女は同じ“側”だった。人に拒絶され、理解されず、魔女として闇に堕ちた者。
だからこそ、あの敗北はスルネにとって、自分の存在意義が否定されたように思えた。
「……私は違う。私は、負けない。」
スルネは立ち止まり、霧の中に身を溶かす。
見えない魔力が空気を撫で、周囲の音を奪っていく。
彼女の魔法〈スケープ〉。自身を透明化し、周囲の五感から消す。
その上位魔法〈スケープゴート〉は、相手を「世界から切り離す」禁術。
それを使えば、どんな敵も彼女を認識できない――はずだった。
「……報告をしなきゃ。セイラ様か、ルネイア様に。」
声は震えていた。
野蛮な魔女の組織。その本拠地ホワイトヴェルに戻る途中だった。
スルネの心は焦燥と不安に満ちていた。彼女の胸には、組織での“序列”を失う恐れがよぎっていた。
――だが、背後に冷たい気配が立つ。
ゾクリとするほどの殺気。
振り向いた瞬間、そこにひとりの女性が立っていた。
「……彼女のことかしら?」
その声は透き通っていた。凍るように美しく、それでいて慈悲深さを含んでいる。
銀の髪を夜明けの光が撫で、白銀の瞳が霧を裂く。
「……おまえは、アウレリア!」
スルネの声に怒りと恐怖が混じった。
噂で幾度となく耳にした名。
11位の魔女――アウレリア。
“幻惑の支配者”と呼ばれる存在。見た者の心に、現実と夢の境を消すと言われている。
「どうしてあなたがここに……! 11位の魔女が、どうして健司なんかを信じられるの?」
アウレリアはゆっくりと歩み寄る。
霧の向こうで、その足音すら幻想のように淡く響く。
「あなたも見たはずよ。あの人が、どれほどの魔女を救ってきたか。」
「黙れッ!」
スルネの叫びと共に、空間が歪んだ。
透明の魔法〈スケープ〉が展開される。
アウレリアの周囲から色が失われ、音が消えた。
次の瞬間、スルネの剣が音もなく振り下ろされた。
――斬撃。
しかし、その刃は虚空を切った。
「……なっ!」
アウレリアは微動だにしていなかった。
まるで彼女自身が幻のように存在している。
その姿は確かに目の前にあるのに、触れない。
剣が通り抜ける。
「どういうこと……!? あなたの幻術か……?」
アウレリアは微笑んだ。
「ええ、少し“思い出”を借りただけよ。」
その瞬間、霧が濃くなった。
白い靄の中に、誰かの声が響いた。
――『スルネ、ありがとう。嬉しいよ。』
「……ッ!?」
スルネの瞳が大きく開かれる。
その声は、忘れもしない――かつて、彼女が想いを寄せた人の声。
彼に告白したあの日の光景が、霧の中に現れた。
若い自分が立っている。
震える声で、好きな人に想いを伝える。
だが、返ってきたのはあの言葉ではなく――優しい笑顔だった。
――『スルネ、嬉しいよ。本当に。俺も……好きだ。』
涙が、頬を伝った。
「……うそ。そんな、現実じゃない……!」
「現実? それとも――未来かもしれないわね。」
アウレリアの声が響く。
現実と幻の境界が、完全に溶けていく。
スルネの心が、ゆっくりとほどけていくようだった。
「まやかしだ……こんなの、私の現実じゃない!」
叫びと同時に、スルネは再び魔法を発動した。
「〈スケープゴート〉!」
強烈な光が走る。
その瞬間、アウレリアの姿が消えた。
――世界から切り離された。
「どう? これであなたは何も触れない。ただの幻になる。」
スルネの声は勝ち誇っていた。
けれど、すぐに異変が起きた。
霧が再び動き出し、アウレリアの声が響く。
「あなたは何もわかっていない。」
「なにを、だ!」
「“現実”と“幻想”の違いを。」
――ドンッ。
胸が強く締め付けられた。
身体が動かない。
スルネは息を呑んだ。まるで重力が何倍にもなったような圧。
手足が痺れ、思考が曖昧になっていく。
「動けない……!?」
「この霧は、身体だけでなく心も縛る。あなたが“幻”と決めつけた瞬間、あなた自身が幻になる。」
スルネは必死に目を見開いた。
彼女の目に、幻と現実が入り混じった世界が広がっていた。
どれが本当の木々で、どれがアウレリアか、もう区別がつかない。
見上げた空も、触れた地面も、どこか嘘くさい。
「やめろ……私の世界を、壊すな……!」
「違うわ、あなた自身が“壊した”の。」
アウレリアの声が遠くなる。
それは怒りではなく、哀しみを帯びていた。
「あなたは、誰かに見てもらえなかった。ただ、それだけ。なのに、自分を消すことで、世界からも消えてしまった。」
スルネの頬に涙が伝う。
「……私は、ただ……気づいてほしかった。いることを、知ってほしかった……」
その声は、夜の霧に消えた。
スルネの魔力が崩れ落ち、透明だった身体がゆっくりと姿を現す。
全身から力が抜け、膝がついた。
「……これが……アウレリア……」
スルネは虚ろな目で彼女を見上げた。
アウレリアは淡い微笑みを浮かべる。
「ルネイアね。懐かしい名を聞いたわ。あの人とは何度もやり合ったわ。」
「……ルネイア様が言っていた……あなたに会ったら、逃げろって……」
アウレリアは静かに目を閉じた。
「ふふ……逃げることも、時には優しさよ。」
風が吹いた。霧が消える。
スルネはその場に倒れ込み、負けを認めた。
最後に残ったのは、透明な涙だけだった。
アウレリアはその跡を見つめ、ひとり呟いた。
「透明の魔女、スルネ……あなたの“存在”は、確かにここにあった。」
そう言って、彼女はリヴィエールへと歩き出した。
霧が晴れるころには、もうそこに姿はなかった。




