戻る者、揺らぐ者
薄暗い空間の中心に、巨大な水晶が浮かんでいた。
その水晶の中では、まさに今、健司がリセルの手を握る瞬間が映し出されている。魔力を通じて過去と現在を映し出すこの水晶は、アスフォルデの環の塔の中にある「真視の間」の奥、禁じられた部屋にのみ存在していた。
その水晶の前に立つのは、魔女たちの中枢を束ねる存在――エルネアだった。
「……手を取ったか」
静かに、吐き出すような声でつぶやく。
エルネアの瞳には、怒りとも焦りとも違う、深い戸惑いの色が浮かんでいた。
その横にはヴェリシアとローザが控えている。
「まさか……リセルまで。まさか、あのリセルが人間と共に行動するとは」
ヴェリシアが震えるように言った。
「ありえない……信じられません」
ローザの声には怒りが滲む。
「彼女は一度も人間を信じたことなんてなかったのに……!」
エルネアは水晶から視線をそらし、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。
「リセルが揺らいだのではない。あの青年……健司が、揺らがせたのだ」
「健司……」
ヴェリシアはその名を呟く。心のどこかに残る、彼の言葉と眼差しが消えなかった。
「予想以上に、厄介な存在ね」
エルネアは冷静に言った。
「一人の青年にこれほど魔女たちが惹かれるなど、想定していなかった。彼は、“魔女の敵”にはならない」
沈黙が落ちた。
「……だからこそ、危険だというのですね」
ヴェリシアが言った。
「ええ。彼は敵ではない。だが、秩序を崩す存在だ。私たちの築いてきた“魔女の守り”を、信頼とやらで溶かしていく」
その時――扉が静かに開いた。
部屋の空気が一変した。
現れたのは、黒いフードの女性。
長い銀髪が背中を流れ、その気配は森の奥深くの静けさのようだった。だが同時に、その内に秘められた魔力の密度は、他とは比較にならない。
「……帰ったのね」
エルネアが口を開いた。
「ええ」
その女性――アスフォデルの環の長、カテリーナが静かに頷いた。
カテリーナは数ヶ月ぶりに、谷に戻ってきたのだった。
「遠征調査はどうだった?」
エルネアの問いに、カテリーナは真っ直ぐに水晶を見つめながら答える。
「北の地では、人間の開拓が進んでいた。魔力の高い地を無造作に開発している。魔女の痕跡を消そうとするように」
「つまり……敵意は今も健在というわけね」
「少なくとも、“知らない”から排除する、という思考は変わっていないわ」
カテリーナは水晶の中に残っていたリセルと健司の姿を見て、眉をわずかにひそめる。
「この青年が……健司?」
「そう。いま、魔女たちの中で密かに名を広げつつある“希望”のような存在よ」
「希望、ね」
カテリーナはその言葉を反芻し、微笑むように言った。
「それが灯火になるか、それとも……燃え広がる炎になるか」
「カテリーナ」
エルネアの声が、少しだけ低くなる。
「私は、彼を放置するつもりはない。あまりに心を揺らす者は、秩序を壊す」
「……排除するの?」
エルネアは答えなかった。ただ、玉座に肘をつき、水晶を見つめる。
「私たちが守るべきは、魔女の未来。だとすれば、あらゆる“可能性”に対して備える必要がある。彼を利用するか、潰すか――今は、その見極めの段階よ」
カテリーナは頷いた。
「ならば、私も近くで見よう。アスフォデルの環の者として。新たな炎が、私たちを照らすのか、焼くのか……確かめる価値はあるわ」
「いいでしょう」
エルネアは微笑むが、その笑みは凍てつくように冷たかった。
「あなたの目で、見届けて。そして、必要とあれば……」
「ええ。その時は、私の手で」
部屋の空気が重く沈む。
新たな駒が動き出したことを、誰もが感じていた。
だが、その未来はまだ霧の中。
健司たちはまだ何も知らず、ただ希望の地を目指して歩いている。
その先に、待ち受ける“現実”と“試練”を迎えるとも知らずに。




