眠り歌う少女
森は、静かだった。
木々のざわめきも、虫の声も、まるで音をひそめたように。
僕は、緩やかな坂道を登っていた。
空気は少しひんやりしていて、足元には白い花が咲いていた。
そのときだった。
ふわり、と。
耳に、優しい旋律が流れ込んできた。
小さな、か細い歌声。
けれど、どこかあたたかく、胸の奥をそっと撫でられるような――そんな歌。
僕の頭の中に、眠気がじわりと広がる。
(……これが、魔女の力か)
そう思いながら、僕は目を凝らした。
森の奥。
一輪の花のように、小さな影が座っていた。
少女だった。
白いワンピースのような服。
長い髪は、風に揺れて。
足元には、花びらが積もっていた。
彼女は、歌っていた。
誰に聞かせるでもなく、ただひとり、森に向かって。
僕は、そっと歩み寄った。
足音を立てないように。
だけど――気づかれた。
少女は、ぱた、と歌をやめて、こちらを見た。
その瞳は、驚きと、恐れと、そして――
どこか、あきらめに似た光を宿していた。
「……来ないで」
小さな声だった。
けれど、はっきりと、拒絶の色があった。
僕は、立ち止まる。
彼女の心から、色が流れ込んできた。
灰色の、冷たい色。
孤独。
恐れ。
絶望。
そして――
「どうせ、また傷つく」と言いたげな、悲しい色。
(……怖いんだな)
僕は、ゆっくりと、両手を見せる。
「大丈夫。僕は、君を傷つけない」
そう言葉にしても、すぐには信じてもらえないことは、わかっていた。
少女は、少しだけ目を細めた。
「あなたも、私を捕まえに来たんでしょう?
村の人たちみたいに……」
その声は、震えていた。
僕は、首を横に振る。
「違う。僕は――君に、会いに来たんだ」
少女は、きょとんとした顔をした。
僕は、続ける。
「君は……歌が好きなんだろう?」
その瞬間。
少女の心が、大きく揺れた。
流れ込んできたのは、ほんの一瞬だけ光る、温かい色。
懐かしさ。
憧れ。
夢。
だが、すぐに、それは灰色に塗りつぶされた。
「……昔は、ね」
少女は、うつむいた。
「小さいころ、私は、歌手になりたかった。
みんなに、私の歌を聞いてもらって……笑顔になってほしかった」
細い声で、少女は言った。
「でも、歌ったら……みんな、寝ちゃったの。
私の歌には、眠らせる力があるって。
怖い、って。
気持ち悪い、って」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
「だから、私は、魔女になったんだよ。
もう、誰も、私の歌を聞かない」
少女の肩が、小さく震えていた。
僕は、そっと一歩近づいた。
「僕は、聞きたい」
少女が顔を上げる。
「君の歌、すごく、きれいだった。
あたたかくて、優しくて……僕は、眠くなったけど、嫌じゃなかった。
むしろ、ほっとしたんだ」
少女の瞳が、大きく見開かれる。
「……うそ、だ」
「うそじゃない」
僕は、微笑んだ。
「誰かを眠らせるって、怖いことじゃない。
疲れた心を、そっと包みこんであげることだって、できるんだ」
少女は、震える手で、胸元をぎゅっと掴んだ。
「でも……でも、私は、もう……」
「大丈夫だよ」
僕は、手を差し出した。
「君の歌で、救われる人が、きっとたくさんいる。
だから――もう一度、歌ってくれる?」
少女は、戸惑いながら、俺の手を見つめた。
長い沈黙。
静かな森。
そして――少女は、震える唇を、そっと開いた。
かすかな、けれど澄んだ歌声が、森に流れた。
それは、さっきよりも、もっとあたたかかった。
傷だらけの心を、そっと撫でてくれるような。
幼いころに聞いた、母親の子守唄のような。
僕は、目を閉じて、その歌を聞いた。
涙が、こぼれそうになった。
(ありがとう)
心の中で、そうつぶやく。
少女の歌が、夜の森に広がっていく。
孤独だった魔女が、もう一度、世界に声を届けた瞬間だった。