魂の始まり ― メルガの記憶 ―
健司の言葉を聞いて、メルガは、じっと手を見つめていた。
この手で、どれだけの魂を奪ってきたのだろう。
どれだけの命を消してきたのだろう。
そして――どれだけの愛を、自分の手で壊してきたのだろう。
その時、彼女の心はふと遠く、失われた街を思い出していた。
***
昔――まだ「魂の魔女」と呼ばれる前。
メルガは、ごく普通の人間の女だった。
名前も、笑顔も、夢も持っていた。
彼女が住んでいたのは、穏やかな丘の街。花畑が広がり、夕暮れになると鐘の音が響くような、美しい街だった。
彼女はその街で働いていた。薬草を調合する仕事。
病気の人々を癒し、子どもたちには薬草の匂いを嗅がせて笑わせた。
――そんな日々の中で、好きな人ができた。
彼の名は、カーツリッチ。
少し不器用で、でもいつも真っ直ぐな瞳をしていた。
彼はよく薬草屋に顔を出しては、花の香りの話をしたり、天気の話をしたりしていた。
何気ない会話。それが心を温め、日々の小さな光になった。
彼と話すたび、胸がふわりと浮く。
笑い声を聞くだけで、1日が柔らかく色づいた。
――それが、恋だと気づいたのは、ある春の午後だった。
白い花が風に舞って、カーツリッチの髪にひとひら落ちた。
メルガは無意識に手を伸ばし、その花を取った。
指先が触れた瞬間、心臓が跳ねた。
その鼓動が、彼女の決意を決めた。
――告白しよう。
夜、街の外れの丘に呼び出した。
星がよく見える場所。
風が花の香りを運ぶ中、メルガは深呼吸をした。
「ねぇ、カーツリッチ。私、あなたが――」
最後まで言う前に、彼の表情が曇った。
「ごめん、メルガ。」
彼の声は優しかった。でも、その優しさが刃のように刺さった。
「たぶん、君のことを悪く言うつもりはないんだ。ただ……」
メルガは震える唇で、続きを待った。
「感情が乏しいって言うのかな。
君と話してると、心がないように感じるんだ。」
風が止まった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……心が、ない?」
「違う、そういう意味じゃ――」
でも、その言葉は届かなかった。
涙が出る代わりに、何も感じなかった。
ただ、世界が急に色を失っていくのを見ていた。
メルガの恋は、儚く散った。
***
それから、何かが壊れた。
誰とも話さなくなり、仕事にも行かなくなった。
家の中で、ただぼんやりと空を見て過ごした。
夜になると、聞こえる気がした。
誰かの心の声。
「どうして泣かないの?」
「どうして怒らないの?」
「どうして、そんなに静かでいられるの?」
その声が、頭の奥を締めつけた。
やめて、と叫んだ瞬間――空気が震えた。
街全体が、何かに吸い込まれるように静まり返った。
目を開けたとき、メルガの足元にあったのは、無数の光。
小さな魂の欠片だった。
彼女の魔法が――発現した。
「ソウル・リバインド」――魂を縛り、奪う力。
だがその瞬間、彼女の中で、何かが壊れてしまった。
愛する人の顔が思い出せなくなった。
誰もいない街の中で、メルガは膝を抱え、空を見上げた。
「……心がない、か。」
その言葉だけが、永遠に残った。
***
それからのメルガは、破壊者として生きた。
初恋に似た人を見かけるたびに、胸が苦しくなった。
その痛みを消すように、村を滅ぼした。
魂を奪えば、静けさが訪れた。
心が痛む代わりに、誰もいなくなった。
それが彼女にとって、唯一の安らぎだった。
そんな日々を続け、五つ目の村を滅ぼした夜――彼女は出会った。
「あなた、いいね。」
柔らかく、それでいて毒のような声が背後から聞こえた。
振り返ると、月明かりの下に立っていたのは、白銀の髪をなびかせた女。
セイラだった。
その隣に、金の髪の女がいた。ルネイアだ。
「私ほどではないけど、あなたも壊れてるね。」
セイラは笑った。
「壊れた人間って、好きよ。壊れ方に“品”があるもの。」
その笑みの奥に、深い闇があった。
メルガは一瞬で悟った。
この女は、自分より遥かに――深く壊れている。
次の瞬間、空間が裂けた。
セイラの魔法が放たれた。
光でも闇でもない、純粋な破壊の魔法。
地がえぐれ、空が悲鳴を上げる。
メルガは全力で対抗した。魂を縛り、光を吸い、攻撃を受け止めようとした。
だが、セイラの魔力は桁違いだった。
一撃で、メルガの結界は砕けた。
そして、セイラが微笑んだ。
「悪くない。あなたの魔法、いいわ。人の魂を縛るなんて、なかなか狂ってる。」
膝をついたメルガは、初めて「恐怖」を感じた。
これが――魔女。
これが、“心の闇”の化身。
「どう? 来る?」
セイラが手を差し出した。
「野蛮な魔女って組織があるの。あなたみたいな女、歓迎よ。」
その声には、奇妙な安心感があった。
誰にも理解されなかった言葉を、初めて理解してくれたような。
“あなたも壊れてる”――それだけで、救われた気がした。
メルガはその手を取った。
***
それから、彼女は“野蛮の魔女”となった。
魂を縛る力は、セイラのもとで磨かれ、冷酷な兵器となった。
人の痛みを理解しない代わりに、誰の涙にも動じなくなった。
それが、彼女の“生き方”になった。
――だが今。
メルガはふと、あの丘の風を思い出した。
「感情が乏しいって言うんかな? 心がないように感じるんだよね。」
その言葉が、まだ胸に残っていた。
何年経っても、消えなかった。
メルガはそっと呟いた。
「……だったら、あの人間が間違ってたことを証明してみせる。」
けれど、その声はどこか震えていた。
自分でも気づかぬまま、心の奥に――小さな温もりが残っていることに。
それは、かつて恋をした少女の名残。
メルガという“魂の魔女”の、唯一残った“心の欠片”だった。




