血の魔女の微笑み
リヴィエールの夜は、静かに、そして温かかった。
水の都と呼ばれるその街の中心にある、白い石造りの建物。そこが健司達の住まう屋敷だ。
街の灯りが水面に反射し、まるで星が湖に落ちたかのように煌めいていた。
戦いが終わり、しばらくの平穏が訪れていた。
大地を揺るがせたラグナの戦いも終息し、捕らえられた野蛮の魔女――ブラットレインは、健司の手によって処罰されることなく、この屋敷に滞在していた。
表向きは「監視下にある身」だが、彼女の表情はどこか自由そのものであった。
そして今――
健司達は、屋敷の食堂に集まっていた。長い戦いの後の、束の間の晩餐である。
テーブルの上には温かいスープと焼きたてのパン。リセルが仕込んだサラダ、クロエが焼いた香ばしい魚料理。
そして、ファルネーゼが作ったスパイスの効いた肉料理が湯気を立てている。
そんな中、異様なほどの存在感を放っていたのは、他ならぬブラットレインだった。
彼女はいつもの黒衣を脱ぎ、白い軽装に身を包んでいる。
長い赤髪を下ろし、目元には柔らかい笑みを浮かべていた。
その姿は、あの血の海を歩く冷酷な魔女の姿とはまるで別人だった。
そして――事件は、食事が始まってすぐに起きた。
「……はい、健司。口を開けて?」
スプーンを手にしたブラットレインが、当たり前のように健司にスープを差し出したのだ。
その声色は甘く、柔らかく、どこか恋する乙女のように。
「……え? あ、あ〜ん……?」
健司は完全に戸惑っていた。
だが、ブラットレインの瞳は真剣そのものだった。
紅玉のような瞳がまっすぐに見つめるその先には、疑いも計算もない――ただ純粋な「感謝と想い」だけが宿っていた。
「ちょ、ちょっと!? なにそれ……!」
最初に声を上げたのはファルネーゼだった。炎の魔女らしい勢いで立ち上がる。
「あなたのそんな姿、見たことない! いつもは血で世界を染めていたようなあなたが、なにしてるのよ!」
横でヒシリエも困惑していた。
「冷酷な女」として知られていたブラットレインが、まるで少女のように微笑む姿など、誰も想像したことがなかったのだ。
「愛よ。」
ブラットレインは小さく言った。
まるで当たり前のように。
「……え?」
「愛されているって、素晴らしいことじゃない? ファルネーゼ、ヒシリエ……あなたたちも同じ気持ちなんじゃないの?」
「なっ……!?」
ファルネーゼは顔を真っ赤にし、ヒシリエは目を泳がせた。
野蛮の魔女と炎の魔女。立場は違えど、戦場で何度も刃を交えた仲だ。
だからこそ、互いの力を知り、そして――今のように「女」としての話をされると、言葉を失うしかなかった。
「愛、ねぇ……」
ぽつりと、クロエが呟いた。
テーブルの端に座り、パンを千切りながら、皮肉を浮かべる。
「血まみれの愛ほど、扱いづらいものはないわ。ねぇ、リセル?」
「ふふ、そうね。」
リセルは笑った。だが、その声の裏には微かな棘があった。
「血の魔女」と「炎の魔女」。対極に位置する二人が、同じ食卓にいるというだけでも異様なのに、その中心で健司が「両方に気に入られている」状況が、彼女たちには少しばかり面白くないらしい。
「でもまあ……」
リセルが続ける。
「あの人に救われた気持ちは、少しわかるかも。だって、あの人――人の傷を、ちゃんと見てくれるもの。」
「へぇ? あんたにしてはロマンチックなこと言うのね。」
クロエが笑う。
「ま、でも……あ〜んなんて、私は絶対しないけど。」
そんな会話を、健司は苦笑しながら聞いていた。
そして、再びブラットレインに向き直る。
「……ありがとう、ブラットレイン。でも、自分で食べられるよ。」
「ダメよ。」
ブラットレインは微笑んだまま、ぴたりと健司の動きを止めた。
「これは償いでもあるの。あなたに危害を加えようとした私の、せめてもの……」
そう言って、彼女はスプーンを口元に近づけた。
健司は少しだけためらい、だが、やがて小さく口を開ける。
「あ〜ん。」
その瞬間――
テーブルの空気が一気に静まった。
ブラットレインは満面の笑みを浮かべ、まるで少女のように頬を赤らめた。
その笑顔は、戦いの中で誰も見たことがない、まったく新しい表情だった。
「……まったく。」
ファルネーゼは呆れながら、頬杖をついた。
「人間って、こうやって女の顔を変えるのね。」
「まるで魔法ね。」
と、ヒシリエが囁く。
「魔法じゃない。」
ブラットレインは小さく笑った。
「心が動くって、こういうことよ。」
健司はその言葉を黙って聞いていた。
確かに――彼女の中で、何かが変わったのだ。
冷酷さではなく、愛のために力を使いたいという願い。
それが、あの戦いの後から彼女の瞳に宿っていた。
ふと、クロエが外を見た。
水面に映る月の光が、波紋に揺れていた。
その中に、何かの影が一瞬見えた気がした。
「……ねぇ、今、誰かいた?」
「誰か?」
リセルが振り向く。
「ううん、気のせいかも。」
そのとき、健司の背筋に微かな寒気が走った。
――外の気配。
あの戦場を幾度も経験した彼の感覚が、何かを捉えていた。
リヴィエールの外、霧の中。
2つの影がゆっくりと街を見下ろしていた。
「ここが……健司のいる場所ね。」
柔らかな声が風に混じる。
魂の魔女・メルガと、透明の魔女・スルネ。
2人の姿は闇に溶け、夜の水面に映ることもない。
ただ、その気配だけが、確実にリヴィエールへと迫っていた。
「血の魔女が心を変えた? ……ふふ、それは見ものね。」
「ねぇメルガ。彼を壊すの、楽しみだね。」
「ええ。でも――その前に、愛を見せてもらいましょう。」
月の光が雲に隠れ、夜が深まっていく。
その静けさの中で、健司達はまだ、温かい笑い声を交わしていた。
知らぬ間に、次の嵐がもう――すぐそばまで来ていることも知らずに。




