血の魔女の涙
戦いの終焉を告げる風が、リヴィエールの上空を静かに流れていった。
砂埃の匂いと土の香りが入り混じる。ラグナの大地魔法が放たれたあの瞬間の衝撃が、まだ空気の中に残っているようだった。
――ドォン、と。
遠くの丘で大地が揺れるような音がした。
「……今の、何の音?」
ファルネーゼが健司の袖を掴んだ。
隣で、ヒシリエも表情を引き締める。
「ただの音じゃないわ。これは……一体?」
アナスタシアが顔を上げた。彼女の紫の瞳が、一瞬だけ寂しげに揺れた。
「ラグナ……本気を出したのね。普段は重力魔法として抑えているけど、彼女の本当の力は“地そのもの”を操ること」
「地そのもの……?」
「そう。大地の意思を借りる魔法よ。だからこそ、音が空気じゃなく地面から響いてくるの」
健司は頷いた。
嫌な予感がした。――誰かが、ラグナの怒りに触れたのだ。
「行こう!」
健司は迷わず走り出した。
ファルネーゼ、ヒシリエ、そしてアナスタシアが続く。カテリーナとヴェリシアもすぐに駆け出し、仲間たちはひとつの列となってリヴィエールの外へ向かった。
◆
そこに広がっていたのは、崩れかけた森の地面と、巨大な岩の檻だった。
その中央に、紅い髪の魔女が捕らわれていた。肌の白さが血のような魔力に照らされ、薄暗い空気をさらに不気味に染めている。
ラグナは、無言でその前に立っていた。
彼女の表情には怒りではなく、静かな覚悟が浮かんでいる。
「……終わりだな、ブラットレイン」
その名を聞いて、ヒシリエが息を呑んだ。
「ま、まさか……18位の魔女、血の女王ブラットレイン!?」
リセルが呟く。
「野蛮な魔女の幹部……本当に現れたのね」
ブラットレインは薄く笑った。
「失敗したわ……まさかラグナがいるなんて。けど――」
その紅い瞳がぎらりと輝く。
「ここからが本番よ。絶望感ってやつを、これから見せてあげる」
ラグナが無言で歩み寄ろうとしたとき、健司が前に出た。
「待ってください」
ラグナは眉をひそめた。
「健司。危険だ」
「わかっています。でも、彼女を……ブラットレインさんを救いたい」
その言葉に、ブラットレインは一瞬だけ目を見開いた。
「救う? ははっ……何を言ってる。人間ごときが、魔女を救う? お前たちが壊してきた世界を、今さら癒せるとでも?」
健司は首を振った。
「僕は壊してきたつもりはありません。むしろ……繋ぎたいと思ってるんです」
沈黙が落ちた。
風がひとつ、木の葉を揺らした。
健司はゆっくりと近づく。ラグナが止めようとしたが、アナスタシアが小さく手を上げた。
「……いいわ、ラグナ。見てみましょう。彼がどうするのか」
健司の声が静かに響く。
「ブラットレインさん。あなたは――血のせいで裏切られたんですね」
その瞬間、ブラットレインの表情が固まった。
瞳がわずかに揺れ、喉の奥で小さく息を呑む音がした。
「……誰から聞いた?」
「誰からでもない。あなたの目を見ればわかります」
健司は静かに続けた。
「あなたの魔力は“怒り”じゃなく、“哀しみ”を混ぜている。誰かを信じたのに、裏切られた痛み……それが魔法に宿ってるんです」
ブラットレインは、震える声で笑った。
「は……ははっ……よく喋るわね、人間。そうよ。私は血の魔女。愛した男に“化け物”と呼ばれた。血を操るから気味が悪いって。あの時、私は誓ったの。男も女も、人間も魔女も……血の流れる生き物なんて信じないって!」
アナスタシアが目を伏せた。ヒシリエも唇を噛みしめる。
健司は、それでも微笑んでいた。
「それでも……あなたの“血”は、誰かを救うこともできるんです」
「救う?」
「ラグナさん、そしてリズリィたち。あなたの血を“力”じゃなく“命の証”として見られる人がここにいる。そんな人たちを前に、あなたは本当に壊したいと思えるんですか?」
ブラットレインの瞳から、ぽたりと一滴の涙が落ちた。
赤い雫が地面に染み込み、淡い光を放った。
「……私、ずっと……羨ましかったのかもしれない」
「羨ましい?」
「ええ。あの子たちみたいに……誰かと笑い合えること。血じゃなく、心で繋がること。そんな世界、信じられなかった。でも……今、少しだけ、信じたいと思ってる」
健司はそっと手を差し出した。
「じゃあ、信じてください。今だけでもいい。僕たちを」
ブラットレインは震える手で、その手を取った。
冷たい血の魔力が、ほんの少しだけ温もりに変わる。
ラグナが小さく目を閉じた。
「……健司、本当に不思議な奴だな」
クラリーチェが微笑む。
「人間なのに、私たちよりも“魔法”を信じてる」
ブラットレインは小さく呟いた。
「もっと……早く出会っていればよかった」
その言葉は風に乗って、リヴィエールの街へと溶けていった。
血に縛られていた魔女の心が、ほんの少しだけ自由になった瞬間だった。
アナスタシアがそっと健司の背中に声をかけた。
「……あの人を、どうするつもり?」
「しばらくは、リヴィエールに置こうと思う。彼女にも休む時間が必要だ」
アナスタシアは微笑んだ。
「優しいのね。まるで、昔の私みたい」
その微笑みの奥には、かすかな嫉妬と、確かな誇りが同居していた。
リヴィエールの空に、夕陽が沈んでいく。
血の色に染まった空が、まるでブラットレインの涙を包み込むようだった。
――戦いの後、またひとつ、心が救われた。
それは小さな奇跡だったが、確かにこの世界を変える一歩になっていた。




