カルナ、西の狂乱へ
西の地域──そこは、陽が差すことを忘れたかのような荒野が続く世界だった。
吹き荒ぶ砂の匂いは焦げた鉄のようで、風の中には乾いた血の臭いすら混じっていた。
かつてこの地は、魔法文明の残滓が多く残る場所として知られていた。だが、今は違う。
人間も、魔女でさえも寄りつかない。
理由は簡単だった。
ここに住むのは──狂った魔女達。
欲望のままに力を振るい、同族さえも喰らう者達。
そのあまりの異常さに、かつての同盟国家は「西の禁域」としてこの地域を封印した。
その禁域に、一人の女が立っていた。
──炎の女王カルナ。
燃えるような赤髪が風に靡き、長い外套の裾が舞い上がる。
瞳は炎の精霊と同じ紅玉の輝きを宿し、長年この地に身を置いたにもかかわらず、その炎はまだ濁っていなかった。
「……また、静かになったな」
彼女は呟いた。
この地に来て、すでに三年。
狂気を鎮めるために、そして西の魔女達を止めるために──カルナは孤独な戦いを続けていた。
数多の戦いの果てに、彼女の足跡の周りには焦げた大地が続いている。
火の精霊達も、ここでは息を潜めるようにしていた。
それでも、カルナは立ち止まらなかった。
この狂気の連鎖の裏に、「何かの意志」があると感じていたからだ。
その時だった。
ふと、空気が震えた。
炎の粒がふわりと舞い、赤い光が宙に浮かんだ。
その中心に、小さな精霊が現れる。
カルナは目を細めた。
「……お前、フレイムの精霊か? なぜここにいる」
精霊は、小さく体を震わせながら答えた。
「……カルナ様……。フラムが、破れました」
「……何だと?」
思わず、カルナの表情が揺らいだ。
「フラムが……破れた? そんな馬鹿な。あの結界は、フラムが作ったはずだ。並の魔女が破れるものではない」
「はい……。でも……本当なんです。しかも、アナスタシアは……」
「……アナスタシア? どうした?」
「人間と……一緒にいるのです」
沈黙が落ちた。
風が、遠くの砂を巻き上げた。
カルナは、わずかに目を見開いた。
「……アナスタシアが、人間と? そんなこと……ありえない」
思考が止まる。
アナスタシアといえば、水の一族の中でも最強。冷酷で、感情すら見せない魔女だった。
そんな彼女が──人間と共にいる。
「……本当に、変わったのだな。あの女が」
カルナは、炎のように赤い瞳を閉じた。
心のどこかで、安堵にも似た感情があった。
だが、それをすぐに打ち消す。
「……私には、まだやることがある」
そう呟いた時だった。
地の奥から、低い笑い声が響いた。
「さすがね、カルナ。まだ生きていたなんて」
カルナは振り向いた。
そこに立っていたのは、一人の女。
長い赤髪に、漆黒のローブ。
その背中には、翼のように見える魔力の残滓が揺らめいている。
「……お前は──ルメ」
女は微笑んだ。
「孤高の魔女」ルメ。
東西南北、いずれの勢力にも属さず、ただ己の研究と信念のために動く異端の魔女。
魔女達の間でも、彼女を知る者は少ない。
カルナは身構える。
「何のつもりだ。西の地にお前が来るとはな」
「私が来る理由は、ひとつだけ」
ルメは近づく。その瞳は月のように淡く輝いていた。
「あなたと──手を結びたいの」
カルナは眉をひそめた。
「手を結ぶ? 何故だ。お前が誰かと協力するなんて、ありえないことだろう」
ルメは静かに笑った。
「理由なら、すぐにわかるわ。
アナスタシアと一緒にいる“人間”──その男、知っているの」
「……何?」
カルナの瞳が細くなる。
「お前……あの人間を知っていると?」
ルメは頷いた。
「ええ。あの男──健司は、私の知り合いよ。昔、ほんの少しの時間だったけれど。
彼の中には、不思議な“力”がある。
それは魔力ではなく、“理”を変える力。
アナスタシアが彼に惹かれた理由も、私は理解できる」
「……理を変える、だと」
カルナは息を呑んだ。
それは、この世界の根幹を揺るがす言葉だった。
魔法とは理を借りる力。だが、“理を変える”などという存在が現れれば、魔女の秩序そのものが崩壊する。
ルメは続けた。
「あなたも気づいているはず。この西の狂気、ただの争いじゃない。
背後に、“誰か”がいる。狂気を増幅させ、世界の均衡を崩そうとしている者が」
カルナの紅い瞳が鋭く光る。
「……お前はそれを、知っているのか?」
ルメは頷いた。
「名前は、まだ掴めていない。でも、“影の番人”と呼ばれている者達が関わっている可能性がある。
そして、今、東の国──フレイムにまで手を伸ばしている」
カルナの心がざわついた。
「……ならば、フラムが破れたのも、その影の仕業か」
「その可能性が高いわ」
ルメの声が静かに響いた。
「アナスタシアが動き、人間が理を変え、西が狂気に沈む。
世界は、いま再び“均衡の揺らぎ”に入った。
カルナ、あなたも感じているでしょう? このまま放っておけば、すべてが崩壊する」
カルナは深く息を吐いた。
「……ならば、私はどうすればいい?」
ルメは微笑んだ。
「私と共に来なさい。
西の地を制御し、狂気の根を断ち切る。
その上で、アナスタシアのいる東へ向かう。
──そして、“人間”をこの世界の中心に立たせるのよ」
カルナの胸に、微かな怒りが走った。
「人間を中心に? 冗談だ。魔女の世界は、魔女が導くものだ」
だが、ルメの瞳は揺るがない。
「そうかしら? 魔女が千年かけても為せなかったことを、彼は短い時で変えている。
憎しみを終わらせ、純血と混血の境を越えて、アナスタシアさえも変えた。
その“理”を変える力こそ、この世界が必要としているものじゃないの?」
沈黙。
カルナは何も言わなかった。
ただ、炎の中に立ち尽くす。
そして、低く呟いた。
「……もしそれが本当なら、確かめる価値はあるかもしれないな」
ルメが微笑んだ。
「なら、話は早い。あなたがこの地を抑えれば、私は北を探る。影の番人の痕跡を」
カルナは頷いた。
「……いいだろう。ただし、私は魔女の誇りを忘れない。人間を試すのはそれからだ」
ルメは静かに背を向けた。
「ええ、それでいいわ。あなたが動くことで──西は再び炎に包まれる。
でも、その炎は、破壊のためではなく……再生のためのものになる」
カルナはその背を見つめながら、呟いた。
「……あの人間。健司、か」
小さく笑う。
「アナスタシアを変えたというなら、今度は私の信念も試してみろ。
お前が“理”を変えるというなら、私の炎がどれほどの理を焼けるか、見せてやる」
西の地に、熱風が吹いた。
灰の中から炎が立ち上り、沈黙していた精霊達が再び光を取り戻す。
その光は、やがて遠くフレイムの空にも届いた。
──カルナの炎が再び燃え始めたのだ。
西の狂気と、東の希望。
そして、“理”を変える人間。
それらが交わる時、世界は再び大きく動き出す。




