第3の守護者ヒシリエの叫び
緑の炎が消えた大地には、焦げたような静寂が漂っていた。
風が吹き抜ける音すら、今は遠い。
ヒシリエは地に膝をつき、肩で息をしていた。
リセルの闇の剣が放った衝撃波は、体だけでなく心の奥にも深く刺さっていた。
――負けた。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
「……終わり、か」
ヒシリエはぽつりと呟いた。
緑の髪が風に揺れる。燃え尽きた炎の残滓が、かすかに光を放って消えていった。
その前に、ゆっくりとアナスタシアが歩み寄った。
青い衣をまとい、氷のような瞳で、しかし今はどこか柔らかい表情をしていた。
「ヒシリエ、もういいわ。これ以上、無理をしないで」
「……アナスタシア。おまえに……だけは、負けたくなかった」
ヒシリエの声はかすれていた。
その目には怒りではなく、涙が溜まっていた。
彼女は震える唇で、叫ぶように言葉を吐き出した。
「アナスタシア――おまえが、あの時……塔を氷漬けになどしなければ!」
空気が震えた。
その一言で、場の温度が一気に下がる。
アナスタシアは目を伏せた。
ヒシリエの言葉は、過去を穿つ刃のようだった。
「……カルナ様が暴走したのは、あの時のせいだ。
おまえがあの塔を凍らせたせいで、カルナ様は自分を抑えられなくなり、そして――この街から……姿を消した!」
ヒシリエの叫びは、悲鳴のようでもあり、祈りのようでもあった。
アナスタシアは一歩近づくと、静かに言った。
「……ごめんなさい」
その声には、凍てつく氷のような冷たさではなく、春の雪解けのような温もりがあった。
「私は……若かったの。戦うことしか知らなかった。
守ることよりも、恐れられることが力だと思っていた」
アナスタシアの瞳に、過去の罪が映る。
氷の塔、沈黙する仲間たち、凍りついた笑顔。
あの時の自分が、どれほど傲慢だったかを思い知らされるようだった。
「だから、当主になってからは……戦いはしたくなかったの」
ヒシリエは震える手で地を掴んだ。
「……変わったな。おまえがそんなことを言うなんて。
あの冷たい瞳からは、何も感じなかったのに……今は……違う」
その声には驚きと、わずかな安堵が混ざっていた。
「何が……おまえを、変えた?」
アナスタシアは微笑んだ。
その隣に立つ男――健司を見つめながら。
「彼に出会ってからよ」
ヒシリエはその名を聞いて、ゆっくりと視線を向けた。
健司は静かに立っていた。優しい目をして、戦いの終わりを見届けていた。
「健司……か」
ヒシリエの唇から、吐息のように名前がこぼれた。
「彼はね、私の凍った心を溶かしてくれたの。
戦いの意味を、勝ち負けの先にある“赦し”を教えてくれたの」
ヒシリエの胸が熱くなる。
ファルネーゼが涙を流し、バーネが笑い、アナスタシアが心を開く――
その姿が、今目の前で現実として存在している。
クロエ、ミリィ、リセル、そして健司。
その全員の目が、真っすぐアナスタシアを見ていた。
ヒシリエは堪え切れず、ぽろりと涙をこぼした。
「そうか……バーネも、ファルネーゼも……みんな、そうだったんだな。
おまえ達の言う“変わる”ってやつは、本当にあるんだな……」
アナスタシアはそっと手を差し伸べた。
「ヒシリエ。あなたも、きっと変われるわ」
ヒシリエはその手を見つめた。
そして――健司がそっと彼女の手を握った。
「大丈夫です。変わるのは、怖くありません。
でも、変わらないことのほうが、もっと怖いですよ」
その言葉に、ヒシリエの瞳が大きく揺れた。
温かかった。
緑の炎でも、カルナの加護でもない。
“人の手”の温もり。
「……温かい……。
この感覚……久しぶりに……感じる……」
ヒシリエはそのまま、涙を流しながら、そっと目を閉じた。
彼女の炎は静かに消え、風だけがその場を通り抜けた。
アナスタシアは空を見上げた。
どこまでも高く、広い空。
カルナの記憶が、そこにあるような気がした。
⸻
一方その頃、王の間では――
フラムは玉座に座り、報告の途絶えた戦況図を見つめていた。
燭台の火が揺れるたびに、壁の影が不気味に歪んだ。
「……バーネ、ファルネーゼ、ヒシリエ。
おまえ達まで……」
唇がかすかに震える。
その時、扉が静かに開いた。
月のように白い髪をした女が入ってきた。
片目を覆う黒いヴェール、手には長い杖を持っている。
その存在だけで、空気が歪む。
「久しぶりね、フラム」
フラムの眉がぴくりと動いた。
「……セイラ」
野蛮な魔女の頂点――セイラ。
その名を聞くだけで、多くの魔女が恐れた存在。
「来たのか。何の用だ」
「ちょっと顔を見に来ただけよ」
セイラは軽い笑みを浮かべた。
しかしその目は、氷よりも冷たかった。
「聞いたわよ。健司って人間と、あのアナスタシア達がここに来てるんでしょう?」
「……そうだ。それがどうした?」
「無様ね」
セイラの口調は、挑発のように甘く冷たい。
「カルナがいなくなってから、あなた達はずっと“正義”を名乗り続けてきたけど――
もう、時代は終わりよ」
フラムの手から、赤い熱が立ちのぼった。
空気が歪む。王の間全体が燃えるような圧に包まれた。
「言いたいことは、それだけか?」
セイラは微笑んだ。
「ふふふ……負けるわよ、フラム。あなた達は。
“愛”を知ってしまった者は、戦えない」
その言葉を残し、セイラの姿は煙のように消えた。
フラムは立ち上がり、拳を握った。
「……カルナ様。あなたがいなくなってから、私は何を守ってきた?」
その声は誰にも届かない。
ただ、王の間の炎だけが静かに揺れていた。




