ベルンド安らかにいく
その時、不意に声が響いた。
「返し忘れたよ、これ。」
知らない女の声が、戦場に張りつめた空気を破るように響いた。
次の瞬間、ベルンドの目の前に黒い影が揺らめき、己が手にしていたはずの鎌が忽然と姿を現した。
そして、まるで嘲笑うかのように、鎌は逆の方向から現れ、その切っ先がベルンド自身の胸を深々と貫いた。
「ぐっ……お前は!」
血が溢れ出す。
鎌の柄を掴もうとした指先に力が入らない。
体が重く、膝が震え、床に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、ベルンドは声の主を睨みつけようとした。
だが、その姿はもう、時空の狭間にかき消えた後で、そこにいるのは驚愕に目を見開いた仲間たちの顔ばかりだった。
「ベルンド!」
クロエが叫んだ。
健司も駆け寄ろうと、一歩前に踏み出す。だが、ベルンドは血を吐きながらも手を上げ、制するように首を振った。
「……来るな。いい、これが……運命だ。」
その声音には、不思議なほどの安らぎが混じっていた。
長きにわたり「死神」と恐れられた男の顔に浮かんでいるのは、怒りでも憎しみでもなく、静かな諦観とどこか懐かしい微笑みだった。
「ですが……」
健司が言いかける。
ベルンドは唇を血で濡らしながら、かすかに笑った。
「……そうか。なら……最後に……これを。」
健司はうなずき、彼の体に手を添えた。
魔力が流れ込むと、淡い光がベルンドを包み込み、周囲の血の匂いと重苦しい空気を和らげていった。
光は次第に強くなり、暖かな陽光のように彼を抱きしめていく。
――そして、ベルンドの目に映ったのは。
「あなた、おかえりなさい。」
懐かしい声。柔らかな笑顔。そこにいたのは、亡き妻だった。
長い黒髪を風に揺らし、かつてと変わらぬ優しさで彼を見つめている。
その傍らには、小さな体で元気に手を振る息子の姿があった。
「パパ! おかえり!」
胸が熱くなる。涙が溢れる。
ベルンドは喉の奥で嗚咽をこらえながら、手を伸ばした。
震える指先が、二人の温もりに触れる。確かにそこにいる。夢でも幻でもない。
「……ただいま。……会えて、良かった。」
抱きしめ合う。妻の香りが、子の笑い声が、胸の奥に深く染み渡っていく。
その瞬間、ベルンドの心に重くのしかかっていた憎しみも、孤独も、すべてが溶けて消えていった。
死神と呼ばれた男は、ようやく人としての安らぎを取り戻したのだ。
その光景は、健司たちの目にも映っていた。
光の中で、ベルンドが穏やかに笑い、家族と再会する姿。
それはあまりにも美しく、切なく、誰もが言葉を失って見守るしかなかった。
「……行け。」
ベルンドの声が、最後に彼らの耳に届いた。
「マリエ達……あの野蛮な魔女が……かしこまっている相手を……見た。……おそらく、魔女だが……マリエとは比べ物にならぬ……恐怖を……感じた。……野蛮な魔女達の……ボスだろう……」
言葉は途切れ途切れであったが、確かな警告が込められていた。
その後、ベルンドは静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
光が彼の体を包み込み、ゆるやかに空へと溶けていく。
――そして、ベルンドは完全に息を引き取った。
しばらく誰も動けなかった。
クロエは唇を噛みしめ、リセルはただ静かに涙を流していた。
カテリーナは拳を握り、肩を震わせ、セレナは祈るように両手を胸に当てていた。
健司もまた、目を閉じて小さく頷く。
彼の心にも、ベルンドの最期の姿は深く刻まれていた。
「……死神、か。」
クロエがぽつりと呟いた。
「最後まで、あの人は……誰よりも人間らしかった。」
誰もがうなずいた。
憎しみと孤独に縛られていたはずの男が、最期に見せたのは、人としての愛と帰るべき場所だった。
その結末が、彼を知る者たちの胸を強く打った。
やがて健司が、静かに前を向いた。
「行こう。」
その一言に、皆が顔を上げる。
涙で赤くなった目を拭い、それぞれが決意を宿した瞳で頷いた。
彼らの目指す先は――ブラッジ。ホワイトヴェルの領主にして、真に恐るべき剣士。
ベルンドが命を賭して告げた警告を胸に、健司たちは歩みを進める。
白い塔の奥深く、静寂が支配する闇の中へと。
その背後には、死神ベルンドの最期を見届けた証が、深く、深く刻まれていた。




