痛覚
白い塔の石床に、鮮血が滴り落ちていた。
リーネは禁忌魔法の反動に苛まれ、全身に痛みを刻まれていた。
ローザが彼女を抱き起こそうとした時、健司が駆け寄った。
「リーネ、大丈夫か!」
「け……んじ……わたし……」
唇が震え、声はか細い。体中に刻まれた傷は深く、呼吸一つするたびに血が滲み出す。
健司は迷うことなく手を翳した。
「大丈夫だ……僕に任せろ」
淡い光が彼の掌から溢れる。
それは回復魔法と呼ぶにはあまりに異質で――痛みだけを、確実に消し去る不思議な力だった。
「……痛みが……消えていく……」
リーネの目が驚愕に見開かれる。
傷口はまだ塞がっていない。出血も止まってはいない。だが、体を蝕んでいた激痛は嘘のように和らいでいた。
「治すことはできない。でも……痛みを取ることならできる」
健司は苦しげに微笑んだ。
その光景を見た一番槍が、槍を杖にして立ち上がる。
その眼差しには恐怖ではなく、不可解なものを見つめる色があった。
「……そんなのは、魔法じゃない」
乾いた声が響いた。
健司は振り返り、血で濡れた頬を拭った。
「何だって?」
「魔法は傷を癒すものか、痛みと共に生きさせるものだ。お前のそれは……理に反している」
男は目を細め、記憶を掘り起こすように呟く。
「そうか……ようやく腑に落ちた。お前、あの村の出身か」
「……村?」
魔女たちの間にざわめきが走る。
一番槍はゆっくりと口角を上げた。
「かつて魔女と人間が共に暮らしていた村があった。互いに手を取り合い、魔法と力を分かち合った理想郷。だが、それは裏切りと血に塗れて滅んだ」
健司の眉がわずかに動いた。
「……その村を、知っているのか?」
「知っているだけだ。」
「なら、ここで止める!」
男は最後の力を振り絞り、槍を投げ放った。
空気を裂く音が塔の広間に響く。
直線的な死の軌跡が、健司の胸を狙った。
「健司!」
クロエとリセルが同時に叫ぶ。
穂先は健司の脇腹をかすめ、血が飛び散った。
だが――健司は苦痛の声を上げなかった。
「……なっ」
一番槍の目が驚愕に見開かれる。
健司は何事もなかったかのように立ち尽くし、淡々と血を拭った。
顔には痛みの色が一切なかった。
「お前……」
一番槍は笑い出す。乾いた、狂気の笑みだった。
「魔女共、見ただろう? この男は痛覚がない! 果たして人間なのかな?」
その言葉は広間の空気を凍らせた。
仲間たちは健司を見つめる。恐怖ではない。ただ――理解できない異質さを目の当たりにした沈黙。
「……健司……」
クロエが前に出た。
彼女の顔は、普段の柔和さとはまるで違った。
冷たく、鋭く、氷よりも冷酷な瞳。
「……もう、いいわ。黙れ」
その声は刃のように鋭かった。
一番槍が何かを言おうとした瞬間、クロエの周囲に闇が渦巻いた。
「ダークソウル」
空間そのものが黒に呑まれ、男の姿が一瞬で掻き消えた。
断末魔も、武器の音もない。
ただ――存在そのものが無へと還った。
静寂が訪れる。
「……クロエ」
リセルが小さく呼んだ。
クロエは健司に視線を向けた。冷酷な顔はすぐに和らぎ、優しい微笑みへと戻った。
「大丈夫?」
健司は小さく頷き、腹を押さえながら答えた。
「平気だよ。慣れてる。」
「……慣れてる、なんて言わないで」
クロエは震える声で囁き、血を拭う健司の手を包んだ。
魔女たちは互いに視線を交わした。
健司の「痛覚がない」という事実は、不気味さよりも深い疑問を残した。
彼は本当に人間なのか。
それとも――
だが、その真実を探る前に、次なる戦いの足音が迫っていた。
塔の奥から、新たな気配がじわりと広がってきていた。
リーネはまだ重傷だったが、痛みを忘れさせる健司の力で安らかに眠っていた。
ローザがそっと肩を支え、囁く。
「あなたは……きっと、魔女を救うために生まれてきた人なんだね」
クロエは健司の横顔を見つめながら思う。
彼は痛みを知らないのではなく――痛みを「背負い続けている」のではないか。
自分に代わって、すべての痛みを抱えているのではないか。
その想いが彼女の胸に重く残った。




