健司ではない何か
森の奥に、篝火が点々と揺れていた。
カリオペ率いるカリストの大軍は、行軍の合間の休息を取っていた。兵士たちの鎧は湿った空気で鈍く光り、魔女たちは焚火の傍らで魔力を整えている。
深い森にこだまするのは、虫の声と、時折交わされる囁き声。だが、その場の空気は決して穏やかではなかった。
焚火の影に立つ二人の魔女――グルバルとハートウェルが、険しい表情を浮かべていた。
「カリオペ様……なぜなのですか?」
グルバルが押し殺した声で問いかけた。彼女の眉間には深い皺が刻まれている。
「私も同じ気持ちです」
隣でハートウェルが静かに続ける。
「アスフォルデの環の魔女たちを認めることには異存はありません。彼女たちの力は確かです。しかし……あの健司という人間だけは、どうしても認められません」
焚火の火の粉がはぜ、赤い光が三人の顔を照らした。
カリオペは長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「今は……耐えてくれ」
その声は低く、しかし力強かった。
「私たちの最大の敵は誰だ? ――白い塔だ。あそこを破壊するまでは、些細な感情に囚われるな」
グルバルは唇を噛み、拳を握りしめた。
「しかし……!」
カリオペの視線が彼女に向けられる。その冷たい眼差しに射抜かれ、グルバルは言葉を飲み込んだ。
「白い塔は、この世界の根幹を歪める存在だ。奴らは『血』を利用し、思想を利用し、人々を操ってきた。我らが戦うべきはそこだ」
ハートウェルは俯きながらも、なお諦めきれない様子で呟いた。
「……ですが、あの男は危険です。健司という存在が、この均衡を乱すのではないかと」
カリオペは目を閉じ、短く息を吐いた。
「危険だとも。だが同時に……あの男が、未来を変える鍵でもある」
そう告げられた瞬間だった。
森の奥から、足音が近づいてきた。
規則正しい、しかし不気味に重い足取り。
兵たちが顔を上げ、武器を手にする。焚火の光に浮かび上がったその人物の姿を見て、誰もが息を呑んだ。
「……健司?」
思わずグルバルが名を呼んだ。
そこに現れたのは、健司によく似た男だった。顔立ちも体格も酷似している。だが、雰囲気がまるで違う。
本物の健司が纏うのは穏やかさと温かさだ。だが、目の前の男は冷酷な威圧感を纏っていた。瞳には光がなく、ただ黒い深淵のような冷たい輝きが宿っている。
男は足を止め、静かに彼女たちを見渡した。
「……君たちは危険だと思った」
その声は健司のものに酷似していた。だが、響きは硬質で、冷たい刃のようだった。
「だから、力を見せることにした」
言葉と同時に、周囲の空気が揺らめいた。
重力だ。大地が軋み、篝火が潰れたように炎を縮める。兵士たちは膝をつき、呻き声を上げた。
「ぐっ……!」
グルバルも思わず地に手をついた。全身に鉛の塊を押し付けられたかのような重圧。
「これは……ラグナの……!」
ハートウェルが驚愕の声を上げる。
そう、これは間違いなくラグナの魔法――重力を操る力。
だが、どうして健司に似たこの男が使えるのか。
「ありえない……!」
グルバルの声が震える。
男は無感情に言い放った。
「認めることだ。健司を」
言葉は短い。しかしその響きは、重力以上の圧力となって場を支配した。
兵士たちが怯えた目でその姿を見つめる中、男は踵を返した。森の奥へと、音もなく消えていく。
重圧が解かれると同時に、全員が大きく息を吐いた。
汗で濡れた額を拭いながら、グルバルは震える声で呟く。
「今のは……何だったのですか……」
ハートウェルは唇を噛んだまま答えられない。
ラグナの力を操る健司の影。それは彼女たちの理解を超えていた。
カリオペはただ、沈黙を守っていた。だが、その目には深い疑念と危機感が浮かんでいた。
――あれは、本当に健司だったのか。
それとも、ラグナが作り出した幻影か。
もしも健司の姿を借りて現れる存在があるのだとしたら、それは単なる偶然ではない。
「……この戦いは、思っていた以上に厄介になる」
カリオペは、焚火の残り火を見つめながら、低く呟いた。
彼女の心の奥で、予感が膨らんでいく。
この戦いの先に待つのは、単なる白い塔の崩壊ではない。
もっと深い闇――この世界そのものを揺るがす何かだ。
そして、その中心に、健司がいる。




