ラグナの目覚め
戦いの余韻が、まだ森の空気を重くしていた。折れた枝や焦げた葉、土に刻まれた爪痕のような魔力の痕跡が、先ほどの激戦を物語っている。
空を仰げば、木々の隙間から差し込む月明かりが、黒ずんだ地面をやさしく照らしていた。
リズリィは幹に背を預け、荒い息を繰り返していた。白い肌には赤黒い裂傷が幾筋も走り、動くたびに血が滲み出ていた。その目の奥には、強気な光を残しながらも、痛みに耐えるかすかな震えがあった。
健司は彼女の傍らに膝をつく。仲間たちも周囲で警戒を緩めぬまま、しかし安堵の息を吐いて彼を見守っていた。
「……もういい。放っておけ」
リズリィはかすれた声で言った。
「どうせ私は審問官だ。敵に助けられるなんて、屈辱だろう?」
健司は首を横に振った。
「そんなこと、僕には関係ないよ。傷をそのままにしておく方が、よほど間違ってる」
彼の声は静かで、揺るぎなかった。
右手を差し出し、リズリィの肩口にそっと触れる。その瞬間、淡い光が彼の掌から広がり、温かな波が彼女の全身を包んでいった。
「……っ」
リズリィの唇から短い息が漏れた。痛みではない。血の気を失っていた体に、心地よいぬくもりが染みわたり、緊張がほどけていく感覚だった。
彼女は目を見開く。
「まさか……こんな魔法……」
傷口がみるみる塞がっていく。深々と刻まれていた裂傷が薄皮で覆われ、やがて痕跡すら残さずに消えていった。痛みが和らぐたびに、リズリィは驚愕と安堵の入り混じった表情を浮かべた。
「……本当に……なくなっていく……」
声には無意識の震えがあった。戦場で幾度も瀕死を乗り越えてきた彼女だが、ここまで完全に癒された経験はなかったのだろう。
「そんなことも、できるのか……?」
リズリィが呟く。
健司は微笑んだ。
「僕の力は、みんなが思ってる魔法とは少し違う。でも……傷をなかったことにするくらいは、できる」
その答えに、仲間たちが息を呑んだ。
クロエが思わず声を上げる。
「……傷を、なかったことに……? 時間を逆行させたような……」
エルネアが眉をひそめ、リーネが目を細めて呟いた。
「常識では考えられない魔法だね……」
森の空気が一瞬静まり返った。
その時――。
倒れていたラグナの瞼がわずかに動いた。
誰もがその変化に気づき、緊張の面持ちで彼を見つめる。
ゆっくりと、重く沈んでいた瞳が開かれ、青白い光を宿した眼差しが健司の姿をとらえた。
「……その魔法……やはり……」
かすれた低い声が漏れた。
「……あの魔女に……近いものがある……」
ラグナはまだ半身を起こすこともできない。だが、その眼差しは鋭く、揺るがぬ確信を湛えていた。
クロエが驚きの声を上げる。
「あの魔女……? どういう意味?」
ラグナはゆっくりと息を吐き、視線を宙に漂わせた。
「西の国には……三つの勢力に分かれた魔女の集団が存在する。その中のひとつ……『慈悲』を司る魔女が率いる集団がある」
その言葉に、空気が張り詰める。
アナスタシアが口を開いた。
「……カリストのカリオペのことか?」
ラグナは首を横に振る。
「いや……カリオペは確かに慈悲を語るが、それは味方に対してだけだ。敵と見なした者には、容赦の欠片もない。だから違う……」
「じゃあ……?」
とクロエが眉を寄せる。
ラグナの瞳が鋭く光った。
「ソール。あいつはカリストの者ではない。むしろ……カリストと敵対する国から送り込まれたスパイだ」
仲間たちはざわめき、思わず互いに視線を交わした。
アナスタシアが低く問う。
「……本当なのか?」
「間違いない」
ラグナは強い声音で答えた。
「奴の戦い方、面白いという言葉……すべてが証明している。ソールは『あの国』の者だ」
クロエは混乱を隠せない様子で健司に向き直る。
「健司……やっぱりあなたの力は……」
健司は肩をすくめ、静かに笑った。
「僕は僕だよ。難しいことは分からない。でも……仲間を守れるなら、それでいい」
その言葉に、皆の表情が和らいだ。
ラグナもまた、薄く笑みを浮かべる。
「……愚直だな。だが……それが強さかもしれん」
しばし沈黙が落ちる。
やがて健司が声を上げた。
「とにかく……今はリヴィエールに帰ろう。休むべきだ」
リズリィが目を細める。
「……本当に、私たちも一緒でいいのか?」
健司は迷いなく頷いた。
「もちろんだよ」
ラグナが静かに問う。
「……いいのか? 私たちは敵だったんだぞ」
その問いに、カテリーナが口を挟んだ。
「健司はそういう奴なんだよ。敵とか味方とか、そんな枠組みじゃ見てない。……だから私たちも、ここまでついてきたんだ」
リズリィはわずかに唇を噛み、目を伏せた。
胸の奥に、これまで感じたことのないざらついた感情が芽生えていた。それは屈辱ではない。むしろ……救われるような安らぎに近かった。
「……勝手にしろ」
小さく呟き、彼女は視線を逸らした。
健司は立ち上がり、仲間たちを見渡した。
「じゃあ、帰ろう」
森を抜ける風が、一行の背を押した。
彼らは互いに肩を支え合いながら、傷跡の残る森を後にして、リヴィエールへの帰路についたのだった。




