リズリィの過去
リズリィの心に、赤い月が浮かんだ。
小さな村での暮らしは、今でも彼女の胸を締めつける。木々に囲まれた土地で、彼女は父と母と共に慎ましくも幸せな毎日を送っていた。母の作る温かなスープ、父の大きな背中。そこには戦いも、差別も、憎しみもなかった。
ただ――ある日、その日常は唐突に崩れ去った。
「……逃げなさい、リズリィ!」
父の叫び。母の涙。炎に包まれる村。
村を襲ったのは、数十人の魔女の集団だった。血統など関係なく、ただ自分たちの力を誇示するために、平和な村を焼き払った。リズリィは両親の手に押され、泣きながら夜の森を駆け抜けた。振り返れば、空には赤い月が不気味に浮かんでいた。
――あの時、力があれば。
――あの時、守れたなら。
その思いが、彼女を魔女としての修練へと駆り立てた。月の魔法を選んだのも偶然ではない。血に染まった夜空が、彼女に刻んだ宿命だった。
だが、気づけば彼女は「審問官」と呼ばれる側にいた。
血統を誇る国カリスト。その理想にすがったのは、自分が守りたいと願った「仲間」を得られると信じたからだ。力を持たぬ者は排斥される。そうした現実を知りながらも、彼女は居場所を求めてしまったのだ。
――そして今、目の前にいる青年は言った。
「リズリィさん、クラリーチェさん。あなた方は血統なんてどうでもいいはずだ。仲間が欲しかったんでしょう?」
静かな声。だが、その言葉は心の奥底を突いた。
クラリーチェが小さく息を呑む。彼女もまた、孤独を知る者だった。
「……そうだな」
リズリィは低く答えた。
「私は……カリストは理想的だった。血統を持つ者が集まる場所、強き者が認められる場所……そう信じていた」
「でも、本当に欲しかったのは血統じゃない」
健司は一歩踏み出す。
「ただ、信じ合える仲間でしょ?」
その瞬間、リズリィの胸に押し込めていた叫びが揺らいだ。
――そうだ。あの夜、赤い月に誓ったのは「血統のため」ではなかった。
「守れる力が欲しい」「一人じゃないと感じたい」その願いだけだった。
クラリーチェも唇を噛みしめた。
「……私たちは、あまりに多くを拒絶してきた。人を疑い、血統を盾にして……。でも、それは……仲間を得るためじゃなかったのかもしれない」
リズリィは目を伏せ、苦笑した。
「それを気づかせるのが……敵だったあんたたちとはな」
「敵なんて思ってない」
健司の声は穏やかだった。
「審問官の人たちも、一緒にリヴィエールで住みませんか?」
リズリィの肩がびくりと震えた。あまりにも突拍子もない提案だった。審問官は、カリストの支配を支える存在。その彼女たちに、平和の街リヴィエールで共に暮らそうと言うのだ。
クラリーチェが小さく首を振った。
「……しかし、私たちは……罪を背負いすぎている。カリストで流した血、奪った命……。リヴィエールに迎えられる資格など……」
その時だった。アナスタシアが一歩前に出た。
彼女の目は強く、しかしどこか優しさを帯びていた。
「大丈夫だよ。ラグナなら……きっと許してくれるさ」
「……ラグナ様が?」
リズリィは目を見開く。
彼女にとってラグナは審問官の象徴、絶対的な存在だった。その彼女が許すというのか。
だが今、そのラグナはソールに精神を乗っ取られたまま目を覚まさない。強大な力を誇ったはずの彼女が、今は無防備に眠り続けている。
その姿を見るたび、リズリィは心にざわめきを覚えていた。強さで全てを覆い隠す彼女でさえ、こうして脆さを見せるのかと。
「……もし、本当にラグナ様が……」
リズリィの声は震えていた。
「それでも、私には……」
健司が静かに手を差し伸べた。
「リズリィさん。過去は消せない。でも、未来は選べる。血統なんてどうでもいい。君が欲しいのは、ただ信じ合える仲間でしょ? なら、その仲間にならせてほしい」
一瞬、時が止まったようだった。
炎に包まれた村の記憶、赤い月の記憶、仲間を求めたはずの審問官での日々。全てが頭を駆け巡る。
そして――リズリィの頬を、一筋の涙が伝った。
「……お前、本当に……甘いな」
「甘くていいさ」
健司は笑う。
「でも、その甘さで救えるなら」
リズリィは俯いたまま笑った。
「……救われる側の気持ちも考えろよ」
クラリーチェもまた、そっと目を閉じた。
「……ああ。本当に……変な男だな。だけど、不思議と……心が軽くなる」
アナスタシアが小さく頷いた。
「そういう男だ。私も、そうやって救われた」
リズリィとクラリーチェは互いに視線を交わした。長く共に歩んできた二人の間に、言葉を交わさずとも通じ合うものがあった。
――もう、抗う理由はない。
血統でも、誇りでもない。ただ「仲間」として。
「……いいだろう」
リズリィが低く呟いた。
「リヴィエールで……一緒に」
「ただし」
クラリーチェが続けた。
「過去の罪は消えない。受け入れるのは簡単ではないはずだ。それでもいいのか?」
健司は力強く頷いた。
「もちろんだ。仲間だから」
その言葉に、二人の魔女は小さく微笑んだ。
――赤い月に誓った願いが、ようやく叶うのかもしれない。
夜空を仰ぐと、そこにはもう血に染まった月はなかった。澄み渡る空に、やわらかな光が広がっていた。




