現実の証明
月の光を覆うような分厚い雲が、谷に立ち込めていた。
山と岩壁に囲まれたその場所は、外の世界から隔絶された、魔女たちの隠れ里――“アスフォルデの環”と呼ばれていた。
空気は冷たく、湿った苔と古い記憶の匂いが辺りを包む。
谷の中心には、灰色の塔がそびえ立っていた。塔の頂上にある執務室、そこがエルネアの居場所だ。
重たい扉を開けて、ヴェリシアは部屋に足を踏み入れた。
「戻りました」
窓辺に立っていたエルネアは、振り返らなかった。
「……話して」
「はい。クロエは確かに人間と行動を共にしていました。名は、健司。能力は“感情を読む”……ただ、それだけではない。彼は、魔女たちを救おうとしている」
「人間が?」
エルネアは鼻で笑った。
「滑稽ね。救う? 自分たちが追い込んだ相手を?」
「ええ。でも……彼の言葉には、嘘がありませんでした。クロエは、それを信じている」
ようやくエルネアが振り返る。
その目は、深い赤――燃えるような色をしていた。
「ヴェリシア。あなたは、信じたの?」
「……判断がつきません。ただ、クロエが“本気”だということだけは、確かです」
エルネアは机の上の地図に視線を落とした。
人間の領域と魔女たちの避難地、そしてクロエたちが進んでいるであろう道。
「甘いわ、クロエも、あなたも」
「……エルネア様?」
「人間の言葉に耳を傾けるようになった時点で、もう判断力は鈍る。そんなに夢を見るなら、見せてやればいい。人間の“現実”を」
エルネアは椅子に腰掛け、指を鳴らす。
すると、部屋の奥に控えていた魔女が一人、静かに現れた。
黒いフード、静かな気配、だがその内側には鋭利なナイフのような冷たさがある。
「……彼女を連れて行きなさい」
「ローザを、ですか?」
「ええ。あの人間に、“魔女と関わる”ということがどういうことか、教えてあげるのよ。ローザなら……無駄な情など挟まない」
ローザは言葉なく、静かにうなずいた。
その瞳はどこか虚ろで、しかし深い憎悪を湛えている。
「確認しておくわ。命を奪えとは言ってない。ただ……“壊せば”いいのよ。心でも、信頼でもね」
ヴェリシアは一瞬、ためらった。
エルネアの言葉に、何か違和感を覚えたからだ。
「エルネア様。もし、彼が――健司が本当に、私たちを理解しようとしているのなら?」
「ならば、その理想がどれだけ脆いか、試すだけよ」
「……わかりました」
ヴェリシアはそう言って頭を下げ、ローザと共に部屋を後にした。
廊下を歩きながら、ローザは一言も発さなかった。
彼女はかつて、人間に家族を焼き払われ、自身も能力を制御できずに孤独になった過去を持つ。人間に対する信頼は、かけらも残っていない。
「ローザ。少しだけ聞いてもいい?」
「何?」
「もし、健司があなたの心に触れようとしてきたら、どうする?」
ローザは一瞬止まり、ヴェリシアを見つめた。
「切るわ。躊躇なく」
「……そう」
再び歩き出す足音が、石の床に反響した。
⸻
その夜、塔の最上階で、エルネアは一人、古い本をめくっていた。
魔女たちの記録、迫害の歴史、そして裏切りの数々。
「変わらないのよ、人間は……いくら優しい顔をしていても、心の奥には恐怖と偏見しかない」
そう呟きながら、彼女は目を閉じた。
「クロエ……あの子も、いつか傷つくわ。でも、それでいい。痛みでしか気づけないこともある」
エルネアの瞳が再び赤く光った。
それは、慈愛とは別のもの――守るために選んだ“厳しさ”だった。
⸻
谷の入り口で、ローザは一人立っていた。
夜風がその黒い衣をはためかせる。
彼女の瞳は遠く、クロエと健司のいる方向を見つめていた。
「信じる、ね……なら、それがどれだけ脆いか、見せてあげるわ」
その声は、まるで刃のように、夜の静けさを切り裂いた。




