クロエの愛
高原の空は鈍色に染まり、戦いの余韻を帯びた風が吹き抜けていた。
健司たちが立つ石畳は、先ほどまでの魔法の衝突によって無惨に砕かれ、黒く焦げ付いている。崩れた壁の陰には、街の人々が怯えながら様子を窺っていた。
その場に、異様な存在感を放つ男が立っていた。
ソール――カリストの影に潜む、純血主義の中心人物。その眼差しは冷たく、凍えるほどの支配の気配を漂わせている。
「……クラリチェーナ」
低く響く声に、場の空気が凍りついた。
名を呼ばれた女――クラリチェーナは、微かに肩を震わせた。
彼女の長い髪が揺れ、紫がかった瞳に恐怖が宿る。かつて冷徹に振る舞い、幾多の敵を葬ってきた彼女の姿からは想像できないほどの震えだった。
「ラグナ様……」
その声には、服従と畏怖が絡み合っていた。
ソールは一歩前に出る。大地が軋むように空気が揺れた。
「クラリチェーナ……あの頃を忘れたか。裏切りの代償を」
彼女の脳裏に、過去の光景が閃いた。血と絶叫に染まる記憶。彼女がラグナの命に従い、抵抗する仲間を斬り伏せたあの日。
誰も逆らえない――そう刻み込まれた絶対の恐怖。
「戻りたくはないはずだ。ならば……戦え」
ソールの声は冷たく、命令というより呪縛だった。
クラリチェーナは唇を噛みしめ、剣を構えた。その震える手を見た瞬間、クロエが前に出た。
「クラリチェーナ!」
クロエの瞳は真っ直ぐで、揺らぎがなかった。
「あなたを救ってみせる。ソールなんかに縛られたままじゃ駄目だ!」
クラリチェーナは俯き、唇を震わせる。
「……無駄だ。ラグナ様には逆らえない」
彼女の言葉に、場の空気が一層重く沈んだ。
その瞬間、クラリチェーナが手をかざした。
「ブレインソウル」
ぞわりと空気が震え、紫黒の光がクロエを覆う。
それは相手の記憶を操作し、書き換える禁断の魔法。受ければ自我が崩壊し、人格すら消えてしまう。
クロエの身体が硬直し、意識が引きずり込まれていく。
(……だめ……記憶が……)
クラリチェーナの声が響く。
「すまない。これが……現実だ。私には抗えない」
クロエの視界が暗転しかけた、その時。
――涙。
「……え?」
クラリチェーナの頬に、知らぬ間に熱い雫が流れていた。
「な……ぜだ……なぜ、私は泣いている……?」
クラリチェーナの声が震え、魔法の光が揺らいだ。
クロエは、薄れゆく意識の中で彼女を見た。
「……あなた、記憶を……見たのね……」
クラリチェーナは瞳を見開いた。
頭の中に流れ込んできた。
クロエが胸に抱き続ける、ひとりの男への想い。
健司と過ごした日々。優しい笑顔。触れた温もり。
――確かにそこにあった、愛の記憶。
「これが……愛……なのか……」
クラリチェーナは剣を取り落とし、両手で顔を覆った。嗚咽のような声が漏れる。
「私には……なかった……感情……」
クロエは膝をつきながらも微笑んだ。
「そう……あなたは気づいた。なら、もう大丈夫」
クラリチェーナは崩れるように地面に膝をつき、力なく呟いた。
「……負けだ。私は……あなたに……」
その瞬間、光が揺らぎ、ブレインソウルの効果は消え去った。
駆け寄る影。
「クラリチェーナ!」
ヴァルディアとノイエルが彼女を抱きしめる。
ヴァルディアの瞳には涙があった。
「やっと……戻ってきてくれたんだな」
ノイエルも強く抱きしめ、震える声で言った。
「もういい……もう戦わなくていいんだ……」
クラリチェーナはその胸の中で泣き崩れた。
愛を知らなかった彼女が、初めて温もりに触れ、涙を流した瞬間だった。
だが――その光景を見たソールが激怒した。
「……くだらぬ! 軟弱者どもが!」
怒号と共に空気が裂けた。
ソールの身体から禍々しい闇が噴き出し、地面がひび割れる。
「愛だと? そんな幻想のために、力を捨てるというのか!」
彼の瞳には狂気が宿っていた。
「この世を縛るのは恐怖だ! 愛など塵芥にすぎぬ!」
その時――轟音が走った。
「黙れッ!」
叫んだのはアナスタシアだった。
その瞳には憤怒の炎が燃えている。
「お前のような奴に……仲間を弄ばせはしない!」
彼女が両手を広げ、詠唱する。
「――ウォーターブルース!」
大地が震え、天から奔流が降り注いだ。
濁流ではない。圧縮された一点集中の水塊。
その重さは一トンを超え、ソールを直撃した。
「ぐぅっ……!」
ソールの身体が弾き飛ばされ、黒い靄が吹き散った。
「この程度で……!」
彼は呻き、必死に抵抗したが、圧倒的な水圧に押し潰される。
だが次の瞬間――彼の身体がふっと掻き消えた。
残ったのは、黒い残滓だけ。
「……精神だけで逃げた?」
リセルが呟いた。
ソールは肉体を保てず、精神体だけで空間を抜け出したのだ。
まだ終わってはいない。彼は必ず戻ってくる。
しかし――その場に残った者たちは、深く息をついた。
審問官との、長く苦しい戦いは……ひとまず、終わったのだ。
クラリチェーナは泣き崩れながらも、抱きしめる仲間の温もりに縋っていた。
彼女の心に芽生えた愛の感情は、もう消え去ることはない。
そして健司は、静かにその光景を見つめていた。
「……これが……愛の力」
遠く、薄雲の切れ間から差し込む光が、戦場を優しく照らしていた。




