魔女たちの静かな語らい
スラリーの夜は、昼のざわめきが嘘のように静まり返っていた。
外は月が雲間に隠れたり現れたりを繰り返し、薄暗い光が街並みを淡く照らしている。
戦いの余韻がまだ空気の奥底に残っているようで、時折、遠くの方で人々の低い話し声や、馬車の車輪の軋む音が聞こえるだけだった。
その宿の二階、奥まった位置にある一室。
壁には蝋燭が一本灯され、その炎が小さく揺れながら部屋を暖かな橙色で包んでいた。
テーブルの上には湯気の立つポットと三つのカップ。
アナスタシアとノエル、そしてラグリナが、その小さなテーブルを囲んで座っていた。
「……アナスタシア様、こうして会える日が来るとは思っていませんでした。」
ラグリナがカップを両手で包みながら、感慨深げに言った。
その声には安堵と喜びが入り混じっている。
アナスタシアは微笑みを返し、ゆっくりと頷いた。
「私もよ、ラグリナ。……そしてノエルも。こうして無事に再会できたのは、健司のおかげね。」
ノエルは小さく笑って、視線を落とした。
「健司は……本当に不思議な人ですね。カリストの審問官すら救おうとするなんて。」
ラグリナも頷いた。
「普通なら敵として処断するでしょうに。
それに……ただ生かすだけじゃなく、彼は心の傷まで癒そうとする。そんな人、見たことがありません。」
アナスタシアは少しだけ表情を引き締めた。
「確かに。……でも、あの魔法に関しては、正直、異次元と言っていいわ。
あれは、私が知る限りの魔法体系から外れている。
概念として、ありえないはずのもの。」
ノエルは身を乗り出した。
「ありえない……というのは?」
「普通、魔法は自然の理や魔力の流れに沿って発動するものよ。
癒やしの魔法は、肉体の損傷を修復するか、痛みを軽減するか――その範囲に限られる。
けれど健司のは、“なかったことにする”でしょう?
傷だけじゃない、心の痛みも、時間そのものを巻き戻すように……。」
ラグリナが息を呑む。
「つまり……因果を逆流させている……?」
「そう。」
アナスタシアはゆっくりと頷く。
「でも、因果を直接操作する魔法は、理論上不可能とされてきた。
それは世界の法則に反する行為だから。
なのに、彼は……自然にやってのける。」
少し沈黙が落ち、蝋燭の炎がかすかに揺れる。
ノエルが口を開いた。
「……西の国に、“愛”を教義とした組織がありますよね。」
「ええ。」
アナスタシアが頷く。
「表向きは慈愛と平和を説く教団。人々を守り、助け合うことを掲げている。……でも、健司のそれとは違う。」
ラグリナが首をかしげた。
「どう違うんですか?」
アナスタシアは少し考え、慎重に言葉を選びながら答えた。
「あそこは……排他的なの。自分たちの”愛”の形に従わない者を認めない。
“正しい愛”は一つだけだと信じ、そこから外れた者を異端として扱う。
そして……異端に対しては、容赦なく攻撃的になる。」
ノエルが眉をひそめた。
「なるほど……それは”愛”ではなく、支配ですね。」
「そう。」
アナスタシアは小さくため息をついた。
「健司のは……そういうものじゃない。
彼は自分の価値観を押しつけない。
相手が何者であろうと、その人が生きるための道を探す。
そして、その人自身が選べるようにする。」
ラグリナはその言葉を聞きながら、カップの中の茶を見つめた。
健司と初めて出会ったときのことを思い出す。
あのとき、自分は絶望の淵にいた。
でも、彼は何も強制せず、ただ自分の手を取ってくれた――。
その温かさは、未だに胸の奥に残っている。
「……でも、あの人のやり方は危うくもあります。」
ノエルが口を開いた。
「敵を救うことで、別の脅威を生み出す可能性もある。
審問官たちが本当に変わる保証は……ない。」
「それは分かってる。」
アナスタシアは頷く。
「それでも、彼は選んでいるの。
“可能性を信じる”という選択を。」
ラグリナは小さく笑った。
「……私たち魔女よりも、魔女らしいのかもしれませんね。」
部屋の外から、遠く鐘の音が響いた。
夜が深まり、街全体が眠りにつこうとしている。
けれど、この部屋にいる三人の心は、まだ眠りから遠かった。
蝋燭の炎がまた揺れ、三人の影を壁に映し出す。
その影は、やがて一つの大きな形に重なっていくように見えた――。




