針葉樹の森
夕暮れ前、森は深い影に包まれ始めていた。
枝葉の間から差し込む光は、長く伸びた影を不気味に揺らし、足元の苔や落ち葉を銀色に縁取る。
この森は、人の手がほとんど入らぬ領域――野生の獣と魔女たちの小さな契約のみによって守られてきた。
その静謐を破る足音が、複数、規則正しく響いていた。
先頭を行くのは、ノイエル。
黒衣に銀の装飾が施された長衣をまとい、腰には細身の剣。冷ややかな瞳は常に前方を射抜き、無駄な動きは一切ない。
彼女の隣には、長い金髪を背に流した魔女、ヴァルディア。
淡紫色のローブに、肩から垂れるマントの縁取りには精緻な符文が刻まれている。それは彼女の魔法の系統――「忘却」と「精神抑制」を象徴する印だ。
その背後に、カリストの旗を持つ数人の魔女たちが続く。
彼女たちの表情は硬い。今から向かう先が、ただの追跡では終わらないことを知っているからだ。
ヴァルディアがふっと笑った。
その笑みは美しくも冷たく、情けを装いながらも本質は刃のように鋭い。
「……所詮、いくら絆があろうが無理だわ」
その声は、まるで心の奥に直接届くような、柔らかくも侵略的な響きを持っていた。
「私の魔法で……すべて忘れてあげる」
その言葉には、嘲笑でもなく、単純な敵意でもない――相手を“保護”してやるという歪んだ優越感が滲んでいた。
ノイエルは、長い間の付き合いから、その響きが本気であることを理解していた。
「……そうだな。ヴァルディアの魔法があれば……な」
しかしその声音には、同意というよりも“計算”の響きがあった。
彼女は知っている。忘却は確かに強力だが、強い意志や魂の核を持つ者には通じないことがある。そして今回の相手――特に“あの二人”は、その例外である可能性が高かった。
その時だった。
木々の間に漂う空気が、一瞬にして変わった。
ただの風ではない。熱を帯びた圧迫感が、森全体を押し潰すように広がっていく。
先に感じ取ったのはヴァルディアだった。
「……来たわね」
木立の奥、深い影の中から三つの影がゆっくりと歩み出てくる。
ヴェリシア、リセル、そしてリーネ。
それぞれが異なる色と気配をまといながらも、歩調はぴたりと揃っていた。
ヴェリシアは、長い赤髪を背に流し、金の装飾が施された杖を片手に持っている。
その瞳は深い青で、氷の静けさと炎の情熱を同時に宿していた。
彼女の口元が、冷たくも毅然と動く。
「――ここまでよ」
短いが、揺るぎない声だった。
その瞬間、森の音が遠ざかり、三対の視線が空中で火花を散らした。
ノイエルが薄く笑い、わざとらしく首を傾ける。
「ほう……“アスフォルデの環”のヴェリシアじゃないか」
そして視線を横に滑らせ、リセルとリーネを見やる。
「人間に飼い慣らされている魔女たち、というわけか……。
お前たちがそんな鎖を誇りにしているとはな」
その言葉が終わるよりも早く――
空気が、重く、熱く、鋭く変質した。
リセルだ。
長い銀髪が、風もないのにふわりと舞い上がる。
その瞳は紅蓮に輝き、感情の奔流が抑えきれずにあふれ出していた。
「……飼い慣らされてる、だと?」
低い声が震える。
「ふざけるな……!」
瞬間、彼女の周囲に赤黒い闇のような魔力が迸った。
それは闇ではなく、魂そのものを灼き尽くす“怒り”の具現だった。
ノイエルの足元の枯葉が、パチパチと音を立てて焦げる。
ヴァルディアでさえも、わずかに目を細めて防御の構えを取った。
「お前だけは……許さない」
彼女の声は、森の中で低く響く。
ヴァルディアはそんなリセルを見て、薄く笑った。
「なるほど……強い感情。いいわ、それも忘れさせてあげる」
彼女は手をかざし、淡紫色の霧が指先から広がっていく。
それは空気に溶け、見る者の記憶を静かに蝕む忘却の霧――だが、その前にヴェリシアが杖を構えた。
「……それ以上は、許さない」
青白い光が杖先に宿り、霧と衝突して火花のような魔力の粒子が弾ける。
リーネは既に詠唱を開始していた。
彼女の足元から複雑な魔法陣が広がり、地面の苔や根が微かに振動する。
それに呼応するように、森の奥から獣たちの低い唸り声が聞こえた。
ノイエルは剣をゆっくりと抜き、笑みを浮かべる。
「面白くなってきた……」
そして、低く呟く。
「捕らえろ――生きても、死んでも構わん」
その号令とともに、森の中の空気が一斉に爆ぜた。
戦いの幕が、いま開こうとしていた――。




