追手
木造三階建ての古い宿は、山間の夜風に包まれていた。外では虫の声と、かすかな高原の冷気が混じり合い、心地よい静けさを作り出している。
健司は、一階の広間で帳簿をめくっていた。宿の管理人の手伝いではない。彼が興味を持っていたのは、宿の古い記録、つまりこの街の来訪者や商隊の足取りだった。カリストの動きや、見知らぬ魔女の訪問を事前に察知するためだ。
ドアが静かに開き、夜気と共に二つの影が入ってくる。
アウレリアだった。そして、その後ろに――
「……あの時の……」
健司の視線が驚きに変わる。クラリーチェやリズリィと共に、この街へ一度現れたことのある、二人の魔女――ラグリナとノエルだった。
二人とも、かつての冷たい眼差しは影を潜め、疲労と安堵の混ざった顔をしていた。
「健司」
アウレリアは軽く微笑み、二人を促して前に出した。
「紹介は不要でしょうけど、一応。ラグリナとノエル。……もう、カリストの鎖から解き放たれたわ」
「解き放たれた……?」
健司が眉をひそめる。
ラグリナが深く頭を下げた。
「……あの時、私たちはクラリーチェの魔法に囚われていました。アナスタシア様に仕えていたはずが……意思を奪われ、あなたに敵対する側に立たされていた」
「でも、今は違います」
ノエルも続いた。
「洗脳が解けたんです。あなた様のおかげで」
健司は静かに息をつき、そして柔らかく笑った。
「……おめでとう。長い間、つらかったでしょう」
その表情に、二人は一瞬言葉を失った。敵として対峙していた時とは全く違う、温かく包み込むような声音。それは戦場で鍛えられた魔女たちの心をも容易く溶かしていく。
「……それに、嬉しいお知らせがあります」
健司はゆっくりと言った。
「アナスタシアさんがリヴィエールで、あなたたちを待っていますよ」
その言葉に、ラグリナとノエルの目が大きく見開かれる。
「アナスタシア様が……!」
ラグリナの声は震えていた。
ノエルも信じられないように、健司とアウレリアを交互に見た。
「……本当に……?」
「ええ、本当よ」
アウレリアが笑う。
「私もリヴィエールで会ったの。昔と同じ……いいえ、昔よりも、もっと澄んだ瞳で」
二人の肩から、長く背負っていた重みがすっと消えていくようだった。
「……やっと……会える」
ラグリナは小さくつぶやき、涙をこらえた。
「でも……」
ノエルは急に顔を曇らせる。
「私たちがここにいることを、カリストはもう察知しているはず。ノイエル達が……この街に来るかもしれない」
その名が出た瞬間、広間の空気がわずかに張り詰めた。ノイエル――冷酷な審問官の一人。捕らえた者を徹底的に精神的にも肉体的にも追い詰めることで知られる。
「……だろうな」
健司は記録帳を閉じ、立ち上がった。
「追手が来るなら、迎える準備をしないと」
「戦うの?」
アウレリアが小首を傾げる。
「戦う必要があるなら、そうする。でも……僕のやり方は、あいつらの常識とは違う」
ラグリナとノエルは、彼の横顔を見つめた。その背には、不思議なほどの恐れのなさがあった。まるで「敵」という言葉の意味を変えてしまうような存在感。
「……健司」
アウレリアが低い声で言う。
「あなたがここにいる限り、この街は“戦場”にも、“聖域”にもなる。だからこそ、選びなさい。どう動くか」
健司は軽く笑った。
「僕は、守る方を選ぶ」
⸻
その夜、宿の二階の一室。アウレリアと健司、そしてラグリナとノエルが集まっていた。外は冷たい風が吹き、窓の外のランプが揺れている。
「カリストは必ず追ってきます」
ノエルが言った。
「ノイエルだけじゃなく、ヴァルディア、もしかするとクラリーチェやリズリィまで……」
「クラリーチェは……揺らいでいる」
アウレリアが静かに口を挟む。
「あの女はあなたを見て、恐れを感じた。死者を生き返らせる魔法……いいえ、“魔法ですらない力”を目の当たりにしてね」
ラグリナが小さく息を呑む。
「……やはり、あれは……」
「私たち魔女が扱う“力”とは違う」
アウレリアは健司を見た。
「それは、愛を媒介にして記憶と魂を呼び戻す、世界の理を超えた現象。だから、恐れられるの」
「……恐れられる、ね」
健司は窓の外を見やりながら呟く。
「でも、僕はただ……失ったものを取り戻したいだけなんだ」
ラグリナとノエルは、その言葉に心を打たれた。魔女として、奪うことはあっても、取り戻すことは滅多にない。
⸻
スラリーの街は、早朝から霧に包まれていた。宿の前を行き交う商人たちは、どこか急ぎ足で、街全体が落ち着かない様子を見せている。
ラグリナは通りを見下ろしながら、小声で言った。
「……嫌な予感がします」
アウレリアも頷く。
「追手が来るのは時間の問題ね」
健司は背後で荷をまとめながら笑った。
「じゃあ、迎えに行こうか」
「え……?」
ノエルが目を瞬かせる。
「待って迎え撃つより、先に動く方がいい。どうせ逃げても、街に被害が出るだけだ」
アウレリアはくすりと笑った。
「相変わらず、普通じゃないわね」
その頃、スラリーから北へ十キロほどの森道。濃い霧の中を、数人の黒衣の魔女が進んでいた。先頭を歩くのはノイエル。
「……奴らはこの先だ」
その瞳は冷たく光り、手には拘束用の呪具が握られている。
「ラグリナとノエル……必ず連れ戻す」
その背後に、もう一人の人影があった。
――ヴァルディア。無表情のまま、ただ前だけを見据えていた。




