Episode2
…ざわざわとした気配で意識が浮上する。
もう朝なのかな。チビ達のご飯作らなきゃ。確か今日は、お父さんが早朝から出張に出かける予定だった。美麒の保育園のお迎えにはいつも通り、おばあちゃんが行ってくれるはず。龍星は小学校が終わったら学童保育に行って、こちらもおばあちゃんがお迎えしてくれる。麒子は部活で帰りが遅くなるかも。もう中二になるし、そんなに心配しなくてもいいかな。
朝ご飯は昨日の帰りにタイムセールで買った卵があるから、ベーコンエッグとサラダ。後はコンソメスープとトーストにしよう。卵は半熟が喜ばれるだろうか。…卵?
そうだ。渼音と一緒に帰って、それで…公園で…
考えるより先に、ばっと身体が起き上がる。突如として意識が覚醒し、先程までの光景が一気に頭の中に甦った。
「渼音‼︎」
柔らかい感触が腕の中にあることに気がつき、ほっとすると同時に嫌な汗が身体中から流れ出るのが分かった。素早く周囲を見渡すと薄暗い部屋の中にいるようだ。広さはちょうど教室くらいの大きさだろうか。四隅に篝火のような光があるが、火でも電気でもない淡い柔らかな光だ。光が石造りの壁を照らしている。
公園にいたはずなのに、どうして室内にいるのかは重要ではない。それよりも今重要なのは見知らぬ男女が十人近く小声で何やら話しながら、じっとこちらの様子を伺っていることだ。
…誘拐?
嫌な響きの言葉が実感を伴い襲ってくる。私に誘拐される程の価値がないことは自分が一番よく知っている。だが、一緒にいるのはあの北条渼音だ。現役の人気女子高生モデルにして、資産家の一人娘でもある。恐らく犯人達の狙いは渼音に違いない。私が、守らなきゃ。
「んっ…んっ。…んぅー。」
腕の中の渼音が、身じろぎをして大きな目をゆっくりと開ける。
「…龍貴ちゃんだぁ。えへへ。」
起き抜けに私の顔を見つけると、にへらと笑って見せる渼音。当たり前だが、今のこの状況をまだ理解していない彼女はいつも通りの美少女だ。とても可愛らしい仕草で、私の胸に顔をすりすりとうずめてくる。柔らかい感触がして、彼女が髪を揺らす度に良い匂いがふんわりと鼻腔をくすぐる。
…なぜ美少女ってやつは良い匂いがするんだろう。って、そんなことを考えてる場合じゃないんだけど。でもなぁ、ちょっとあざと可愛すぎやしませんか?この子。子猫ですか?子犬ですか?いいえ、北条渼音さんです。
あと柔らかい感触は女の子特有のものであって、決して私と比べて豊満な、ある部分が当たっているせいではありませんから。ええ、決して。私だってそれなりに柔らかいはずなんですよ。きっとね。
いつも通りの渼音に安心して、少しだけ冷静さが戻ってくる。幸いなことに身体は拘束されていないし、ざっと渼音を見たところ暴力を振るわれた形跡も、変な悪戯をされたような形跡もない。
「渼音、落ち着いて聞いてね?」
小首を傾げる渼音の目をじっと見つめて、身体をきつく抱きしめて告げる。
「たったっ龍貴ちゃん⁉︎」
「ちょっとだけ、まずい状況になってるかも。でもね、渼音のことは何があっても私が守るから。だから、大丈夫。」
「…うん。うん、信じてるよ。だって、龍貴ちゃんはいつだって、私を守ってくれるって知ってるもん。」
私の言葉になぜか真っ赤になり、瞳を少し潤ませた渼音が小さくこくりとうなずく。そんな渼音をもう一度ぎゅっと抱きしめると、目配せをして周囲を見渡すように促した。私につられて周囲に視線を彷徨わせた渼音が、一瞬で状況を理解して緊張したのが分かる。この子はとても賢い子なのだ。
震える手で私の袖口をぎゅっと握りしめ、声にならない声が口元から溢れ出す。
その時だった。こちらをじっと覗っていた十人余りの男女が、私たちに向かって一斉に跪く。行動も意味不明で恐ろしいが、ローブのようなお揃いの見慣れない衣装を身につけている所が更に異様さを際立たせているし気味が悪い。まるでアニメやゲームに出てくる魔法使いのような格好だ。
そしてその間をかき分けるように、カツカツと靴音を響せ一人の男がこちらに向かって歩いてきた。一人だけ白に所々金糸が用いられた豪華な感じのスーツというか儀仗服?に近い感じのようなものを着ている。
「はじめまして。わたしはティエリー・ニステルローイと申します。」
私達を刺激しないためなのだろうか。距離をとった位置で立ち止まると、優雅な立ち振る舞いで胸に手を当ててお辞儀をする。一目でよく鍛えられていることがわかる引き締まった体躯。所謂、細マッチョというやつだ。身長は高く、悠に180センチは超えているだろう。目が覚めるような色合いの金髪はミディアムショートに清潔に整えられており、瞳はよく晴れた日の空のような碧眼だ。何よりこの世のものとは思えない、どこか作り物めいたその美貌に息を呑む。普段、渼音の傍にいて美顔は見慣れている私でも、驚くほどの御尊顔である。
「…この度は突然のご無礼を働き、誠に申し訳ございませんでした。」
彼は端正な顔を歪ませ、深々と頭を下げる。言葉だけの謝罪ではなく、心底申し訳なさそうな感情がこちらにも伝わってくる。
「…あの、ここは何処ですか?それにいったいこの状況は…。私と渼音は、公園にいたはずで…。突然、光に包まれたと思ったらこの場所にいたんです。これは、あなた達の仕業なんでしょうか?」
さりげなく渼音を後ろに庇える位置に移動ながら問いかける。彼は悪い人ではなさそうだが、突然の事態に自分の声が思ったより鋭く尖っているのが分かった。正直、この訳の分からない状況でいきなり謝られても困るのだ。
「そうですよね…。順を追ってご説明致しましょう。まず、ここはニステルローイ王国。その王都であるアイマールにある王城の一室です。そして、あなた達がここにいる理由。それは、わたしたちが行った転移魔法の結果。すなわち、聖女召喚の儀式によるものです。」
「「…転移魔法……。」」
あまりにも現実離れした説明に、私と渼音は言葉を失うより他に術がなかった。