第八話 喧嘩
その時、入口ドアが荒々しく開く音が聞こえた。
室内のロッカーは入口に面する形で三列並んでおり、私が座っている奥のベンチからドアの方は見えない。
「何するんですか、離してください」
「離して欲しかったら正直にしゃべりなさいよ」
女性二人が何やら言い争っている。
「人に見られますよ」
「私は構わないわ。困るのはそっちでしょ」
私は身を潜め、物音を立てぬようにした。
「一体どんな手を使ったのよ」
「何の話ですか」
「とぼけるんじゃないわよ。ミミはあんたみたいな新人に背負える役じゃない。どんな汚い手を使って最終選考に残ったかって聞いてるのよ」
「私はただ、座内オーディションを受けて……」
一人は中年女優の西條敦子、もう一人は片桐あずさのようだ。
「嘘をお言い。ちゃんと分かってんだよ。あんたが役を獲るために何をしたか」
「何をしたっていうんです」
「みんな知ってることさ」
「だから何をしたっていうんです」
「ふん」
「言えないじゃないですか」
「言えるさ」
「じゃあ、言ってください」
西條敦子は一瞬口ごもった後、
「言葉にするのも汚らわしいね」と吐き捨てた。
「どうしてですか」片桐あずさの声がトーンを上げた。「それは以前、西條さん御自身がなさっていたことだからですか」
「何だって!」
「ご自分がそうだったからと言って、私まで同類とみなすのはやめてください」
「もういっぺん言ってみろ」
西條敦子が片桐あずさに掴みかかったのだろう。どん、とロッカーに身体がぶつかる音が聞こえてきた。私はいたたまれない気持ちで、身を隠す場所をあわてて探したが、更衣室内にそんなところはどこにもない。
「やめてください」
「ふざけたこと言って。出演できない身体にしてやる」
「ごめんなさい。許してください」
「誰が許すか」
本格的な乱闘に発展してしまった。というより、敦子が一方的にあずさに暴力を振るっているようだ。
どうしよう。どうしたらいい?
「助けて!」
あずさが叫びながら奥に向かって駆けてくる。まずいと思って身を強張らせ気配を消すが、透明人間になれるはずもない。あずさは足を止め、はっとしたように私を見た。
気まずそうな、それでいてどこか安堵した表情がその顔に浮かぶ。
後からどかどかと駆けてきた敦子も私の姿を捉えた途端、振り上げた拳を凝固させ、それから誤魔化すように右腕を降ろした。
ちっ、と舌打ちするような音を発し、何も言わずに引き上げていく。
「ありがとうございます。助かりました」
あずさが紅潮した顔で、身体を折りたたんだ。
「いえ……」
別に助けたわけじゃないわ。ただまぬけ面でここに座っていただけ。
私は逃げるように腰を上げ、黙礼して出口へと向かう。
「徳大寺さんも気をつけたほうがいいですよ」
あずさが言った。
「え」
と振り返る。
「西條さんです。あの人、普通じゃありませんから」
私はそれに応えず、ただ薄く笑って更衣室を出た。劇団内の人間関係のトラブルに巻き込まれたくなかった。巻き込まれて怪我を負うのはこちらだ。
華やかな世界の裏側には、必ずドロドロとした嫉妬や欲望が渦巻いている。オペラの世界にいた時に嫌というほど味わった。表面上はみな温和なほほ笑みを浮かべているが、その内実は常に自分を脅かす者の影に怯え、あるいは目の上のたんこぶを蹴落としてやろうと躍起になっている。全ては競争なのだ。
私たち歌手や俳優は、いくらでも代わりが存在する。古い者が去れば、すぐに新しい者がその座を取って代わる。一旦自分の椅子を失った者は、よほどのことがない限り復活は難しい。たいていはそのまま忘れ去られていく。
そうなれば私の母のように、残りの人生を悔恨と過去の栄光にすがることで生きていくほかない。年老いて用済みとなった女優ほど哀れなものはこの世にないのだ。