第七話 貝原誠
午後七時までミザンス稽古が行われ、その後私は琴美から個人的に演技指導を受けた。
他のメンバーも帰宅する者は一人もおらず、ダンサーたちは別室に移って振りの練習をし、アンサンブルシンガーたちは自主的なコーラス稽古に移った。メインキャストはそれぞれ個室に移って自分の歌を練習している。
私は緊張による疲れもあって、一時間ほど個人指導を受けたところで琴美に終了を願い出た。
「そうですね。今日はお疲れでしょうから、このくらいにしておきましょう」
「私は帰るけど、あなたはどうする?」
「自分の練習をしたいので、残ってやっていきます」
「そう。それじゃあ、明日ね」
琴美はこの芝居では役についていない。私の付き人に専念しているのだ。一体何の練習をするというのだろう。自分が狙っているレパートリー作品の役でも稽古するのだろうか。
とにかく、ここの劇団員の稽古量は半端ではない。
朝九時からバレエレッスンを受け、すぐにジャズダンスレッスン、発声練習と続く。公演中の者は、その後各劇場へと散っていく。公演のない者は、昼食をはさんで役がついた作品の稽古に入り夜まで拘束される。その後も個室などで自主練を行う者が大勢いる。
「いやあ、素晴らしかったです」
第一稽古場を出たところで突然声をかけられた。見ると一人の大柄な男性が微笑みながら近づいてくる。年齢は四十代半ばといったところだろうか。肥満気味で全身の肉がゆるんでいることや、猫背の姿勢から、俳優ではなさそうだ。
「ラ・ボエームで舞台監督を務めます、貝原誠です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そういえば、先程スタッフ席の最前列に座っていた人だと思い出した。舞台監督というのは、舞台上の実務を統括する元締めのような役目である。
「いやあ、嬉しいなあ。百合亜さん主演の作品で舞監ができるなんて、感激です」
黄ばんだ前歯を覗かせて言った。
「まだ出演すると決まったわけじゃありません。最終オーディションの最中です」
「いや、もう決まったようなものですよ。あの歌を聴いたら、あなた以外のミミはありえない。つつましく純朴で、可憐で、それでいて愛に対しては狂おしいまでに情熱的。プッチーニが描いたミミそのものですよ」
「そうでしょうか」
「最後には百合亜さんが絶対選ばれます。私が保証します」
褒められて悪い気はしなかった。聴く人が聴けば、片桐あずさと私の実力差は明らかだ。
それを面と向かって言ってもらえ、一日の疲れが吹き飛ぶような気持ちだった。おそらく滝沢も、貝原と同じ感想を抱いたに違いない。
「久しぶりにあなたの歌声を拝聴できて夢のようでした。思わずうっとりしてしまいました」
「そんな……」
「本当です。芸術劇場で見た『カルメン』のミカエラや、あれは確かカシスホールだったかな……『トゥーランドット』のリューを思い出しましたよ」
びっくりした。どちらも十代後半から二十代前半にやった演目だ。
「見てくださったんですか?」
「もちろんです。ほとんど全作品を拝見しています。私は当時あなたの熱烈なファンでしたから」
「まあ」
確かにあの頃は熱狂的な男性ファンが大勢いた。劇場前には出待ちの長い列が出来ていたし、ファンレターは月に百通を越えた時もある。自宅マンションまで押しかけてくる迷惑なファンも少なくなかった。当時は鬱陶しく感じたものだが、今となっては懐かしくも有り難い思い出だ。
「私はテレビであなたを見てファンになったミーハー連中とはわけが違う。音大時代にリューに抜擢されて天才リリコ出現と騒がれたでしょう。あの時からです。あの時からずっとあなたの作品を追い続けていたんです」
「それは……ありがとうございます」
「あんなことさえなければ、あなたは今頃、世界的な……」
と言いかけて貝原は、あっ、と口を噤んだ。
「私としたことが余計なことを。すいません」
「いいえ」
あえて余裕のある微笑をこしらえた。
貝原も笑顔になり、
「でもミュージカルも捨てたもんじゃありませんよ。この世界でてっぺんをとったらいいんです」
「そう考えています」
「百合亜さんなら、絶対できます。何か困ったことがあったら、何でも言ってください」
私は謝意を述べ、「それでは」と背中を向けた。
「あ、待ってください」
「なにか」と振り返る。
「一度、お食事でもいかがですか。こうしてお会いできたのも何かの縁です。近くにおいしいイタリアンのお店があるんですよ」
「そうですね。時間のある時にでも是非」
私は貝原に丁寧に頭を下げて地下に降り、女性更衣室に入った。
私以外、誰もいない。みんなそれぞれに自主練を続けているのだ。
シャワー室で汗を流し、着替えたところでどっと全身に疲れが出て、奥のベンチに座り込んだ。長い一日だった。久しぶりの本格的な稽古は心身にかなりこたえた。
明日からは朝九時のバレエレッスンから参加するよう言われている。バレエもジャズも、まったくやったことがない。ついていけるだろうか。ミミ役を掴み取るだけで精一杯なのに、この劇団の流儀にも慣れなければならない。相当しんどいことになりそうだ。それでも、負けるわけにはいかない。