第二話 最悪の事態
その日、稽古場に足を踏み入れると、室内は騒然としていた。
四人の若手女優が泣きながら、「すみません。すみません」と敦子や桜井に平謝りに謝っている。片桐あずさと同期で、いつも彼女と昼食を共にしていたメンバーたちだ。
「私たち、こんなことになるなんて思わなくて」
「警察に聞かれるままに、深く考えずに喋ってしまったんです」
「すみません。本当にすみません」
一人が床に崩れ落ち、号泣を発した。他の三人も身体を折り曲げて嗚咽している。
「何があったの?」
近くにいる琴美を捕まえて訊いた。
「最悪です」
彼女は蒼い顔で答えた。
「滝沢先生が、警察に連行されました」
「なんですって」
思わず耳を疑った。
「犯人は、滝沢先生だったんです」
「まさか」
「滝沢先生が、あずさを殺したんです」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
泣きじゃくる琴美を前に、私は狼狽していた。一体、どうしてそんなことになってしまったのだろう。
「何でもかんでもべらべら喋って。滝沢先生が逮捕されたら『ラ・ボエーム』は公演中止に追い込まれるのよ!」
敦子は今にも殴りかからんばかりに激昂している。
「自分たちのしたことが分かってるの!」
四人の若手はひたすら頭を下げ続けている。
「どういうことか説明して」
私は琴美に迫った。
「あの子たち、公開プレビューの前日にあずさと食事を共にしたそうなんです。激励会だったと言っています」
「それで?」
「その席で、あずさがすごく落ち込んでいたそうなんです。最初は、明日のことでナーバスになっているのかと思っていたけど、そのうち、おいおい泣き出したとかで。理由を訊ねても頑なに口を閉ざしていたらしいですが、しつこく訊くうちに、『滝沢先生と大喧嘩した』って告白したそうです」
「大喧嘩?」
「はい。それをあの子たち警察に喋ってしまったんです。滝沢先生は嘘のつけない方ですから、警察の訊問に対して正直に認めてしまいました。あずさとの間に別れ話が持ち上がって、大喧嘩になったって」
「別れ話って……」
「馬鹿ですよ。喧嘩の理由なんていくらでも誤魔化せるのに。交際していた事実まで認めるものだから、警察が色めき立って、『署でお話を伺いたい』ってことになって」
「じゃあ、滝沢さんはあずさ殺しまで認めたわけじゃないのね」
私は少しホッとした。
「そうですけど、厳しい取り調べを受けたら、きっと自白してしまいます」
「滝沢さんがやったと決まったわけじゃないでしょう」
「他に誰がいるっていうんです。百合亜さんも敦子さんも容疑者リストから外されて、あと動機があるのは滝沢先生しかいないじゃないですか。それも前日に別れ話で揉めているんですよ」
「だからって……」
「あの日、私は遅くまで劇場に残っていたんです」
「そうだったわね」
「だから分かるんです。九時半すぎまで残っていたキャストはほとんどいません。みんなダメ出しの後、すぐに帰ってしまいましたから。残っていたのは、百合亜さんと……」
「私は九時五十分には劇場を出ているわ。駅の防犯カメラにも十時過ぎの私の映像が残っている」
慌てて言った。
「ええ。あとは私と滝沢先生だけです。スタッフの方は何人かいましたけど」
「でもそれだけで滝沢さんが犯人とは……」
「どうしましょう」
琴美は涙で濡れた顔で言った。
「大変なことになりました。公演も中止になってしまうかもしれない。みんなで一生懸命作り上げてきた大切な作品が……」
「何をめそめそしているの、琴美」
突然、尖った声が飛んできた。
「敦子さん」
西條敦子がつかつかと歩み寄ってくる。
「滝沢は無実に決まってるわ。心配しなくても、すぐに戻ってくるわよ」
「でも……」
「百合亜や私も連日厳しい取り調べを受けたけど、結局は容疑が晴れた。そうよね」
「はい」
私は頷いた。
「滝沢もすぐに戻ってくる」
「そうでしょうか」
「大丈夫」
「あずさの楽屋からは、滝沢先生の指紋が大量に検出されたっていうじゃないですか」
「演出家なんだから、女優の楽屋を訪れたって不思議はないでしょう。しかもあの二人は付き合っていたのよ」
「でも心配です」
「状況証拠だけで逮捕なんかさせないわ。なんとしても滝沢を守ってみせる。今、総務部の人たちが手分けして政治家の先生方に連絡をとっている。県警の上層部に圧力をかけて、違法な取り調べを断固阻止するわ」
力強い発言だった。そこには長年劇団を支えてきたトップ女優としての矜持が垣間見えた。滝沢に対する個人的な思い入れも混じっているのだろう。
「ちょっと聞いてください」
桜井が手を打ち鳴らし、全員に呼びかけた。みな会話を中断して彼に注目する。
「突然のことで、みなさん動揺していることと思います。正直、稽古どころではないという気持ちでしょう。私も同じです」
彼の目は充血して真っ赤に染まっている。
「しかし今は、先生の復帰を信じて稽古を続けるしかない。一幕の一場から始めたいと思います」
「今日は中止にした方がいいんじゃないか」
外部オーディション組の中年男性が声を上げた。
「演出家がいなけりゃ、ダメ出しできないだろ」
「それに、こんな状況じゃ集中もできない」
「明日まで様子を見ようよ。もしも逮捕なんてことになったら、それこそ公演は中止なわけだし」
外部オーディション組を中心に、同調する意見が続出した。
「いいえ。稽古はします」
桜井は毅然として返した。「先生もそれを望んでおられます。連行される際に、後を頼むと託されたのです」
ちっ、という舌打ちがどこからか聞こえてきた。
「どんな時も稽古を休んではならない。先生がいつもおっしゃっていることです。俳優は、親の死に目にも会えない職業です。我々はそれを自ら選択したはずです。何があろうと稽古はします」
「稽古はいいけど、公演中止になったら、ちゃんと金銭面の補償はしてもらえるんだろううね」
先程の中年俳優が問うた。
「そんなことを今考えるべきではありません。開幕に向けて精進するのみです」
「はい、はい」
中年俳優は呆れ顔でかぶりを振った。
「まいったよ、まったく」
鮫島が近づいてきて、私の耳元で言った。
「こっちは中野の部屋を引き払って越してきたんだぜ。これで公演中止なんて事態になったら、目も当てられないよ」
私は複雑な思いで聞いていた。言い知れぬ罪悪感が込み上げてくる。真犯人を知る自分が口を閉ざすことで、こともあろうに滝沢に取調べが及ぶ事態に発展してしまった。もし逮捕となれば、みんなで苦労して作り上げてきたラ・ボエームは空中分解してしまうだろう。
「では、一幕を頭から通していきます」
桜井の指示で、稽古が始まった。
鮫島を始め、多くのキャストが明らかに手を抜いているのが分かる。滝沢が不在の稽古場は緊張感を失ってゆるみ切っていた。
しかし私は、全身全霊を込めてミミを演じた。
それが、せめてもの罪滅ぼしのような気がしていた。間違っても滝沢が逮捕されることがないよう心から祈りながら、ミミの激流のような人生を懸命に生き切った。




