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【コミカライズ】歌姫の罪と罰  作者: 琉莉派
第二章 殺人
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第五話 殺人

 マスコミが去った後、メイクを落とし私服に着替えた出演者全員が客席に集められ、滝沢から一人ひとり今日のダメ出しを受けた。


 アンサンブルの動き一つに至るまで、彼の指摘は詳細に及んだ。誰もが一言も聞き逃すまいとノートに書き込み、真剣な表情で聞いている。


 最後にヒロイン二人の順番が来た。


「あずさ」


 とまずは勝者に語りかける。


「ミミ役に決定はしたが、今日の出来は決して褒められたものではなかった。まだまだ足りない点がたくさんある。役の心情にもっと寄り添う必要があるし、踊りながら歌うシーンでは音程のブレが何度も見受けられた。初日までの一ヶ月間、死に物狂いでやらなければ、お客様を満足させることはできないぞ」

「はい」


 滝沢はいつになく厳しい口調であずさを叱った。それから私を見て、静かに口を開いた。


「今日の徳大寺君は、少し感情的になりすぎて客観性を失っているところがあった。それが残念だった。でも決して悪い出来ではなかった。今まではテクニック優先で気持ちが入っていないところがあったが、今日はミミになりきろうとする努力が感じられた。ただそれが強すぎてエキセントリックに映ってしまっただけだ。バランスをとって二つをうまく融合させれば、素晴らしいミミになる可能性は見えた。そこは今日の非常に大きな収穫だった。今後はアンダースタディーとして、あずさに何かあった時にはいつでも交代できるように万全の準備をしてくれ」


 滝沢の言葉はいつになく優しかった。私を気遣ってくれていた。

 しかし、その優しさがかえって私の心を傷つけた。えこひいきや情実ではなく、本当にあずさの方が上だと思っていることが分かったからだ。


 私は負けたのだ。あんな間違った歌唱法の女に――完膚なきまでに敗れた。

 現在の私を唯一支えていた「プライド」が、粉々に崩れ去っていく。


 皆が去った後、そばに寄り添おうとしてくれる琴美を先に帰し、私はひとり悄然と客席に座っていた。立ち上がる気力さえなかった。


 惨めで、哀れで、情けなかった。

 

 こんな精神状態のまま、あずさのアンダースタディという屈辱的な立場に甘んじて今後も稽古を続けなければならないのだろうか。


 いっそ潔く劇団を去ったほうがよいのではないか――。


 私は屈辱の中で生きることができないタイプの人間だ。

 かといって、劇団を去ってもこの先の展望が見込めるわけではない。一歩外へ出れば、私は面倒ばかりを引き起こす、頭のいかれた天才気取りの厄介者に過ぎないのだ。誰が好きこのんで使おうとするだろうか。一度貼られたレッテルは、容易に引きはがすことができない。


 後方からコツ、コツと足音が近づいてきた。

 琴美が心配して戻ってきたのだろう。そう思って振り返ると、片桐あずさだった。彼女は私の前まで来ると、黙って右手を差し出した。


「戦いは終わりました。ノーサイドにしましょう」


 晴れやかな笑顔で握手を求めてきた。勝者としての余裕と自信が、彼女を寛大にさせていた。しかし私は、彼女と握手をする気になれなかった。黙っていると、あずさは続けた。


「この作品は大ヒットしますよ。きっと二年、三年と続いていくでしょう。そうなれば、私一人では演じきれない。百合亜さんの出番は必ず巡ってきます」


 私は彼女を睨みつけた。


 ――そういう問題じゃないのよ。


「滝沢先生も仰っていたけど、今日のあずささんは決して悪くなかったですよ。ただ、演じるということを勘違いされているだけです。感情だけで突っ走っては、お客様に伝わりません」


 何様なの、あなたは。


「怒らないで聞いてください。これは百合亜さんのことを思えばこその助言です。ロングランに()えるには、あなたの発声法ではだめなんです。発声を変えないと、喉が潰れてしまいます」


 私は耳を疑った。事もあろうに、発声に関してこの私に指図するつもり?


「もっと腹背筋を使って、一つ一つの音を前に押し出すように歌うんです。喋るように歌う。そうすれば……」


 黙れと言っているでしょう。

 私は大声で叫び出したい気持ちに駆られた。どこまでコケにするつもり。発声が間違っているのはあなたの方でしょうが。


「私も最近とても辛いことがあったから、百合亜さんの今の気持ちがよく分かるんです。どうか諦めないで、稽古を続けてください。これから私たちは仲間ですよ。同志です。素晴らしい舞台を作るために、一緒に頑張っていきましょう」


 あずさは最後まで勝者の笑みを湛えたまま、悠然と去っていった。


 私は一言も発せられぬまま、惨めな気持ちでその場に凍りついた。

 勝者は寛容な態度で敗者をなぐさめたつもりかもしれないが、こちらの気持ちなど何も分かっていない。

 ずぶのド素人のくせに、私に歌のダメ出しをするなど、どこまで思い上がっているのだ。六年前の私なら決して許しはしなかった。こんな屈辱を黙って見過ごすことなどできるはずがない。


 しかし今の私は惨めな敗者に過ぎないのだ。

 敗者は沈黙するしかない。

 何を言っても負け犬の遠吠えにしか聞こえないのだから。


 それでも身体は屈辱でびりびりと震えていた。人生の総てをかけて追求してきたミミ役を、演歌歌手のようながなり声で汚されることに我慢がならなかった。


 あんなものはミミではない。

 ミミは透き通るように澄んだ歌声で表現してあげなければならないのだ。


 このままミミが汚され、貶められていくのを、私は指をくわえて傍観しているしかないのだろうか。

 敗者に甘んじて、ミミが陵辱(りょうじょく)され続けるのを黙って受け入れよというのか。  

 そんなことは到底耐えられない。


 ――ミミをあずさから救い出さなくては。

 

 ふいに、そんな考えが脳裏で産声を上げた。


 救い出す? どうやって?


 後頭部がズキズキと痛み出した。考えようとすると激痛が走り、意識が何者かに乗っ取られたように、一方向に引っ張られていく。


 ――あの時と同じだ。


 動悸が激しく打ち始める。


 ――危ない。


 私は思わずかぶりを振って、湧きあがる感情を押しのけた。


 帰ろう。はやく帰ろう。


 急いで劇場の通用口へと向かう。靴箱を開け、ハイヒールを取り出そうとしたところで、動きが止まった。耳元で声が聞こえる。


 ――ミミをあの女から取り戻すのよ。救い出せるのはあなたしかいない。


 声を振り払おうと耳を塞ぐが、こじ開けるように脳裏に侵入してきて繰り返し鳴り響いた。


 ――プライドはないの? いつからそんな弱腰になったのよ。

 ――ミミを演じるのはあなたしかいないのよ。

 ――あずさにあんな事を言われて悔しくないの? あなたの歌唱法を否定され、馬鹿にされたのよ。それでも黙っているつもり?


 気付くと私はあずさの楽屋に向かって突進していた。

 やはりこのまま言われっぱなしでは癪に障る。

 一言、言い返してやる。その一念だった。

 そう。一言、言って引き上げる。

 

 それにしても頭がずきずきする。

 

 彼女の楽屋のドアを荒々しく開けると、あずさは一人化粧を落とした顔で鏡の前の椅子に座り、りんごをむいていた。


 私を見た途端、きゃっと小さく悲鳴を発して、りんごと皿を床に落とした。皿が音を立てて割れる。果物ナイフを手に、私に向かって脅えた目を向けた。


「何よ」


 と私は言った。


「なんでナイフなんか向けるのよ」

「百合亜さんこそ」


 あずさは震える声で私の右手を指差した。


 見ると、鉄製の象の置物が握られている。あずさの部屋にあったものを無意識に手にしていたらしい。


 あずさがドアに向かって突進する。

 私は反射的にその前に立ち塞がった。


「なぜ逃げようとするの」

「だって……あなたは……」

「私は話し合いに来ただけよ」

  

 一歩、間合いを詰めると、


「 誰か、助けて!」


 あずさが突如として大声を出した。


 失礼な。私が何をしたというの。なぜそんな大声を上げるの。黙りなさい。黙れというのが分からないの!


「お願い。誰か、誰か。はやく来て」


 あずさは私を押しのけ、ドアを開けて外へ出ようとする。


「待ちなさい」


 左手で肩を掴むと、彼女は合気道の技で私の左腕をひねり上げようとしてきた。

 カッとなった私は、彼女のひねり技を振り切り、反射的に右手で彼女の後頭部めがけて象の置物を振り下ろしていた。


 身体が勝手に動いていた。


 そう――。


 勝手に動いたとしか言いようがなかった。

 

 ドン、と鈍い音がして、あずさが床に崩れ落ちた。


 そのまま微動だにしない。

 

 ――えっ?


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 

 数秒後、我に返った私は象の置物を投げ捨て、彼女に呼びかけた。

 

「片桐さん。片桐さん」


 返答がない。


 しゃがみこんで身体を揺する。

 頬を叩いて目覚めさせようとするが、ぴくりともしない。


 口元に手をやると、呼吸をしている気配がなかった。


 ――嘘でしょ。


 顔から血の気が引いていく。


 ――どうしよう。


 瞬時に後悔が全身を駆け巡った。


 ――また、やってしまった。


 六年前と同じ過ちを繰り返したのだ。 

 しかも今回は未遂ではなく完遂である。


 人を殺してしまったのだ――。

 

 自分の行なったことのあまりの恐ろしさに、唇がぶるぶると震えはじめる。


 ――どうしよう。どうしたらいい。


 捕まれば刑務所行きは避けられない。当然、歌手生命は絶たれてしまう。

 あまりのことに気が動転し、狭い楽屋内をうろうろと歩き回る。

 自分がこれから為すべき行動を頭の中で瞬時にシミュレーションする。


 自首すべきだろうか。それとも……。


 答えはすぐに見つかった。

 

 ――逃げよう。


 それしかない。逃げるんだ。

 とにかくこの場を離れなければ――。


 ドアを開け、外を見る。幸いにして誰もいない。


 早足に廊下を進み、角を右へ曲がった。

 そこにも誰もいなかった。ホッとする。

 さらに左に折れて階段を登ろうとした時、誰かと肩と肩がぶつかった。


「百合亜さん」


 貝原だった。

 

 私は狼狽し蒼ざめた顔を見られたくなくて、思わずうつむく。


「大丈夫ですか?」


 貝原は心配そうに顔を覗き込んできた。「さぞショックだったでしょう」


 私の不審な態度を、オーディションに落ちた落胆と誤認したようだ。


「私も悔しかったです。本当に残念でした。でも、まだ出演のチャンスはあります。アンダースタディで頑張っていれば、いつか必ず舞台に立てる日が来る。諦めちゃ駄目ですよ」

「ええ。ありがとう」


 小さく一礼して階段を駆け上がった。

 

 あまりに取り乱していたせいだろう。凶器である象の置物をあずさの楽屋に残してきたことや、ドアノブなどの指紋を拭き忘れたことに気がついたのは、横浜駅からJR湘南新宿ラインに乗り込んだ後だった。


 ――しまった。


 置物には自分の指紋が付着している。警察が押収して取り調べれば、いっぺんで私の犯行だとバレてしまう。


 よほど引き返そうかと思ったが、そんなことをすれば自分が犯人だと自白しているようなものだ。すでにあずさの遺体は発見されているかもしれない。


 このまま、素知らぬふりで押し通すしかない。

 指紋はあずさの部屋に挨拶に行った時についたとでも言えばいい。

 流れる車窓の風景から視線を切り、目を閉じて意識を別のことに振り向けた。


 子供の頃からあらゆることを犠牲にして音楽漬けの生活に徹してきた日々が、脳裏でアルバムを()るように次々に浮かんでは消える。その全てが徒労に帰すかもしれないという恐怖が心を締め付けた。


 六年前とは違い、今回は殺人なのだ。露見すれば二度と舞台に立てないのはもちろん、長い年月を刑務所の中で過ごさなければならなくなる。


 オペラを捨て、ミュージカルに魂を売った私に対する、これは音楽のミューズによる罰なのだろうか。

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