第十一話 敦子の敵意
昼食は劇団内の食堂で琴美とロドルフォ役の鮫島東吾と一緒にとった。
食券を買い、それぞれのコーナーで自分の選んだ料理を受け取る。大学の学食と同じシステムだ。私は食欲がないのできつねうどん。琴美がカレーで、鮫島は焼き魚定食と天ぷらうどんを選んだ。
「テラス席に行きましょう。今日は天気がいいから気持ちいいですよ」
琴美に導かれ、ベランダに出る。十畳ほどのスペースにテーブル席が四つ並んでいる。五月特有の暖かく乾いた風が頬に心地よく、空は青く澄み渡っている。
思わず大きく息を吸い込んだ。
先ほどまでの窒息感が嘘のように、全身が弛緩していく。安心できる仲間と一緒だからだろう。
「最初は大変でしょう。僕もミュージカルに慣れるまで何ヶ月もかかった。対応しきれず消えていった仲間も大勢いるよ」
稽古初日から、オペラ界出身の鮫島とは妙に馬が合った。歌の相性もすこぶる良い。
同じ外部オーディション組という点でも自然と親しみが湧いた。
長身で甘いマスクのイケメンだが気取りが一切なく、自分が体験した苦労話を私のために進んで話してくれた。
「一番難しかったのはどんな点ですか」
「そりゃあ、なんといってもダンスだよ」
鮫島は魚の切り身を口に運びながら笑った。
「あとはダイエットね」
眉を上げてお茶目な顔を作る。
以前は百八十一センチで百二十キロあった体重を七十五キロにまで絞ったという。オペラはデブでもオーケーだが、ミュージカルの二枚目はそうはいかない。お陰で準主役級の役が舞い込むようになったという。
「冗談はさておき、やっぱり歌い方の違いだよね。特に女性は地声やミックスに対応するのが難しいみたい。それに声の美しさそのものより、言葉の明確さ、あるいは意味や情感を相手に届けることが重要とされるからね、ミュージカルは。あと、喉に対する意識の違いも大きいよ。下手すると喉を潰されちゃう」
「っていうと?」
「僕らは喉の調子について物凄くデリケートじゃない。少しでも違和感があれば休ませたい。でもミュージカルの人はそれほどでもないというか、がんがん稽古させるんだよね。それでポリープを作っちゃう人もいる」
「そう……」
「でも徳大寺さんは大丈夫だよ」
「どうして?」
「天才だから」
と笑った。冗談めかしているが、皮肉な響きはない。
「ポリープを作るのは、やっぱり本当の実力のない人だよ。歌い方がどこか間違っているんだ。オペラでも一流にはなれなかった人さ。その点、僕らは大丈夫」
「聞いたわよ!」
突然、女の声が割り込んできた。ガチャンとしょうが焼き定食の載った盆がテーブル上に置かれ、四人掛けの一つ空いた椅子に西條敦子が座り込む。
「片桐あずさにシューズをずたずたに切り裂かれたんだって?」
周囲に聞こえるような大声に、
「片桐さんにされたわけじゃありませんよ」
慌てて顔の前で手を振った。片桐あずさは入口付近の席で同年代の友人四人とテーブルを囲んでいる。幸い、敦子の声は届いていないようだ。
「他に誰がいるっていうのよ」
「分かりませんけど……」
「彼女に決まってるじゃない。片桐あずさがどういう女か、劇団員ならみんな知ってるわ。ねえ」
と琴美を見た。琴美は脅えたように目を伏せる。
「座内オーディションをあずさがどうやって勝ち抜いたか、後で琴美に聞いたらいいよ」
私は琴美を見るが、彼女は顔を上げない。
「あいつはミミ役を手にするためなら、どんな手でも使ってくるわよ。ファーストキャストに選ばれれば、劇団内で名声を高めるだけじゃなく、日本中にその名が知れわたる。テレビや雑誌の取材が殺到してたちまち有名人。まるで十年前の私みたいにね。それをあずさが逃すはずがない。命がけで奪いに来る。気をつけないと寝首をかかれるわよ」
敦子は片頬を上げて不敵に笑った後、身を乗り出すようにしてこう続けた。
「あいつにだけは絶対に役を渡したくないの。しっかりしてよ、徳大寺百合亜さん」




