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プロローグ 徳大寺百合亜


「ま、待て。落ち着くんだ。冷静になれ」


 米田礼二は、本革張りの高級椅子から腰を浮かすと、目の前の巨大なプレジデントデクスを左に回りこむようにして相手の接近をかわした。オペラ界の天皇と謳われ、強大な権力を保持する六十八歳の米田が、これほどうろたえた表情を見せるのは珍しい。


 しかもここは国立第二劇場の芸術監督室である。オペラの殿堂として初台の地に新設されたこの施設内では、なんびとたりとも米田に逆らうことは許されない。

 東京音楽芸術大学の学長を長らく務め、世界的な指揮者としても知られる彼は、三顧の礼をもって芸術監督に迎え入れられた。ここでは米田の指示はいかなる時も絶対なのだ。


 今、デスクを挟んで向かい合っているのは弱冠二十三歳の小娘だ。十年に一人の逸材などと騒がれ、その可憐な美貌もあいまってマスコミに持て囃され、多くの熱狂的ファンに支持されているが、米田から見ればただの新人歌手に過ぎない。


 本来ならば、ぎろりとひと睨みしただけで押し潰せる相手だ。

 なのに米田は、蒼白い顔で机の周囲をぐるぐると逃げ回っている。


 理由は簡単。

 小娘の手に、刃渡り十五センチの包丁が握られているからだ。


「百合亜。そんなものは置け。話し合おう。話せば分かる」


 だが小娘は米田の言葉など耳に入らぬ様子で髪をふり乱し、血走ったまなこを向けてくる。完全に正気を失った眼だ。


 徳大寺百合亜(とくだいじゆりあ)は天賦の才に恵まれた不世出の新人オペラ歌手である。その将来性は、一部識者から、かのマリア・カラスに比せられるほどに有望視されている。

 しかし才能ある芸術家の常として、神経が過敏にして脆く、情緒は不安定に陥りがち。高過ぎるプライドと、思うにまかせぬ現実との狭間で折り合いをつけることができないのだ。

 

 天才の辞書には、妥協という言葉は存在しない。

 ゆえに常に周囲との衝突が繰り返される。稽古中も役の解釈や歌い方を巡って演出家とぶつかり、ぶちキレて控え室に閉じこもることが幾度もあった。カッとなると手がつけられないところがある。


 ――マスコミにちやほやされて調子に乗っているんだ。


 演出家や共演者たちは百合亜の傲岸不遜な振る舞いに困惑し、稽古場の雰囲気は次第に刺々しいものになっていった。演出家は百合亜の降板を米田に直訴した。

 しかし米田は首を縦に振らなかった。ミミ役を完璧にこなせるのは徳大寺百合亜をおいて他にはないと考えるからだ。


 プッチーニ作曲の「ラ・ボエーム」は、イタリアオペラの中で最も人気が高い演目の一つである。


 若い日、イタリアで修行を積んだ米田にとって個人的にも思い入れの深い作品であり、なんとしてもこれを成功させたかった。新劇場の看板演目にしたかった。百合亜は経験こそ浅いものの、キャラクターといい、声の音色といい、薄幸のミミ役にぴったりであり、またマスコミ的な人気も高いことからオペラの裾野を広げる役割も期待していた。


 彼女をこの作品で国民的な大スターに仕立て上げることを狙っていたのだ。

 しかし、稽古が進むほどに演出家と百合亜の対立は激しくなっていった。


 例えば、ミミが相手役のロドルフォと出会い恋に落ちるシーンでは、二人がキスをするかどうかが議論になった。台本には書かれていない。フランス人の演出家はキスをするよう求めた。しかし百合亜は初対面の相手とキスをするのはミミの性格からしておかしい、キスをしそうでしないことで、揺れ動く微妙な女心を表現したいと主張した。


「その女心がまったく見えないんだ。あなたのつたない演技力じゃ。だからキスしろと言っているんだ」


 演出家は通訳を介し、額に青い筋を浮き立たせながら、怒りを露わにした。


 昨年、パリのオペラ座でトゥーランドットを斬新な手法で演出して大評判をとり、それを見た米田が破格のギャラで招聘した世界有数のオペラ演出家である。百合亜と並び、今回の演目の最大の目玉が彼なのだ。

 

 ラストのミミが死ぬシーンでも二人は対立した。

 演出家は歌いながら息を引き取るよう要求したが、百合亜はきちんと歌い切ってから死にたいと言った。作曲家が書いたものは最後まで完璧に表現したいとの思いからだろう。


 それ以外にも様々な場面で百合亜は演出家の意向を拒絶し、両者の対立は抜き差しならないものとなった。米田は二人のうちどちらかを選択しなければならない究極の状況に追い込まれた。


「百合亜。もう一度話し合おう。な」


 デスクの周囲を逃げ回りながら彼はおろおろした声で言った。


「お前がこの作品に全身全霊を捧げていたのは知ってる。命がけで頑張ってた。分かってるよ。分かってる。だから……もう一度話し合おうじゃないか」


 しかし、瞳から正気が失われた百合亜は、夜叉のように長い髪を振り乱して襲いかかってくる。


「おーい、誰か来てくれ」


 大声で叫ぶが、何の反応も返ってこない。二階の南奥に設けられた芸術監督室は、米田に用のある者以外滅多に近づくことはない。鉄製の扉は分厚く、それが米田の権威を象徴しているのだが、こんな時は逆に不都合である。


 すでに老境に入った彼は百合亜に比して体力的なハンデもあり、次第に息が上がっていく。ぜいぜいと胸を上下させながらデスクの周囲を逃げ回り続けた彼は、ついに足が止まり、デスク上の書類やペン、置物や電話など、手当たり次第に百合亜に投げつけた。投げるものがなくなると、身を翻して鉄の扉へと向かう。


 ドアノブに手をかけた瞬間、背中にさっと痛みが走った。

 慌てて振り返る。

 きらりと光る白刃が上段から振り下ろされる。

 右手が一瞬冷たくなった。

 見ると手のひらに十センチほどの亀裂が入り、そこからじわっと赤い血が湧き出す。

 あっと思う間もなく、今度は額に衝撃が走る。


 ――このままでは殺される。


 恐怖を覚えた米田は、包丁を振りかざす百合亜に向かって、無心で体当たりを食らわせた。


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