伝 言
私は、遠藤久恵さんが暮らす施設に向かって、車を走らせた。
一週間前、娘の葉子さんから、整形外科受診の送迎依頼を受けていたのである。
「ライフパートナーの大島と申しますが、遠藤久恵さんをお迎えに上がりました。」
と、応対に出た受付嬢に告げると、受付嬢は、そそくさと事務所内に戻り受話器を取った。
「少しお待ちください。すぐ、担当の者が来ますので。」
受付嬢は、私の元へ戻ると言った。
私が軽く会釈し返事をすると、受付嬢はにっこりとして事務所に戻っていった。
しばらくして、顔見知りの女性介護士が事務所に来て受付嬢と一言二言交わすと、
私と目を合わせながら、足早に近づいてくる。
「娘さん、そちらへ、お願いしていたんですね。
今日は、業者さんに来てもらえないと思って、施設の方で車を出すつもりでいたんですよ。」
介護士は、ほっとした表情をして言った。
「えっ? あのぅ・・・・何か、あったのですか?」
私は、状況が呑み込めず訊いた。
「あっ! ご存じ、なかったんですね・・・・。
実は、娘さんが亡くなられたんです。」
介護士は、物憂げな表情をして言った。
「えっ! 娘さんが、亡くなられた!」
私は、介護士の思いも寄らない言葉に、臆面もなく声を上げていた。
「一週間前、久恵さんが、以前骨折した右脚をぶつけてしてしまって。
念のため整形外科を受診するように、施設の内科の先生に言われたので、今日の十時に予約を入れたんです。
その連絡を娘さんにしたら、業者さんを手配するという事だったので連絡を待っていたんですが、その日の夕方に自宅で倒れて、翌日、搬送先の大学病院で亡くなられてしまったんです。」
一週間前の夕方という事は、葉子さんは、久恵さんの送迎依頼の連絡をした後に倒れてしまったのだと、私は思った。
一年半ほど前、葉子さんが大学病院に緊急入院した事を、私は知っていた。
その頃、体調に異常を感じた葉子さんは、かかりつけ医に紹介された大学病院で精密検査を受けたところ、悪性のリンパ腫と診断され、その日のうちに入院となったのである。
葉子さんは三カ月ほどの入院を経て退院し、その後、月に一度、大学病院に短期入院し抗癌剤投与を受けていた。
一週間前というのは、明日治療のために入院するという時だったらしく、そういう時に自宅で倒れてしまった葉子さんを、私は不憫に思った。
葉子さんは、体調が急変し倒れたようなのだが、それでも自力で救急車を呼んだらしい。
だが、救急隊が駆け付けた時には呼吸は荒く意識は朦朧としていて、隊員の呼びかけに答えられない状態だったようだ。
その時、隊員が、葉子さんが大学病院の診察券を握りしめているのを見つけ、すぐに大学病院に連絡し搬送したのだが、葉子さんの意識は戻ることなく、搬送先の大学病院で亡くなったとのことなのである。
享年、五十六歳だった。
「そうですか、そんな大変なことになっているとは、知らず・・・・。
確認の連絡をすればよかったですね。申し訳ありません。」
私はそう言って頭を下げた。
「いいえ、そんな事は。」
と言って、介護士は首を横に振った。
「それで、ご葬儀は?」
「えぇ、大学病院から、娘さんが救急車で運ばれたと施設に連絡があったのが一週間前の夜、亡くなったとの連絡あったのは翌日の午後遅くでしたから、それから葬儀社に依頼してご遺体を引き取って、一昨日、葬儀と納骨が済んだばかりなんです。」
「そうですか、一昨日・・・・。それで、久恵さんは・・・・。」
私がそれとなく訊くと、
「えぇ、もともと気丈な方なので、涙ひとつお見せにならないのですが、内心はとても辛く悲しい思いをされていると思います。」
と、介護士は言った。
「そうですね、それは、確かに・・・・。」
「久恵さん、一人っきりになってしまいましたからね。娘さんの代わりは出来ませんが、私たちが支えてあげないと、とは思っているんです。」
介護士は言うと、エプロンのポケットから何やら取り出し、掌の内に持った。
「それで、あらためて、久恵さんの送迎をお願いしたいのですが、よろしいですか?」
「えぇ、勿論良いのですが、久恵さんは大丈夫なのですか?」
「えぇ、久恵さんには話しましたし、何より脚の状態が気になりますから。」
「そうですか、分りました。」
「それから、急で、本当に申し訳ないのですが、付添いをお願いできませんか?」
「えぇ、良いですよ。」
「あぁ、良かった。ありがとうございます。
実を言うと、今日は体調不良で急遽お休みのスタッフが何人かいて、人手不足だったんです。」
介護士はそう言って胸を撫で下ろし、続けた。
「娘さんが亡くなられたことは、私から主治医の先生に連絡しておきますから、よろしくお願いします。
それから、料金の精算ですが、行政書士の萩原さんという方に確認していただけますか。
娘さんが、あとの事をその方にお任せしたようなのです。
これが、連絡先です。」
介護士は言って、掌に持った名刺を私に差し出した。
「分かりました。連絡します。」
思い返せば、遠藤さん母娘とのお付き合いは、三年前、担当のケアマネジャーから、久恵さんの通院送迎の依頼を受けてからだった。
久恵さんが自宅で転倒し右脚を剥離骨折してしまい、車椅子なしでは出掛けられなくなったのである。
H市の郊外にある遠藤さん母娘の自宅は、国道と平行して走る狭幅の路に繋がる二十メートルはある急坂を上がり、緩いラウンド状の十五段ある階段を昇った高台にあった。
私は、移動に車椅子が必要になった久恵さんを、一人で、ラウンド状の十五段ある階段と長い急坂を往き来し、病院まで送迎したのである。
遠藤さん母娘に最初に会った時、母娘というより、自立した女性二人が寄り添い助け合って暮らしてきているように、私には見えた。
久恵さんの通院送迎をはじめて間もない頃、帰りの車の中で、葉子さんが自分たちの生い立ちや暮らしぶりを話してくれた事があった。
葉子さんの父親は、葉子さんが幼い時に病気で亡くなり、以来、母娘二人きり、久恵さんが女手一つで自分を育ててくれたこと、
葉子さんは、幼いころ身体が弱く病気がちで久恵さんに心配をかけたこと、
久恵さんに連れられて、よくかかりつけの医者に通ったこと、
今でも、季節の変わり目は体調を崩しやすいこと、
母親の久恵さんは、十数人の薬剤師を管理監督する管理薬剤師として、薬局現場を束ねていたこと、
腎臓に持病があり定期通院していること、
葉子さんは、将来は、母親と同じ薬剤師の資格と取って難病に効能がある医薬品の研究開発に携わりたいと、某大学の薬学部に入学し薬剤師の資格を取り、
卒業後は、ある製薬会社の研究員の職に就いたことなど・・・・。
「この人は、一人で何もできないくせに、本当にプライドだけは高いんです。」
と、葉子さんは話した。
二人とも、いずれ劣らぬキャリアウーマンとして自立した生活を送ってきたようだが、年齢を経るに連れて、二人の関係は変化をしてきたようだ。
久恵さんに腎臓の機能低下が見られたのは五十歳半ばの頃、職場の定期健診で判り、以後一年に一度の定期健診で経過を観ていたようだが、
六十歳になって、クレアチニン値の基準値超えが顕著になってから、市民病院に定期的に通院するようになり、以来二十数年、薬を服用し、食事に気を配る生活を送っているという。
久恵さんは、七十歳で完全に仕事を退けた後も一人で通院していたのだが、七十歳代半ばを迎え足腰が弱くなり一人で出かけることが危うくなると、葉子さんが車で連れて行くようになったそうだ。
葉子さんにすれば、頼まれてもいないと言え、母親の事を心配して付き添うわけなのだから、少しくらい感謝の気持ちがあっても良いではないか、と思ったそうなのだが、
久恵さんは感謝の言葉を一言も口にせず、それどころか、子供が親の面倒見るのは当然だと思っていると、葉子さんは話した。
「まるで、この人は明治時代の父親のような人なんですよ。」
と、葉子さんが話しても、久恵さんは後部の特等席で涼しい顔で車椅子に坐っている。
「本当に、後先考えずに、何でも一人でやろうとするから、こうなるんです。」
葉子さんがこれ見よがしに言っても、久恵さんは相変わらず涼しい顔をしている。
私は、葉子さんの話に注意深く耳を傾けながら、ただ久恵さんの顔色を伺うわけだが、
話を聞けば聞くほど、娘の母親に対する敬愛と母親の娘に対する信頼の念を表しているように、聞こえてしまうのだった。
久恵さんは、四カ月ほど通院して骨折自体は治癒したが、長期間、膝をギブスで固定したままの生活を強いられた所為で膝は曲げられず、両脚の筋力は低下し歩行が難しくなり、車椅子を手離せなくなってしまう。
葉子さんは、自宅で久恵さんを介護する決心をしたのだが、自力で歩けない親を在宅で介護する大変さをよく知っていた私は、身体があまり丈夫でない葉子さんの精神的、肉体的負担を思った。
担当のケアマネジャーは心を砕き、久恵さんの介護認定手続きを段取りよく済ませると、
葉子さんが出来るだけ安心して仕事に出掛けられるように、仕事に出掛ける日に合わせ週三~五日の訪問介護を手配し、
久恵さんが一人で用足しできるように、ベッドの脇に簡易トイレと手摺りを手配した上、
理学療法士に訓練を依頼し、一人で用足しができるまでにはなった。
そして、久恵さんが家の中くらいは歩くことができるようにと、訪問リハビリか通所リハビリの利用を熱心に勧めてみたのだが、久恵さんは、リハビリに意欲を示さないばかりか、
「一人でトイレが出来ればいい。」
と言って、如実に不快な表情を見せたそうである。
こうして久恵さんの在宅介護ははじまったのだが、久恵さんは、管理薬剤師として長く仕事をしてきたプライドと、葉子さんを女手一つで育てた自負からか、とにかく人の手を借りる事を嫌がり、何でも自分でやろうとしたそうだ。
久恵さんは、訪問介護員に素っ気ない態度を取り続け、馴染もうとせず、わざわざ訪問介護員が帰ったところで、用を足そうと簡易トイレに移ろうとしたが間に合わず失禁したり、
葉子さんが在宅している時でも、葉子さんがちょっと目を離したすきに自分専用の机に移ろうとしてバランスを崩し、机の角に頭をぶつけて怪我をしてみたり、
その度に、
「お願いですから、何でも一人でやろうとしないで、私が居れば私に、私が居なければヘルパーさんに頼んでください。」
と、葉子さんが言っても、久恵さんは耳を傾けようとはしなかったという。
右脚を剥離骨折し車椅子生活になってしまったのも、そんな久恵さんの頑固さに端を発した行動が、原因だったようだ。
私は、困り果てている葉子さんを見兼ねて、通院以外でも、
「何か困りごとがあれば、いつでも遠慮なく連絡してください。」と葉子さんに伝えると、
葉子さんは、目に涙を浮かべながら深々と頭を下げて、私に謝意を伝えるのだった。
それからは、通院以外、二カ月に二、三回程度、葉子さんから相談事の連絡があると、私はその度に都合をつけて出向き、手助けしてきた。
一度、久恵さんがベッドから立ち上がろうとしてベッドと建具の隙間に倒れ、すっぽりと挟み込まれてしまったことがあった。
手に余った葉子さんからの連絡を受け、私は出先から駆け付けて手助けしたこともある。
今にして思えば、私がここまで手助けできたのは、時にぶつかり合いながらも、互いに思いやる深い絆で結ばれた遠藤さん母娘の姿に、衝き動かされたからだろう。
そうして、一年半が過ぎた頃だった。
葉子さんが大学病院に緊急入院した時期を境に、遠藤さん母娘の暮らしは、大きく様変わりしていく。
久恵さんは、葉子さんの緊急入院と同時に、施設に短期の予定で入所したのだが、葉子さんの退院後の月一度の短期入院治療と、介護負担を減らすために、そのまま施設で暮らすことになったのである。
それまで、娘はいつ退院するのか、いつ自宅に戻れるのかと、事あるごとに周囲に訊いていた久恵さんが、それきり言わなくなった。
久恵さんは、葉子さんの病状が良くない事を知り、二度と自宅には戻れないことを悟ったのかも知れない。
もしかすると、久恵さんは、娘が先立ってしまう事を予感していたのかも知れない。
久恵さんが施設に入所した後も、葉子さんから、月に一度は通院送迎の依頼はあったのだが、この半年、葉子さんは姿を見せていなかった。
施設の介護士や他の事業所の訪問介護士、時には看護師が付添いをしていたのである。
思えば、久恵さんの通院の付添いで、葉子さんが施設に最後に訪れた半年前、すでに付添いできるような体調ではなかったはずだ。
顔色は悪く、少し歩くと息切れがするようで、病院の受付に行くまで何度も立ち止まっていたのだ。
葉子さんは、この半年間、体調が不安定な状態が続き、大学病院に通院するだけで精一杯だったのだろう。
私は、娘に先立たれた久恵さんが、どんなに悲しく、どんなに辛く寂しい思いをしているだろうか、
先立った葉子さんが、どんなに心残りだっただろうか、を思った。
車椅子に乗せられ、介護士に連れられてきた久恵さんは、深い悲しみにくれているようだった。
私が挨拶すると、私を見て引き攣ったような笑顔を造り、こくっと頷いた。
久恵さんは、頑固ではあったが、聡明で世間に明るく、饒舌な女性だった。
この時は、車の中で、遠くを見つめているような眼差しで終始無言、院内に入っても押し黙ったまま。
病院に着き受付を済ませ、右脚のレントゲンを撮り、黙って待つ事二十分。
名前を呼ばれて診察室に入ると、主治医は、久恵さんの右脚のレントゲンの画像を診ている。
「ふむ、骨は大丈夫だな。遠藤さん、右脚、触りますよ。」
主治医は、久恵さんに向き直り一瞥すると言った。
主治医は、両手で右脚の甲から脛、脹脛、膝周り、膝裏を丁寧に優しく触診していく。
見れば、右膝の外側が少し腫れて赤みを帯びている。
主治医がその部分に指で加減しながら圧を加えて、久恵さんに痛みの有無を聞くと、
久恵さんは、
「少し、痛い」と、ようやく小声で言った。
「先生、大丈夫でしょうか。」
私は言った。
「うむ、心配ないでしょう。打撲ですね。
恐らく、何かの拍子にベッドの鉄柵の角のような硬いところにぶつけたんでしょうね。
湿布剤を二週間分出しておきますから、腫れが引くまで、毎日一回患部に貼るようにしてください。
念のため、二週間後にまた来てみてください。」
「はい、分りました。」
私は言った。
「遠藤さん、大丈夫ですよ。少し炎症を起こしていますが、骨には異常はないですからね。」
と主治医が優しく言うと、久恵さんは、また、こくっと頷いた。
「ところで、次回来院する時も、あなたが付添いを?」
主治医は言った。
「えぇ、私がお連れすると思います。」
私が言うと、主治医は
「うむ。よろしく、お願いしますね。」と、言った。
病院を出て施設に戻る途中、私は敢えて久恵さんに声掛けはしなかった。
ルームミラー越しに久恵さんの様子を見れば、眼を瞑って下を向いままで、話しかけられる様子ではなかったのである。
私は、あらためて、娘に先立たれた母親の計り知れない深い悲しみを想った。
ところが、
「大分、暖かくなったわね。もう、桜が咲く頃かしらね。」
と、突然、久恵さんが言う。
「あっ、あぁ、そ、そうですね。予報だと、来週あたりから、咲きはじめるようですよ。」
私は、予想外の事に少し慌てて言った。
「私の家の近くの桜並木も、きれいな桜を咲かせるのよ。」
「あぁ、あの桜並木ですね。桜のトンネルのようになるあの路、本当にきれいですよね。」
「そう。もう何年も見ていないわね。
いやだわね、年を取るのって。身体も言う事をきかなくなるし。若い人が普通にやっていることが、出来なくなってしまうものね。」
と、久恵さんは声を震わせて言った。
「・・・・あぁ、そう、そう、施設の近くの川沿いに、桜の木がありましたね。
二週間後にもう一度先生に診てもらいに病院に行きますから、帰りに寄ってみましょうか。その頃だったら、丁度、桜が見ごろかも知れません。」
と、私はそう言い回して、桜並木に回ることを思いとどめたのだ。
「そう、それは嬉しいわね。ありがとう。」
久恵さんは言うと、また下を向いて黙ってしまった。
私は、次回病院に行った帰りに観桜に回るつもりでいたのだが、久恵さんとは、この時が最後の別れとなってしまうのである。
そうとは思いもしない私は、診察の結果と二週間後の再通院を担当の介護士に伝えると、施設を後にしたのだった。
私は事務所に戻ると、行政書士の萩原さんの事務所に連絡を取った。
事務所の担当が応対し、請求書のファックス送信と、集金は明日以降ならいつでも、と言われた。
私は、明日の午後に伺う事を告げた。
その際、萩原さんから私に、話したい事があるという。
萩原さんの事務所に伺う、当日の朝―
久恵さんの担当ケアマネジャーの谷本さんから、連絡があった。
「昨日は、久恵さんがお世話になりました。
急なお願いにも関わらず、付添いまでしてもらったそうで、ありがとうございます。
娘さんが亡くなった連絡も出来ず、すいませんでした。」
「いいえ。私は、役に立ててよかったと思っていますから。」
「そう言ってもらえると、ありがたいですね。
久恵さん、一人っきりになってしまって、娘さん以外、身内の方はいらっしゃらないのですよ。」
「えぇ、先日、病院にお連れした時も見るからに悲しそうで、お身体が心配になりますね。」
「そうですね、どれほど気を落とされているかと思うと、本当に気の毒で・・・・。
私も、何とも言いようがないんですが、とにかく、今は、久恵さんが少しでも元気を取り戻せるように、出来ることはやりたいと思っているんです。」
「そうですね・・・・。
時折、ご自宅に戻ってみる、というのはどうですか。半日くらい、住み慣れた我が家で過ごしてみるのも、元気を取り戻すきっかけになるかも知れません。
何なら、私がそのお手伝いをしても構いません。半日でも、一日でも、お付き合いしますから。」
「ありがとうございます。久恵さんが聞けば喜ばれると思うんですが、でも、それは・・・・。」
「そう、ですか、やはり難しいですか・・・・。」
「えぇ、久恵さんは聡明な方ですから、自宅には戻れないことは、すでに理解してらっしゃると思いますよ。」
谷本さんはそう言って、一呼吸おくと、
「それに、娘さんの依頼で、自宅を売却する手続きを、行政書士の方が進めているようなんです。
娘さんは、生活に必要な最低限の家具や調度品、衣類品だけを残して、他の物は去年の内に処分されたようですしね。」
と言った。
「えっ、そうなのですか?」
「もう、自宅に帰る人はいませんからね。
去年、娘さんは、ご自分が亡くなった後の整理をしてもらうように、行政書士の方に依頼したようですよ。
一カ月ちょっと前、久恵さんの今後のケアプランの確認で、娘さんにお会いした時、売却の目途は大体付いたとおっしゃってたけれど、すでに、ご自分の死期を自覚してらしたのかも知れませんね。」
「そう、ですか・・・・。」
私は、人の人生が終わるという事の切なさ、無情さを感じていた。
「とにかく、娘さんは、大島さんを信頼してらしたし、本当に感謝してられましたよ。
大島さんには、これからもお世話になると思いますので、今後とも、よろしくお願いします。」
と、私は、谷本さんが掛けてくれた言葉に一言返事をして、話は終えた。
午前中から午後に掛けて三件の仕事を終わらせた私は、萩原さんの事務所を訪れた。
自宅の一部を改装したこじんまりとした事務所は、実に整然としていて、主の人柄がうかがえる。
入口で互いに挨拶一言、その場で名刺交換し、私は奥のデスクに案内された。
「娘の葉子さんが、本当にお世話になったと、感謝していましたよ。」
萩原さんは、開口一番に言った。
「はぁ、それは恐縮しますが、私は当たり前の事をしたまで、と思っていますから。」
「うむ、大島さんにとってはそうでしょうけれども、遠藤さんは母娘二人きり、困った時は嫌な顔一つせず、親身になって手助けしてくれる大島さんを、とにかく、頼りにしていましたからね。ある意味、身内以上に思っていたかも知れませんね。」
「身内以上に・・・・。」
「えぇ、私はそう思っています。
実は、娘の葉子さん、半年前に余命宣告されたようでしてね。それがきっかけで、うちの事務所に相談にみえたのです。」
「そうだったのですか・・・・。」
やはり、葉子さんは、余命がもうない事を知らされていたのだ、私はそう思った。
「他に身内の人が居ないものですから、自分が亡くなった時の葬儀の手配と財産の処分、そして母親の久恵さんが、安心して暮らせるように手配りをしてもらいたいという事でした。
それで・・・・今日は、大島さんに、遠藤さん母娘からのお願いがありましてね、来ていただいたのです。」
「遠藤さんからのお願い? それは、どういう・・・・。」
私は思いがけない言葉に、少し身構えた。
「ふむ、それでですね・・・・
先ず、葉子さん名義の車がありまして、この車を、大島さんに引き取っていただけないものかと思いましてね。どうですか、お願いできませんか?」
荻原さんは、私の反応を伺うように切り出した。
「娘さんの、車を?」
私は驚きながら、そう言う萩原さんの顔を見れば、妙に落ち着き払っている。
「えぇ。以前大島さんも、同じ車種の車を気に入られて長く乗っていたそうですね。
葉子さんも、この車を大変気に入って買ったようで、大島さんなら、必ず大事に乗ってくれると、葉子さんは言っていましたよ。」
萩原さんは言うと、柔和な笑顔を見せた。
私は、葉子さんが購入した欧州車と同じ車種を、ニ十五年近く四台乗り継いできたのだが、仕事で使用する車を含め三台の車を維持するのがきつく、その車を三年前に売却していたのである。
二年ほど前、葉子さんがその欧州車に乗り換えた頃だったと思う。
同じ車種を私が気に入って四台も乗り継いだこと、そして、目立った故障もなく頑丈でとても良い車であると話をしたことを、葉子さんは、よほど印象深く覚えていたのだろうか。
「でも、私が受け取る、というのは・・・・。どなたか、親類の方でも、いらっしゃらないのですか?」
「うむ。葉子さんは、生涯独身を通しましてね。
久恵さんは親類は居ないと言っていたのですが、万一、後で居たことが分かって、ごたごたが起きても困りますからね。それで、調べました。
久恵さんと、亡くなられた久恵さんのご主人には兄弟姉妹はなく、久恵さんと亡くなったご主人のご両親も一人っ子でしてね。
それでも、遠い親戚の一人や二人は居るかも知れませんからね、遡って調べてみたのですが、戸籍上、親類、縁者にあたる人はいませんでした。」
「そう、ですか・・・・」
・・・・そうか、車を売却しても、売却代金を受け取る人は居ずか、と私が内心呟くと、
「勿論、売却するという手はありますが、その売ったお金をどうするか。えぇ、誰も受け取る人は、居ませんからね。
そういう事情ですので、是非、引き取っていただけませんか。
大島さんに引き取っていただければ、どんなに葉子さんが喜ぶことか。」
と、萩原さんは言った。
売却もできない、車をそのまま放置もできない、なにより、葉子さんは、私が引き取る事を望んでいるとなれば・・・・。
「わかりました。私に、引き取らせてください。」
私は、考えた末に言った。
「うむ、うむ、ありがとうございます。葉子さんが喜びますよ。」
と、にんまりとして言うと、萩原さんは続けた。
「早速、明日にでも、車の名義変更に必要な書類について、連絡しますから。」
「えぇ、お願いします。」
「さて、次は、自宅なのですが・・・・」
萩原さんは、何気なく言いながら、手元のファイルを広げた。
「えっ! ご自宅! それ・・・・」
私は、驚きのあまり、口を衝いて出ていた。
「まぁ、まぁ。驚かれるのは分かりますが、先ずは、聴いてください。」
萩原さんが間髪入れずに言うと、私は口を閉じた。
「自宅は母親の久恵さん名義になっていますが、久恵さんの生活の拠点は今や施設となって、もう、自宅に戻る事はありません。
実は、葉子さんから、自宅の売却を依頼され手続きを進めてきたのですが、この一カ月のうちに売却先が決まる見通しでしてね。
売却額は三千三百~三千五百の間で、先方とは折り合いが付きそうなのですが、この売却金を大島さんに受け取っていただきたいのです。」
「えっ!! まさか! そんな大金、いかに何でも、それは、受け取れません。」
私は何も心得ず、ただ仰天して声を張り上げて言ってしまった。
自宅を売却する手続きを進めているとは聞いていたが、その売却金を私にとは・・・・。
「うむ・・・・さもあらず、ということですか。大島さんらしいですね。」
私が声を張り上げたことを、萩原さんは不快に感じたのかも知れない。
萩原さんは、眉をひそめて言った。
私と萩原さんの間に、一瞬、気まずい雰囲気が漂う。
「実は、大島さん、自宅の相続のことは、久恵さんの遺言書に明記されていましてね。」
萩原さんは、重々しい口調で言った。
「えっ、遺言書に、ですか。」
「えぇ、今年の初めに、公正証書遺言を作成したのです。
葉子さんは、自分亡き後、久恵さんが安心して余生を送れるように、当面の入居費用の他に、寄付として相当の金額を施設に収めていましてね。そうして、二人で、遺言書を作成したのです。
勿論、大島さんは断ることも出来るのですが、そうなれば、久恵さんの意志のみならず、故人となった葉子さんの遺志にも背くことになるのです。」
「う~む、しかし、それは・・・・」
私は、腕組みして考え込んでしまった。
まさか、どうして、赤の他人の私に、そこまで・・・・。
私が何とも返事のしようがない中、萩原さんは言った。
「大島さん、どうか、遠藤さん母娘の意志を、丸ごと、受け取っていただけませんか。
自宅を売却しても、そのお金を受け取る人はいないのです。空き家のまま、放置しておくわけにもいきませんからね。
なにより、大島さんに受け取っていただかないと、お二人には身内がいないものだから、すべて国庫に入る事になってしまうのです。
それに、葉子さんは、大島さんなら有効に使ってくれる、そう言っていたのですからね。」
と言って、萩原さんは、先とは別人のように、睨むような鋭い視線を私に向けた。
意外にも、萩原さんの話というのは、遠藤さん母娘の遺産の相続の事だった。
しかも、私を相続人とした、公正証書遺言まであるという。
萩原さんは、
「大島さんに、是が非でも、遺産を受け取ってもらえるように段取りしてください。」と、葉子さんに頼まれたという。
葉子さんは、生前、もし私が受け取らない時は、
「車は廃車にして潰し、家も潰して更地にして、萩原さんの自家農園にでもしてください。」
と、真顔で言っていたそうである。
そこまでして、どうして、この私に・・・・。
萩原さんの事務所からの帰り道、私の脳裏を様々な思いが去来していた。
この仕事をはじめて、十年。
組織の中で働くことの限界を、感じていた頃だった。
娘が独り立ちしたのを機に、早期退職の制度を利用して退職したのが五十歳の時。
二度と組織の中で働きたくなかった私は、大した動機も無いままに、介護、移動サービスの事業を立ち上げた。
私は、潜在意識下に、不仲だった父、そして、父と私の間に入って苦労した母へ、親孝行一つできなかったことに対する後悔の念があった。
人の役に立つと思える仕事をすることで、その後悔の念から少しでも開放されたいという心理が、私の心の中で働いていたのかも知れない。
だが、この仕事をはじめて間もなく、それぞれの人達が必要とする介助を行うこの仕事の奥深さ、悩ましさ、難しさを身をもって知り、そんな甘い考えでこの仕事をはじめた事を、後悔することになる。
私は、この十年間、感謝されていることを感じ、そういう言葉もかけられてきたが、私自身の気が晴れることも、心が満たされることもなかった。
この仕事はどこまでやってもキリがなく、常に、もどかしさだけが残るのである。
そのうちに、私は、利用者がどう思っているか、何を欲しているかなどはお構いなしに、私自身が利用者に必要だと思った事は、やらなければ気が済まない性分になっていた。
そうしてやってきた事が、たまたま、利用者にとって感謝される事なだけ、有難かった事なだけ、
ただそれだけの事、だったのである。
自分自身がやらなければ気が済まない事を、自己満足でやってきただけの事、だったのである。
裏を返せば、私自身の自己満足が、この仕事を続けている言い訳になっていたのである。
ただ、遠藤さん母娘との出会いが、その人が必要とし、欲する手助けをするという事の意義を、私に教えてくれたような気がする。
振り返れば、私に胸中にあったのは、遠藤さん母娘に、私が勝手に必要だと思う事も、損得勘定もなく、ただ、遠藤さん母娘が助けを欲している時に手助けしたいという衝動だけだった。
これは、確かな事だったのだが・・・・。
果たして、私は、都合よく、こう考えるようになる。
遠藤さん母娘が、私との関りを通じて、私を信頼し、私の行動に恩義を感じてくれ、ある意味、身内以上に私を思い、遠藤さん母娘が築き上げてきた大切なものを、私に引き継がせたいという意志であれば、私はその意志を尊重し、ありがたく受け取れば良いのではないか。
挙句に、
増車して、事業を拡大できるかも知れない。
もっと良いサービスを、提供できるかも知れない。
老後は少し、安心できるかも知れない。
妻と二人で、たまには旅行に出掛けられるかも知れない・・・・などと、
はしたない事を考えてしまう自分がいる。
妻の早紀子に、今日の事を話したら何と言うだろうか。
いつも私の傍にいて、私が、日々仕事をこなしている姿を見続けてきた早紀子は、
やはり、
「でも、どうして、あなたにそこまで?」と言うだろうか。
だが、そう言われても、当の私が、一番、信じられないのだ。
私は、事務所に戻ると、早紀子に今日の事を訥々と話をした。
果たして、早紀子は、一生に一度という態で驚きながら、私が思った通りの事を言った。
だが、早紀子はこうも言った。
「人様の役に立つように大事に使わせていただければ、それで良いのではないの。」
私は、早紀子のこの言葉を聞いて、ようやく、溜飲が下がる思いがしたのである。
翌日―
萩原さんから、印鑑証明書が欲しいとの連絡があった。車の名義変更に必要な書類だという。
それから、私の住民票と、委任状を作成するので印鑑も欲しいともいう。
私は、一両日中には準備して届けると返事をした。
翌週末―
萩原さんから、車の名義変更が完了したとの連絡があった。
車のキーと書類を渡したいので、都合のよい日に事務所まで取りに来て欲しいという。
私は、来週中に受け取りに行く日を連絡する、と返事をして、一旦話を終えた。
来週早々には久恵さんの通院がある、先ずはそれを終わらせてからだ、と私は漠然とそう思ったのである。
ところが・・・・
久恵さんが通院する前日の日曜日の午後八時頃、施設の久恵さんを担当する介護士から、明日の通院をキャンセルする連絡があった。
久恵さんが、救急車で搬送されたというのである。
「まさか! いったい、どうされたのですか?」
「ようやく、昼食を食べてくれたのですが、その後、食べた物をもどしてしまって。
しばらく様子を見ていたんですが、夕方前になって、急に熱と身体の震えが出たものですから、慌てて救急車を呼んだんです。」
担当の介護士は、声を震わせて言った。
「そうですか。で、何処の病院に?」
「市民病院です。持病の腎臓の状態が良くないようなんです。意識が戻っていないようなので、心配です。」
「そうですね・・・・とにかく、私に出来ることがあれば、何でも言ってください。」
「えぇ、ありがとうございます。」
娘の葉子さんが亡くなってから、極度に落ち込むようになった久恵さんは、食事をまともに取れない日が続いていたという。
周囲が想像する以上に、娘を失ったショックは大きかったのである。
久恵さんは、娘を失ってから、生きる気力も失ってしまったのかも知れない。
それから二日後、久恵さんは、葉子さんの後を追うように帰らぬ人となってしまったのである。
八十七歳だった。
私の、この空虚感は何なのだろうか。
大切なものを失ってしまって、心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような、この空虚感は・・・・。
久恵さんは、葉子さんと同様に萩原さんと施設の方たちの手で供養され、遺骨は、葉子さんが眠る永代供養塔に納められた。
私は立ち会って、二人の墓前で手を合わせた。
血の繋がりが薄れゆく世の中とはいえ、出自も送ってきた人生も知れない赤の他人の私を信頼し、深い恩義を感じたとしても、
自身亡き後、その私に、自身と家族が築き上げてきた財産の全てを譲るという心境に、どうしたら、なれるのだろうか。
だが、これが、人が死を迎えるということなのかも知れない、
これが、血の繋がりを越えた、人に自分のあとを託すという事なのかも知れない。
私はそう理解しようとしながら、遠藤さん母娘との出会いと別れ、人の心の不可解さ、そして深遠さを思った。
「遠藤久恵さん、葉子さん、私は、人の役に立てる仕事ができるように、一から出直します。
見守っていてください。」
私は心の中で、二人に伝えていた。
私は、自分の死が訪れるまで、毎年の遠藤さん母娘の命日には、この墓前に立って手を合わせるだろう。
久恵さんの葬儀が終わって一週間後、私は、萩原さんの事務所に立ち寄り、車のキーと書類を受け取ると、遠藤さん母娘の自宅に向かった。
「車の中は、一応、片付けておきましたが、万一、何か残っていたら、適当に処分してください。
それから、車は、遠藤さんの自宅前の路の反対側の駐車場にありますから。」
と言って、萩原さんはにこっと笑った。
最寄り駅からゆっくりと歩いて行けば、車で通り抜けただけでは気付かない景色が、目の前に広がる。
すっかり葉桜並木となった路を抜けて、左側に広がる高台に遠藤さん母娘の自宅はある。
主の居ない家は、春光の中で、ひっそりと建ち続けている。
坂道の向かいの路に沿った駐車場に、主を失った濃紺の車は在った。
私は、主の居ない家に続く坂道の前に立って、深くお辞儀をした。
そして、坂道から階段に掛けて、当時を思い浮かべながら、目を馳せていく。
何度、この坂道とあの階段を、往き来したことだろう。
その時、だった。
「ごめんなさいね、いつも、こんな大変な事をさせてしまって。」
と、階段を降りる度に言っていた久恵さんの声が、聞こえた。
了




