白米
同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ建物の中で、同じ人と顔を合わせ、同じような仕事をこなし、街が暗くなれば同じ経路を辿って同じ家に帰る。
好きかどうか、などではなく、これが私の生活。他にどんなに輝いているように見える人がいても、これが今の私の全て。
だから、幸せは人生の大枠で語るものではなくて、ほんの小さな隙間にある、簡単に見えないところに探すもので、あるものなんだと思う。
鈍く光る黒。底の方は薄い黄土色でザラザラとしている。仕事終わりにクタクタで帰宅した私にとって、その重さは通常の2倍にも感じられる程だ。上の棚から下ろすのに、それはそれは細心の注意を払って、慎重に両の掌で包む。
『よいしょ』
大事に抱えたそれをキッチン台にドンと置く。ガスコンロとシンクの間は広くないので、それを置くといっぱいいっぱいになる。重黒くつるんとした触り心地とその重量感は、まるでお寺にでも置いてある仏具のようにさえ見える。そしてそれが白光りするキッチンの手元灯に照らされると益々神秘的なものに感じるのは、古くから土器を祀ってきた日本人の血が流れているからだろうか...。なんて、つい壮大でくだらないことまで考えてしまう。
夜の帷につつまれて、外はより一層冷えてきたのか家の中までうすら寒い。私はスーツの下に着ている薄手のニットを手元まで引っ張った。外では、一本表の大通りを通る車の音だけが遠くに聞こえるだけで、それ以外のものは全部夜に溶けて消えたんじゃないかと思う程静まり返っている。そして部屋の中では私の呼吸とこいつのしん...とした静けさ以外何も存在しない。
こんな風にこいつと真剣に向き合っているのは、この時間にこの地球で私だけかもしれない。うん、悪くない。そう。
一人夜中に土鍋と向き合う女。
ちなみに、こんなに大事にしているつもりなのに、以前手を滑らせて上蓋を落としてしまった。土鍋の頭の持ち手の一部が欠けて内側の黄土色が剥き出しになっている。上の棚に入れなければいい話しなのだが、1Kのキッチンは収納箇所が限られていて下の棚は頻繁に使うお皿や調味料で一杯なのだ。こんなに重くなければいいのに...なんて小言を漏らすことはあっても、私はこの土鍋に触れない日は殆どない。
しかし、こうして繁々と見ていると上蓋の頭の持ち手の欠けは、むしろ良い土器の雰囲気を出しているように思う。ちなみにこの土鍋の蓋の頭の持ち手には元々2箇所窪みがある。これはいつ誰に聞いたのか覚えていないが、昔、領主や武士だけのものだった焼き物を、庶民にも使わせる為に、窯元がわざと不良品を作って、不良品は領主や武士に渡せないからとそれを庶民の間に流通させたことがこの形状の由来らしい。
窯元がどこを欠けさせようか迷って見つけた最も支障の無い場所なのだから私が追加で欠けさせたところで何ら使用に問題はないわけだ。
チャラチャラチャラ...
私はそうやって窯元とも心を通じさせたような気になりながら土鍋の蓋を開けて真っ白な小さい米粒を一粒残らずボウルから移し替えた。
さすが。一粒一粒に神が宿っていると言われているからだろうか、ただの一粒でさえ取りこぼしてはいけないという強い圧を感じる。これが日本のお米の強さだろうか。
私はいつも2合分の洗ったお米をボウルの中で日中水に浸けておくので、仕事から帰った頃にはお米はたっぷりの水を含んで半透明から真っ白に変身している。ちなみにこのお米はコシヒカリ。実家のある岡山県で父が作っているお米だ。毎年秋に新米が取れると送ってくれるのだが、父のお米を食べたら他は食べられない程に美味しい。そしてこの父のコシヒカリは水分を元々多く含んでいるせいか、真っ白さがより際立って一層神様を連想させるので、土鍋に入れる前に水を切るときはさっきの強い圧を感じながら慎重におこなっている。もちろん何度もこぼしたことがあるが、可能な限り拾って戻しているので安心して欲しい。
そして、冷蔵庫からキンキンに冷えたビール...ではなく、アルプスの天然水を取り出してお米の入った土鍋に400㎖よりやや少ないくらいの量をゆっくりと注いだ。炊く前に入れるお水は冷えたものが良いと、近所の和食屋の店主に教わった。確かに常温で炊いていた頃より艶やかにさっくりと炊き上がる気がする。
ゆっくりと注いだ水は、チロチロとお米たちにぶつかって、水嵩が増す中でくるくるくると踊るように回った。可愛いぞ、お米たちよ。そして美しい。クリスマス時期に店先で見かけるスノードームみたいに。
お米のダンスを見守りながら土鍋に蓋をするのだが、私が欠けさせた大きい蓋以外に、もう一つ内蓋が存在する。大きくてむっくりとした上蓋と違って、小さくて平で、どちらかというとシャープな見た目だ。その内蓋には、人差し指ほどの穴が左右に1箇所ずつ空いているので、その両穴を自分と平行にセットする。そこへ大きな、落っことした上蓋を被せるのだが、上蓋に一つだけある穴を見逃してはならない。上蓋の穴が自分のお臍と向き合うように向きを確認しながら上蓋を閉め、ガスコンロへ移し勢いよく火をかけた。中強火で13〜14分。静かな夜に響く、シューーッというガス火の音。側に立っていると暖かい。私の耳に入る音は今、私が動かなければこのガス火の音だけ。ねぇ、好きな音だけ聞こえるって何という幸せなんでしょうか。
ずっとこのまま聴いていたいけれど、生活を送る私はそうも言ってられない。お米の炊き上がりのタイマーをセットして、ここで初めてくたくたのスーツを着替える。クリーニングに出そう出そうと思いながら早3週間目突入。よく見ると汗染みや皮脂が襟や脇に滲んでいたので流石に反省した。臭いまで嗅いでしまったら膝から崩れ落ちてしまいそうなので除菌消臭スプレーをびしゃびしゃになる程かけて、クローゼットに押し込むように仕舞った。世の中の女性はこんな風じゃないだろうか、それとも似たようなもんだろうか...。
髪を上げ、メイクを落とす。毎日こうして1日が終わろうとする。メイクを落として顔を上げるとつまらなそうなブスッとした顔が鏡に映る。自分とこうして目を合わせると、歳を取っていくことを目に見えて気づかせる小じわに、たまらない不安を覚えたりする。そして過去や未来、今日上司から言われた嫌味、明日の仕事のプレゼン、結婚に踏み切らない彼、一人で抱えた色々な出来事が頭の中をガンガンと叩くように支配してきて、気がつけば瞼の隙間から涙が流れていたりするのだから不思議だ。30手前の独り身女のあるあるだろうか、とにかく気を抜くとすぐ隣にいる不安が肩を叩いてくるのだ。だからそんな時間は短い方がいい。
ピピピピッピピピピッピピピピッ
お米の炊き上がりを知らせるタイマーの音が涙を流してしまう前に私を引き戻す。そして狭い1Kの部屋いっぱいにお米の甘い香りが充満して、まるでお餅屋さんにでもいるような気持ちになった。静かな夜には騒音にも近い程のタイマー音だが、私を今目の前に戻してくれる魔法の音なのだ。
顔の化粧水を叩く用に雑に終え、キッチンへ急ぐ。土鍋の頭の小さな穴からシューッと勢い良く蒸気が噴き出している。この姿、蒸気機関車みたいでカッコいい。さて、タイマーを止めてここからは私の鼻を頼りにカウントダウンをする。噴き出す蒸気に少しだけ顔を近づけると、甘いお米の香りの中に、少しだけ焦んがりとした香ばしい香りが入り込んできはじめる。そうしたら火の止めどきだ。タイマーが鳴ってすぐに止めてもいいのだが、私はここでお焦げをしっかり作りたいのだ。
ガシャッとガス火を止める。それでも尚噴き出し続けている。ここから20分蒸らせばお待ちかね。それまでは甘くて香ばしいこの香りと2人きりなので、目を瞑って静かにその甘い時間を過ごすことにしている。いつもはせっかちで早口な私の、静かに待てる素直な時間。
そしてこういう時の20分は自分にとっていい塩梅に感じるのが不思議だ。仕事に忙殺されると間に合わないと言わんばかりに短く感じるし、遅い部下の仕事上がりを待っていると日が暮れるんじゃないかと貧乏揺すりを始める程に長く感じる。流れる時が心地いいのはそこが正しい位置なんだろう。
私は緑色に熊のパッチワークのついたお気に入りの鍋つかみを手にはめ、煌々と黒光る熱々の重い蓋をひとつ、ふたつと持ち上げる。瞬間、白い蒸気がぶわっと私の顔を覆い、モヤの中に迷い込む。そして山の霧が晴れていくみたいに、白いモヤの向こうに水っ気をしっかり含み、ぷっくりと膨れたつやつやのご飯が顔を出した。炊き立てのご飯は耳をすませばプチプチとお喋りをしていて、踊りだしそうに見える。
シュワッ
私は木製の杓文字をそっと縦に入れる。柔らかいけれどしっかりとした感触が手に伝わってくる。杓文字を入れる度にシュワシュワと音がする。切るようにさっくり、底からもくるっとまわすと、香ばしい香りの正体が顔を出す。程よく茶色に染まったカリッとしたお焦げ。これは土鍋ご飯の醍醐味と言えるだろう。
お餅やお煎餅など、とにかくお米を焼くことで立ち昇るこの香ばしい香りは、それこそ弥生時代から平安、戦国、江戸を駆け抜けて現代まで、一体どれほど多くの人を魅了してきたのだろうか。土器の裏にへばりついたお米、火鉢でパチパチ焼いたお餅、長い歴史を思い起こさせる。もうこれはロマンだよな、なんてまたあれこれとどうでもいいことを考えながらご飯を混ぜる。
さっきよりももっと鮮明になる香りが、鼻を通って脳まで上っていき、食欲の扉を開ける。口の中にジワッと唾液が広がって、もういてもたってもいられなくなった。
私は土鍋の前に仁王立ちしたまま、熱々のご飯をお茶碗に大盛りに盛った。
ご飯の、あるべき場所に収まったその様は心なしか得意げに見える。
私はいよいよとばかりに杓文字をお箸に持ち替えて、湯気立ち昇る大盛りご飯のつやつやと光るところをぷくっと箸で捉えて、ひょいと口の中に放り込んだ。
あふっ
熱々のご飯は私の口の中でほろりと散らばる。熱と甘みが鼻からぬけていく。
はふはふ、もちゃもちゃ、ゆっくり何度も噛むうちに口の中のご飯はモチモチとお餅のように塊になって、じゅわじゅわと甘さを更に深めていく。脳が痺れる程の快感を感じている。セロトニンだかドーパミンだか、そういったものが出ている気がする。もはや官能的といえよう。
ご飯だけでご飯が進む。かきこむ箸が止まらなくなり、口いっぱいにご飯を含んで、結局私は立ったままお茶碗一杯をぺろりとたいらげた。
立ったまま一心不乱に白米を貪る姿、好きな人には見られたくないだろう。でもこれが私の見つけた幸せの瞬間なのだ。
私は土鍋の前に立ったままもう一杯。次は少し小盛りで。炊き立てといえばこれは外せない。
湯気の立つご飯の真ん中を少し窪ませて、その窪みに冷蔵庫から取り出した生卵をとろっと落とす。よく黄身だけで作る人もいるけれど、私は白身も一緒に混ぜる。さて、相棒は少しの味の素とお醤油。黄身に醤油がぶつかって黄身が少しへこむのがなんとも愛おしい。そして白、黄、茶、3色が1つになるまでぐちゃぐちゃと混ぜる。私の卵かけご飯は、ご飯を少なくしてやや汁っぽい仕上がりにするのが特徴だ。白身が重要な理由はそこにある。これをズズーっと傾けて、もうこれ以上はどうやったって入らないという程パンパンに口に含む。卵が炊き立てのご飯の粘りにねっとりと絡んで、口の中でくっついては離れを繰り返す。お米の甘さと醤油と味の素のしょっぱさを卵が繋ぐこの味。
うまい。
口の横にくっついたご飯粒が、こんな私をクスクスと笑っているようだ。
カッカッカッとかきこんで、美味しいものでお腹が満たされて、すると人間不思議なもので、心まで穏やかに満たされるのだ。
ふぅっと息を吐く。幸せが臓器と臓器の隙間にまで染み渡っているみたい。
ゆっくりと深呼吸をする。
さて、残りのご飯は明日おにぎりにしよう。中の具を考える幸せ、ご飯が美味しい幸せ。
同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ建物の中で、同じ人と顔を合わせ、同じような仕事をこなし、街が暗くなれば同じ経路を辿って同じ家に帰ることができる。これこそが私の幸せなのかもしれない。