本当のフランツ・アラン・ロートリング
「アラン、お前はこの森で私が見つけたんだ」
ロートリングの森の奥で焚き火の火に照らされ、甘いココアを俺に渡しながら爺ちゃんが言った。
あれは俺が7歳になったばかりの春、まだ少し寒く、花が咲き始めたばかりの頃だった。
俺はフランツ・アラン・ロートリング。
日本のマンガが好きで、日本の文化に興味を持って、ゴジラに憧れを抱く、とても普通な17歳の北欧男子だ。「北欧男子」という言い方が実に日本的で気に入っている。
5歳の時から俺の専属メイドになったサナエに、ずっと日本語で話しかけられて育った俺は、成長とともに、多分完璧にに日本語を覚えた。電話や文字で話すだけなら、相手に気付かれず日本人で通すことも出来る。
更にサナエに、「坊っちゃんは高貴なお方ですからね、私の姓と合わせて門倉光輝という日本名を授けましょう」と日本名も賜っている。
もちろん法的な効力はないので、普段あだ名のように名乗るだけだ。ネット上で「カドクラコウキ」を使い、チャットで日本人と話す時は「門倉でーす」と挨拶をしている。
ちなみにサナエは、執事のヨハンを頑なに「セバスチャン」と呼び続け、今ではロートリング家の内外で「ヨハンはセバスチャン」と認知されている。本人も挨拶をする時に「当家の執事をしておりますセバスチャンでございます。セバスとお呼び下さい」と言っている。
「セバスチャン」とは、世界を越えて承認されている執事の最高級の称号だそうですよ、と喜んでいたが、元は「アルプスの少女ハイジ」から広まったという事を、俺は知っている。
とても普通な俺に、ちょっとだけ普通ではない事があるとしたら、12歳で大学に入った事と、平均よりもちょっと背が高い事。
身長は192センチあって、誰に似てこんなにデカくなったのかは、血の繋がった家族がいないのでわからない。
俺は世間的には爺ちゃんの実の孫として戸籍もあるし認知もされている。
「祖父」であるフリードリヒ・ビョルン・ロートリングは、今はもう無い古い王家の流れを汲む家柄、ロートリング家の末裔だという。
「時代が変わって、親族達も普通の市民生活を送っている。血筋なぞ現実に生きていく上では何にもならん。まあ、使える所では使うがな」といつも言っている。
爺ちゃんが生まれた家は、普通というよりも、むしろ貧しい生活を送っていたそうだ。十代で商売を始め、それを元に事業を立ち上げ、一代でヨーロッパ有数の富豪にのし上がったというすげえジジイ、いや、尊敬すべき男だ。
成功するに連れ、おこぼれに与ろうと寄ってくる親族達。或いは、本当に親族かどうかもわからない連中がたくさん湧いて出て来たそうだ。そいつらに厳しい対応はしつつも、苦労して苦労して頑張ってきた爺ちゃんは、そんな奴らも何とか生き延びようとしているのだと理解し、受け入れた。事業に関わることを認め、助け率いてきた。
自分を頼ってくる者たちを導き、生きる術を示し続けて来た爺ちゃんは、ある意味では本当に「王」のような人だと俺は思っている。
そんな爺ちゃんと2人だけで過ごした幼い頃の俺の思い出。
忙しい爺ちゃんが「行くぞ」と言って俺を連れ出した屋敷の周りを囲む森。屋敷から丸1日歩いた所でキャンプをしたんだ。
この時は、子供の足に合わせて遊びながら歩いたから1日かかったが、大人だったら3〜4時間程度で着く所だと後に知った。
とにかくその時は早朝から丸一日、ザックを背負って歩いたんだ。
途中で、倒れた木に座って休憩をし、お弁当のサンドイッチと温かい甘い紅茶を飲んだ。そしてまた歩く。
川が見える所まで来て「ここにするか」と言って、爺ちゃんが慣れた手つきで木と木の間にタープを張る。これが今夜の寝床、「家」だ。エアマットを広げてから俺に「並べて敷きなさい」と言って渡す。俺は俺よりも大きいマットを頑張って並べて敷く。
石を並べて作ったかまどに、歩きながら「拾っておけ」と言われて集めていた木の枝を置いて火を起こす。
一緒に川まで歩いて水を汲んで、ついでに手を洗った。水が冷たくて「ひゃー」と言って手を振って水を払うと、爺ちゃんが「川の水は冷たいだろう」と言って、タオルで拭いてから両手で挟んで温めてくれた。
その日は、ソーセージを焼いてチーズと一緒にパンに挟んだだけの食事をした。いつもマナーをチェックされながら食事をしていた俺は、ものすごく特別の事をしている気がしてとても楽しかった。
パンに挟んだアツアツのソーセージを手掴みで食べる。しかもそのソーセージは木の枝に刺して焼いたやつだ。落としてしまったが、爺ちゃんが拾って汚れを払いちょっと火で炙って「ほら」と渡してくれて、俺はそれを食べた。
なんてお行儀が悪いんだろう。でも一番えらい「お祖父様」がそうするんだから、「誰も僕を叱ることは出来ないんだ」 そう思うと最高だった。
素晴らしい食事の後で自分にはコーヒーを淹れ、俺にはココアを作って渡す爺ちゃん。砂糖をしこたま入れた甘いココアを飲んだ俺に「どうだ、美味いか?」と聞き、「うまい!」と男らしく答える俺を笑いながら見ていた。
それから、暗くなった空に光り始めた星を見上げて「こんな夜だったなあ」と懐かしそうに、そして切なそうに、俺を「見つけた」時の事を話してくれた。
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爺ちゃんがこうして俺を連れ出したのには理由があった。
俺が6歳になった時、一族や関係者へのお披露目があった。そして「ロートリングの正式な跡取りはあの子になるんじゃないか」と噂が広まり、幼い後継者候補に今のうちに近づいておこうと寄って来る人間が一気に増えた。
広大な土地を所有し、世界中で事業を展開し、政界にも力を持つロートリング。
森の中にある、城とも言える大きな屋敷に当主のご機嫌伺いに来る彼らは、幼い俺に会って何とか取り入ろうと必死になった。
1人で遊んでいると、笑顔で寄ってきては色々な贈り物をくれ、「フランツは本当に良い子、うちの子にしたいわ」と言って抱きしめたり、庭で走り回る俺を見つけて一緒に遊んでくれたり、膝に乗せて色々なお話をしてくれたり。
「うちには同じくらいの年の女の子がいるんだ。そのうち連れてくるから一緒に遊んでやってくれないか。きっとフランツ君を大好きになると思うよ。仲良しになったら、フランツ君のお嫁さんにしても良いよ。そしたら私達は君のお父さんとお母さんになるよ」と言う人達もいた。
僕のことを大好きになるの?お嫁さんが何だかわからないけど、仲良しになるのはいいな、と思った。
「お祖父様や家のみんなは僕をアランと呼ぶのに、外の人達はフランツと呼ぶんだな」
不思議だなと思ったが、優しくされて嬉しくて、両親を知らなかった俺は、皆に「子供にしたい」と言われて、「女の子をお嫁さんにくれる」と言われて、「いつか、この中の誰かがお父さんとお母さんになるのかな」とワクワクしていた。
でもやがて、彼らの優しさは、決して俺自身に対しての愛情によるものではないと知る。
今思えば、あの頃の俺は本当に可愛かったので、皆が「天使のようだ」とか「たべちゃいたい」とか言っていたのは、全てが嘘では無かったのだろうが、まあそれでも、本当に俺に愛情を持って一緒に暮らしたいと思っていたわけではなかったわけだ。
俺は無邪気に、自分を可愛がってくれる人達の中で好きな順番や、彼らが何を話していたかを爺ちゃんやセバスに伝えた。それからしばらくして、その内の何人かが屋敷にやって来ても優しくしてくれなくなった。むしろ俺を憎々しげに睨んだり、近づくと無視されるようになった。
もちろん何も変わらずに可愛がってくれる人達もいたが、俺が大好きだと思ったうちの半分以上が、ある日突然俺に背を向け会いに来なくなったのだった。
当然、「同じくらいの年の女の子」も来ることはなかった。だから、お嫁さんももらえなかったし、お父さんもお母さんも出来なかった。
後に、俺に近づく人間を爺ちゃん達が調べ、それぞれの状況や行動に対して「必要な通達」をしたという事を知らされた。
そして「人を表面の優しさだけで信用するのは愚か者だ」と教えられた。「相手が何を求めて関わってくるのか。信用に足る人物を見極められる目を養いなさい」と。
今だったら「いや、僕まだ6歳なんで無理です」って言えるけど、あの頃の俺はどうしたらいいのかわからず、ただ「きっと自分が悪かったんだろう」とだけ思った。
自分が悪いから優しかった人達が優しくなくなって、自分が悪いからお祖父様に叱られる。そう思って悲しくなった。みんながくれた沢山の贈り物を壊して、暴れて、そしてメイドに叱られて「やっぱり僕が悪いんだ」と思った。
そしてある日、以前はお父さんになるのかもしれないと思っていたおじさんが、久しぶりに俺に近付いて来た。また遊んでくれるのかと思って喜んでいたら、「なあ、お前が本当のフランツ・ロートリングではないって知ってるのか?」と言われた。
「…え?」
おじさんは何を言っているんだろう?
僕が本当のフランツじゃない?
「調べたんだよ、色々な。おかしいと思ったよ。道理で6歳まで誰もお前に会ったことがなかったわけだ。お前は本当はここの子じゃないんだよ」
そうなの?
僕はここの子じゃないの?
もしかすると、僕が悪いからここの子じゃなくなっちゃったの?
どうして良いのかわからないままおじさんを見つめていると、セバスが走って来ておじさんに何かを言って追い払った。
その後は覚えていない。目が覚めたら部屋のベッドで寝ていた。
窓の外は暗くなっていた。サナエがいて、お湯に蜂蜜を溶いた飲み物をくれた。
「ねえ、僕は本当にこの家の子なの?」と尋ねると、「そうですよ」とにっこり頷いてくれた。
翌日、俺は入ってはいけないと言われていた爺ちゃんの書斎に忍び込んだ。そこには「大事な書類」や「大事な家族の写真」があると聞いていた。
写真が見たいと言った時に、写真立てを落として割ってはいけないから、大きくなるまでは駄目ですと言われていたのだ。
爺ちゃんの息子達はもう死んでしまっていないんだと聞いたことがある。
幾つも飾ってある写真を一つずつ見ていくと、笑っている俺の写真があった。良かった。「家族の写真の中にまだ僕もいた」そう思った。
その隣に、若い顔で髪が黒い爺ちゃんが2人の小さな子供ときれいな女の人と一緒に写っている写真があった。
これは爺ちゃんの死んでしまった奥さんと息子たちかな。どっちが僕のお父さんなんだろう?
その子供たちはどっちも爺ちゃんに似てるけど、隣にある俺の写真には全然似ていなかった。
他の家族の写真もあって、そこにも子供が写っている。茶色い髪で青い目だ。その子供を膝に乗せている男の人は、爺ちゃんと一緒に写っている子供に似ている。隣で笑っている女の人は茶色い髪で子供と同じ青い目だった。
みんな黒や茶色い髪で、目は青や爺ちゃんと同じ水色だ。そして子供たちはみんな顔が若い爺ちゃんに似ている。女の人も茶色い髪で青い目だったり、茶色い目だったりで…。
「僕は誰にも似ていない」
そう思った。
俺は白に近い金髪と紫色の目。写真には似ている人は誰も写っていなかった。
その頃は、爺ちゃんが白髪だから何とも思っていなかったけど、そういえば鏡に映る爺ちゃんと自分は顔が全然似ていないって、その時に気付いた。
いつの間にかセバスが後ろ立ってにいたので、茶色い髪の子を指差して「この子も死んじゃったの?僕の兄弟?」と尋ねると、「ご兄弟ではありませんが、そのようなものですよ」と言った。
「僕の髪も大きくなったら茶色くなる?」と言うと、困った顔をしたセバスが優しく抱き上げ「このお部屋は入ってはいけませんよ」と書斎から連れ出してくれた。
セバスに抱かれて遠くなる書斎の扉を見ながら、「あの子が本当のフランツ?」と聞いたけど、セバスは答えてはくれなかった。
その頃、爺ちゃんは仕事でしばらく家にいなかった。
俺は、大好きなはちみつ入りのホットミルクや温かいシナモンロールが、あんまり美味しく感じられなくなって、昼が短く夜が長い寒くて雪に閉ざされたこの国の冬を、外の暗さと同じような暗い気持ちで過ごした。
雪がやんだある日、窓から外を見ていたら、よく見かける車から子供が降りて来るのが見えた。
厨房に食材を届けに来るおじさんが、自分の子供を一緒に連れて来ていたのだ。
ずっと大人たちの中で過ごしていた俺にとっては、初めて見る子供。
「自分以外に子供が、本当にいる!」 珍しくて、厨房に行ってこっそり覗いた。俺が見ていると、それに気がついたその子と目があって「なんだよ」って言われた。
びっくりして「子供がしゃべった!」と言ったら「おまえだって子供だろっ!!俺よりチビじゃねえか!!」って怒鳴られた。
「こら!ぼっちゃんに失礼なこと言うんじゃない」と叱られていた彼は、イーサクといって8歳なのだそうだ。8歳の子供。「本当のフランツ」もこんな風に喋ったんだろうか?
自分の事を乱暴な口調で「俺」と言うイーサクが何だかカッコいいと思って、その日から自分の事を「俺」という事にした。が、サナエに「アラン様、あなたは高貴な方なのですから、そんな乱暴な言い方をしてはいけません」と叱られた。だから心の中でだけ言うことにした。
たったそれだけの事だったが、晴れた夜の空に輝く星は「やっぱりキレイだ!」と感じ、はちみつたっぷりのホットミルクは「やっぱり美味しい!」と思えた。
久しぶりに笑顔になった俺を見て、みんなも喜んでいた事には気付いていなかった。
そして雪が降らない日が増えてきて、暗い冬が明るい春に変わる頃、俺の誕生日祝いが開かれた。親族などは誰も呼ばず、爺ちゃんとセバスとサナエと、そして他の使用人のみんなだけで祝ってくれた。
「今から20分だけ、お行儀を忘れていいですよ」とサナエが言って、足元まである大人用の雨具を着せられフォークを持たされた。
電気が消えて暗くなった所に、ロウソクが7本乗った俺の身体と同じくらい大きなケーキが台に乗せられてゴロゴロ運ばれてきた。
うわあ!と喜ぶとセバスが俺を椅子に乗せて、「願い事をしてロウソクを一気に吹き消すんですよ」と言う。
俺はその時「いつか本物のフランツになれますように!」と願って、思い切りロウソクの火を吹き消した。
みんなが拍手をしてくれて口々におめでとうと言ってくれる。
電気がついて椅子から降ろされ、「それでは、お好きなところからどうぞ」とセバスがニヤリと笑う。
俺は皆の様子をうかがって、サナエの「お行儀を忘れてもいい」という言葉を思い出して、フォークを使わずケーキに顔を近づけて直接かぶり付いた。美味しい!そして叱られない。絶対にやってはいけないやり方で食べるケーキは最高だった。
嬉しくて声を出して笑っていると、それを見ていた爺ちゃんが俺の真似をしてケーキにかぶり付いた。びっくりしたけど、鼻とひげにクリームをべったり付けてモグモグしているのが面白くて大笑いをした。
俺が好きなだけあちこちかじって荒らしまくったケーキを、メイドが上手に切り分けて皿に盛り皆に配る。
料理長が俺の好物ばかりを作ってくれて、みんな楽しそうに料理をとっては俺の所に来て「こんなご馳走が食べられるなら毎月アラン様の誕生日をお祝いしたいですよ」なんて言う。俺も毎月こんな風にみんなで一緒に食事が出来るなら1年で12歳年をとっても良いなと思った。
屋敷の使用人は音楽が好きで、休憩時間や休みの日によく歌ったり演奏したりしている。この日は俺がピアノを弾いて、みんなも得意な楽器を持ってきて一緒に演奏をした。楽器が弾けない者たちは歌ったり踊ったり。そして俺も爺ちゃんやサナエと踊ってすごく楽しかった。
表面だけ優しくして俺を利用しようとした親族が離れていっても、写真の家族が俺に似ていなくても、爺ちゃんがいて屋敷のみんなが俺を大事にしてくれて、俺はここにいても良いんだなって思って、これが俺の家族なんだなって思った。
たとえ、俺が「本物のフランツ」じゃなかったとしても。
そして7歳になった俺に爺ちゃんが「もう少しあたたかくなったら森に連れて行ってやる」と言った。「森で過ごす為の準備を始めておきなさい」とセバスに言って、それからの数日、俺は森の中での過ごし方を学ぶ事になった。
森の歩き方、道に迷った時の方角の見方、火の起こし方や水の確保、もしもの時の食料の確保。ロープの結び方と、雨が降っても濡れない場所の作り方。そして、森でヘラジカや熊やオオカミ、ヤマネコなどの危険な野生動物に遭遇してしまった場合の心得や身の守り方を学んだ。
もし雨が降っていても寒くても、それを悪天候と思ってはいけない。身につける衣服や使う道具、そして行動を間違わなければ大概は対応が出来る。「自分にとって思うような気候でない」事は、何も「悪い状況ではない」…と教わる。
これは、大きくなってから「変えられない事に出会った時、まずは自分がどう動けば良いかを考える」という俺の考え方の元となった。
屋敷の周囲は森だ。ほんのちょっと歩くだけで森の中になる。この国では他人の土地であっても森林を自由に散策する事を法律で許されている。だからうちの森にも知らない人が来ている事もあるはずだ。
安全の為に屋敷の周囲、半径1kmの範囲で高い柵が作られていて、屋敷の方までは門を通らない限りは入ってこられないようになっている。
もしも幼い俺が1人で迷っても、大きな野生動物も入ってこない柵の内側であれば、最低限の安全は確保され、そして見つけるのは難しくはない。だからいつもはこの柵の内側だけで過ごしていた。
だが今回は、爺ちゃんは柵の向こうに行き、もっと奥まで森に入って3日間過ごすという。
そしてある晴れた朝、爺ちゃんと俺は自分たちの荷物を背負って、柵の向こうに向かったのだった。
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河原で焚き火をしながら星を仰ぎ、そして爺ちゃんがゆっくりと話し出す。
「私が若い頃は、とにかく一生懸命働いたんだ。最初は、自分が始めたことが上手く行き、みんなが喜んでくれて、それが嬉しくて頑張った。貧しかった家族が、暖かい家でお腹いっぱいご飯が食べられて嬉しいと言ってくれて、もっともっと頑張ろうと思った」
初めて聞く爺ちゃんの話しだった。
「自分が頑張ると、みんなが喜んで幸せになる。私は大事な人達をもっと幸せにしたいと思って働いた。
そして、25歳の時に素敵な女性に出会って結婚したんだ。彼女はシーラと言って、明るくて料理がうまかった。一生懸命に働いて、家に帰るとシーラがいて、彼女の作るご飯を食べる。本当に幸せだった」
シーラはきっとあの写真の女の人だろう。ここで俺が「本物のフランツ」だったら「僕のお祖母様?」と聞きたいところだったが、残念ながら俺にはそれは言えなかった。
「それからすぐに最初の子供が出来て、嬉しくてな。もっと頑張ろうと思った。色んなものを与えて、不自由しない裕福で安心した生活を与えたいと思った。
一生懸命に外で働くから、段々家にいる時間が減ってきた。寂しい、一緒に過ごしたい、でも仕方ない、家族の幸せの為なんだ、それが自分の役目なんだと思っていた」
やがて二番目の息子が生まれて、街に大きな屋敷を買い引っ越した。そしてピクニックが好きだった子供たちの為にと、少ない休みの時にも一日中家族で楽しく過ごせるように、田舎にも家を買った。皆その田舎の家が大好きで喜んでその家で過ごしたが、爺ちゃんが一緒にいられたのは一日だけだったり。そして、爺ちゃんは皆を置いて1人でまた街に戻って働いた。
「あの家で楽しそうにする家族を見て、良かったと思った。そして私がもっと働いて来るから、皆はこの家でゆっくり楽しむと良いと思った。その頃からもう間違い始めていたんだな」
「もっともっと皆の為にと思い、どんどん仕事は上手く行き忙しくなり、会えない分を高価な物を買い与える事で埋め合わせたつもりになった。自分はいつでも家族のことを考えている。その思いを物の価格で伝えている気で、家族もきっとそれをわかって喜んでくれていると思っていた」
そんな時に長男が病気になり、高名な医者に診せていたが、爺ちゃんがしばらく帰れなかった時に長男は亡くなってしまう。そばに居てやれなかった悲しさと後悔。泣いて詰るシーラ。
「辛かったよ」と爺ちゃんが言った。
「どうして、仕事仕事って言って家族と一緒に居てくれないんだと、私達より仕事が大切なのかと詰られて、『俺はお前たちの為に働いているんだ。仕方ないじゃないか。俺が仕事をしなければ、お前たちは生きられないんだぞ』ってな、そんな事を言ったんだ。
自分だけが色んな事を背負い込んで頑張っていて、そのお陰で皆が生きてるんじゃないかって、いつの間にかそんな風に思ってしまっていたんだな」
頑張っているのは自分で、そのお陰で安心して生きているくせに、俺に指図をするなという考えになっていたんだ、と爺ちゃんは言った。
大切な人達が嬉しそうに笑っていられるようにと思って頑張っていたのに、いつの間にか頑張っている自分の事しか頭に無くなってしまったんだ、と。
「駄目な奴だろう?」と言って俺の頭を撫でる。
口元は笑っているが、目が泣いているように見えて、俺は「駄目なお祖父様でも、僕はお祖父様が大好きです!」とか何とか言ったんだ、確か。
爺ちゃんは笑って「そうか。…でもな、シーラは呆れて嫌いになっちゃったみたいだ。次男を連れて田舎の家に行ってしまって、街には帰ってきてくれなかったよ。私も『こんなにお前たちの事を考えているのに、何故わからないんだ!』なんて意地になってしまってな」
それでも豊かな暮らしには困らないようにとお金は送ったし、帰ってくるならいつでも黙って受け入れるつもりだったという。
「自分はいつでも家族のことを考えているんだと思っていたからな」
寂しいとか、自分が悪かったとか、帰ってきてくれとか、そういう事は言えなかったし、考えもしなかったと笑う。それよりもむしろ、シーラがごめんなさいと言って来るのが本当だと思っていた。
次第に、お金の送金だけが家族との唯一の繋がりになってしまっていたが、別れたほうが良いんじゃないかと言う周囲を突っぱね、頑として離婚はせず「家族」を手放さなかった爺ちゃん。
そのうち帰ってくるんだろうと思って過ごすことに慣れてしまったんだと言った。
「そのまま10年以上が経ってしまってな。ある日、家を出てから一度も会わないままに、シーラが亡くなったという知らせが届いたんだ」
明るくて優しいシーラを失った。いつかまた笑って料理を作ってくれるのだと、そう思い続けていた。だが、それはもう叶わないのだと知った。
「私がやり方を間違ったんだ…。豊かで不自由のない安心した生活を与えたかった。それが幸せにすることだと思いこんでいたんだ。それだけではダメだと気付かなかった」
知らせを聞いて悲しみ、自分と彼女の事を振り返り悔やみ、そして同時に帰ってくるはずだったシーラに手酷く裏切られたような気がして、また「こんなに思っていたのに、俺だけが苦しむ」なんて思ったりもした。
「本当にバカで駄目な奴だ。こんなに駄目でもお祖父様が好きか?」と星を見ながら問う。俺に聞いているのか、他の誰かに聞いているのかわからないと思った。
でも、俺は正直に言ったんだ。「…僕はやっぱりお祖父様が大好きです」
爺ちゃんはふっと笑い、涙を浮かべて「そうか…」と言った。
少し黙ってから、「この森を手に入れたのはな、また皆で暮らすなら、田舎の家よりも大きくて自然の中にあって、ここならもっと喜ぶかと思ったからだった」と、また話し始めた。
だが、シーラは二度と戻っては来ない。子供もきっと自分の事など忘れてしまっただろう。
爺ちゃんは誰にも会いたくなくて、森を歩いて、野宿をして何日も1人で過ごしたという。途中で狼や熊に出会ったとしても、もし崖から落ちたとしても、それで死ぬならそれも良いと思ったと言う。
だが、事業が大きくなりすぎて、捨てるわけにはいかない事もわかっていた。雇っている多くの者達や、その家族への責任もあると。だから、どうしても必要な時には出ていくようにして、それ以外は仕事の多くを部下に任せ、自分は屋敷と森に籠もるようになっていった。誰もそれを責めはしなかったそうだ。
「自分の家族を捨てたような形で仕事をしていた私が、社員達やその家族のことを気にかけるなんて笑えるがな。でも、皆良く働いてくれた。部下に任せることで、皮肉な事に事業は更に大きくなっていった。…もっと早くそうしていれば良かった。自分が!自分が!と1人で頑張ろうとせず、任られる事は任せて家族と過ごせば良かったんだ」
コーヒーを淹れ直し、俺にもココアを半分だけ作って渡し、「夜中にトイレに行きたくなるからな、これでおしまいだぞ」と言う爺ちゃん。
寒くないか?と言って毛布で俺をくるむ。そして両脚の間に俺を入れて後ろから暖めてくれる。
「残った次男はどうなったの?」と聞くと、「次男の事も気にはなったが、きっと嫌われて憎まれているだろう、こんな父親の顔など見たくはないだろうと思ってな」と言う。
シーラの実家で暮らしていると聞いてはいても、息子に会おうとせず、そしてまた金だけは送っていた。
「結局、同じことを続けていたんだな」とつぶやく。
それからまた12年が過ぎて、次男のカールは母方の姓で爺ちゃんの会社に入社していたらしい。カールは爺ちゃんが知らない間に、それから5年も会社で働いていたんだそうだ。
その間に結婚をして子供が生まれて父親となって、仕事に明け暮れていた父である爺ちゃんの事が少しわかったのだそうだ。
カールは誰にも爺ちゃんの息子だとは話さなかったらしい。だけど彼の上司で爺ちゃんの腹心の部下で親友でもある人が、海外支社に栄転する事になったカールと面談をしていて気付いた。
そして、カールと話し気持ちを知り、爺ちゃんと和解が出来るようにと働きかけてくれて、そして爺ちゃんは初めてカールが会社にいた事を知って、4歳で別れてからずっと会っていなかった息子と34年ぶりに電話で話したのだという。
言葉に詰まり、本当に申し訳なかったと言うしか無かった。他に何も言うことが出来なかった、と爺ちゃんが言う。
「カールは怒っていないと言ってくれたよ。そんなはずはないのにな」
自分は父さんに捨てられたと哀しくて怒っていた時も確かにあった、と。でも、大人になって色んな事がわかった。父さんが必死で俺達の為に働いていたことも今ならわかるよ、と。
母さんも意地になってはいたけれど、本当は父さんの所に帰りたかったはずだと。私が作るミートボールはお父さんの大好物なのだと笑っていたと。
「そして『息子がいるんだ』と教えてくれたんだ。『父さんの孫だ』と」
「それが本当のフランツ?」
「…そうだな、本当のフランツ・オルソンだ」
オルソン。…フランツ・ロートリングじゃないの?俺は不思議だと思ったが、そうか、カールがシーラの家の姓を名乗っていたからなんだと気付いた。
「私は息子一家に会うのをとても楽しみにしていた。長年の重い塊が溶けてなくなるような気がして、早速会う手配をしたんだよ」
カール・オルソンは、その時フランス支社に赴任していて、家族も一緒にフランスで暮らしていたのだという。当時の秘書であったセバスが飛行機の手配をして、迎え入れる準備を進めていたそうだ。
そして、いよいよその日が来るという時、カール達の乗った飛行機が墜落したと連絡があった。再会することもなく、カールの妻や孫に一度も会うことがなく彼らはこの世を去ってしまった。
飛行機に乗る前に、嬉しそうに「これから乗ります」と動画を送ってきた姿が、動いている彼らの様子を見た最後になってしまった。
「絶望したよ。また間違ってしまったと。自分が行けば良かったのだ。そうすればあの子達は死ぬことはなかった。全てが私の間違いで起こって、幸せにして守りたかった家族をみんな死なせてしまう事になったと。
今度こそもうこれ以上は生きていたくないと思った。オルソン家で葬儀を行いたいと申し出られ、それに従った。葬儀が終わって、私にはもう生きていても意味がないと、死のうと思ったんだ。何の装備もせず、1人で森に入った。そしてただ歩いていたんだ」
そう言って俺の頭を撫でた爺ちゃん。
「そしたら、ここでな、お前を見つけたんだよ」
爺ちゃんが俺を見て笑った。
「最初は何だかわからなかった。急に明るくなってキラキラした光が見えたんだ。何だろうと思って近付いてみたら、ボロボロの怪我をした子供が倒れていた。驚いて声をかけたが返事がない。でも生きているのはわかった。私は自分が死のうと思っていたことも忘れて、ジャケットを脱いでお前をくるんで、そして急いで屋敷に戻った」
死んでしまったらどうしようと、とにかく急いで戻ったという。
爺ちゃんが居ないことに気付いて探しに出ていたセバスに会い、セバスが屋敷に電話をして部屋の用意をさせた。そして、爺ちゃんより若く体力のあるセバスが俺を抱いて、急いで一緒に屋敷に戻った。
セバスは元々は軍人だったそうで、戦場での手当方法などを一通り身につけていた。屋敷にあった医療品で俺の応急手当をしてくれたのだそう。
それからしばらくして医師が来て診察をし、怪我はひどいが命に別状はないだろうと言うことで、そのまま屋敷で看る事になった。
「医師の見立てで、恐らく5歳くらいだろうと言われ、私は死んだ子供達やフランツが姿を変えて私のもとに助けを求めて来たような気がしたんだ。そして、シーラに『この子供を助けて、一緒にいて愛してあげて』と言われているような気がした。私は、この子を助ける。何が何でも今度こそこの子を幸せにする。間違えずに一緒に幸せになると決めた」
私が今生きているのは、お前のお陰なんだ。と爺ちゃんが言う。お前がいるから、今も幸せに生きていられるんだ、と。
「…僕はお祖父様と一緒にいてもいいの? 本当のフランツじゃないのに、あの家にいてもいいの?」
俺は多分、もう泣いていたんだと思う。
「お前がいてくれないと、私は困る。いてくれないと哀しくて死んじゃうからな」と爺ちゃんが言った。
だから俺は「お祖父様、死なないで!」と言って、爺ちゃんにしがみついたんだった。
「僕がいるから、死なないで!」と。
「死なない、死なないから大丈夫だ。お前が元気で幸せでいれば大丈夫だ」そう言って爺ちゃんが抱きしめてくれた。
そして、「お前は私の血の繋がった孫のフランツ・オルソンではないが、正式に私の孫のフランツ・アラン・ロートリングだ。ロートリングのフランツはお前だけだから、お前は本物なんだよ」と言って涙を拭いてくれた。
『僕は本物のフランツ・アラン・ロートリング』
その時、俺はすごく幸せで、誇らしい気持ちでいっぱいだった。
誕生日の願い事が叶った。僕は本物になったんだ!って。
「さあ、寝床で寝袋に入って、もう寝よう。明日はまた少し歩いて山小屋の方に行くぞ」
爺ちゃんが立ち上がって伸びをした。真似して俺も伸びをした。
タープの下で寝袋に入る。「イモムシみたいだね」と言って笑う。
寝袋の中は暖かくて、俺はすぐに眠くなった。とても安心した気持ちで眠りに落ちて行きながら、翌朝爺ちゃんが言うには「イモムシみたいになっている時に狼に襲われたら動けないよ」と言ったらしい。