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4.御主人


 天気がやや悪い。


 霊のかけた魔術も取り払われ、赤い靴は無事に依頼主のもとへと返されることとなり、霊や笠と共に私もまた依頼主の屋敷を訪れていた。

 戻ってきた靴の姿に依頼主の奥様はやはり怯えた様子を見せたが、霊と人間に化けた状態の笠による重ね重ねの説明によって、少しずつ不安も和らいだらしい。

 ただ、靴の鑑定を聞いた依頼主の反応は、何だか切なげなものだった。


「……そうですか。では、妹の仕業ではなかったのですね」


 悲し気なその瞳。


 箱にしまわれた靴を抱え、依頼主の奥様はしばし俯きため息を吐くと、すぐにまた気を取り直して封筒を笠に差し出した。


「日笠さんの仰るとおりの額です。本当はもう少しお出ししたいところなのですが……」

「いいんですよ、奥様」


 上機嫌で受け取りながら笠は言った。

 人間に化けていても狸の時と変わらず、実に胡散臭いものだ。これはおそらく、日頃、笠と接しているがための主観なのだろう。

 その証拠に依頼主の奥様ときたら全く疑う様子もなく穏やかな表情を浮かべていた。先ほど窺えた切ない様子も今は引っ込んでいるらしい。


「ありがとうございます、皆さま。言いつけ通り、今後この靴は普通の靴として保管します」

「何かありましたら以前お教えした連絡先まで。こちらの霊が駆けつけますゆえ」


 調子よく言われて、霊の眉がややひきつる様子が垣間見える。だが、依頼主に気づかれるより先にひっこめ、霊もまた出された紅茶を味わってから落ち着き払って口を開く。


「恐らく何もないでしょうけれど、私の店の場所をお教えしておきますわ。多くの時は閉まっているかもしれませんが、あなたが本当に必要な時には開いているでしょう」

「……はい」


 店の名刺を渡されて、依頼主の奥様は不思議そうに首を傾げた。

 今は意味が分からずとも、その時になれば分かるだろう。

 だが、靴に宿っていた夢魔が祓われた以上、あの名刺が役に立つことはあまりないと思われる。


 名刺を受け取り、箱を抱え、依頼主の奥様はそっと目を伏せた。


「妹の幽霊なんかじゃなかった」


 もう一度、奥様は寂しそうにそう言った。


「変ですよね。それでいいはずなのに、何故でしょう、がっかりしている自分がいるんです。この奇妙な現象がもしも妹の仕業だったら、亡霊と話すことが出来るかも、とでも期待していたのかしら。もうあの子は何処にもいないのに……」


 かける言葉も見つからず、私は黙ったまま様子を窺っていた。

 笠も同じく神妙な面持ちで黙っているが、霊ときたら呑気に紅茶を楽しんでいる。我が主人ながら情というものがないのだろうかと心配になるところだ。


「あの子はもう死んでしまった」


 奥様は構わずに続けて言った。


「その事実を受け止めなくてはいけないところを、私はこの奇怪な現象に甘えていたのでしょうか。両親もきっとこの靴には妹が宿っているのだと信じていたかもしれない。……でも、違うんですね」


 幽霊がいてくれたら。

 

 私はふと自分自身の願いを思い出していた。


 幽霊が本当にいたら、私ももう一度母に会えるだろうか。好きでもない男――それも吸血鬼との間に出来た私を産むと決めた魔女。人間の血を引きながらも、魔女の心臓を受け継いだ母は、さがによって吸血鬼への殺傷欲求があった。半吸血鬼の私もきっとその対象にいたはずだろう。けれど、母が私に暴力的なものを向けてきたことは一度もなかった。

 私の心臓は〈赤い花〉である。受け継がせた母は死んだ。自身に宿る〈赤い花〉のせいで、殺されて死んだ。突然の別れだった。覚悟もないまま、狩人という名の死神はいきなり母を奪っていった。母の亡骸すらも、今は何処にあるのか分からない。売りさばかれたのだという漠然とした事実しか分からない。


 幽霊がいてくれたら。

 もう一度だけ母に甘えたい。


 ふと、亡き妹を懐かしむ奥様の姿が、私自身に重なって見えた。

 大袈裟に涙を流すわけでもない。とても悲しいという自覚もあまりない。ただ、呆然と過去を懐かしんでいるだけ。ため息が何度も漏れ出し、憂鬱な気持ちに沈んでいくだけ。


 幽霊なんていないのだ。

 いたとすればそれは幻。何かがその姿を借りているだけのこと。

 世の中はなんて残酷なのだろう。


「妹さんは今頃きっと安穏の海辺で暮らしていることでしょう」


 霊がふと言い出した。


「大いなる海、すべての獣たちを大地へと導かれた聖母竜リヴァイアサンとその花嫁である海巫女の見守る場所で、もしかしたら踊るはずだった演目をこなしているかもしれませんわ」

「――大いなる海」


 奥様が呟く。

 そこは、この乙女椿から果てしなく遠い場所にある聖海のことだ。命源と呼ばれる海の果てから人間を含む獣たちの祖を大地へと運んだ神獣リヴァイアサンの住まうとされる場所。

 リリウム市国の端だから、そう簡単に行ける場所ではない。


 だが、依頼主の奥様はそれを聞いて少しだけ穏やかな表情を見せた。


「そう……ですね。そうだといいな……。せめて、あの子がどんな世界であれ、死後も楽しく過ごしていたら……そうだったら、とても……嬉しいです」


 そこまで言って、奥様はついに肩を震わせた。


 かける言葉など見つからない。そもそも何処にもないのだろう。

 私は黙ったまま見守った。笠も同じだった。霊はといえば、泣き出す奥様を前にしても平然とした様子で残る紅茶を遠慮なく啜っていた。



 小雨はすっかり止んだ。


 仕事の報酬を数える霊はいつも非常に退屈そうな顔をしている。


 もともと霊は金というものには執着がない。

 さほど必要としないし、仕事はいつも半ば強制的に舞い込んでくるものだ。それなりの報酬をいただいているとは思うのだけれど、必要経費等以外の自由に出来るお金で購入されるものといえば、私が反応に困るような大人向けの玩具だったりする。

 まあつまり、使い道があまりないのだ。金目当てに仕事をしているわけではないものだから、報酬を数える作業はいつも面倒くさそうにやっている。あまりにも辛いときは私が代わりにやっている。

 今回は別にそこまでではないようだ。


 はあ、とため息をつきながら、霊は数え終わった金額をまとめ、金庫へとしまった。


「退屈だわ」


 長椅子〈シトリー〉にもたれかかりながら、霊は俯く。その姿はとても官能的だ。影の中にはあの夢魔が潜んでいるはずだが、使役して間もないためか気配は微塵も感じられない。そのうち、霊の退屈しのぎに使われる日がくるのだろうと思うと、今から同情する。

 いや待てよ。そうなったときに、同情している余裕がはたして私にあるのだろうか。


「ねえ、幽。ちょっと服でも脱ぎなさいよ」

「何言っているんですか、霊さん」


 相変わらず今日も、我が主人は頭がおかしい。

 しもべであるはずの私の口答えに対し、霊はちらりと睨みを利かしたに留めた。脱がぬのなら強制的に、という気分でもないようだ。とても残念である。

 

 霊はじっと私を見つめている。

 心の内を見透かしてしまっただろうか。そんな後ろめたさにぞくぞくしていると、ふと彼女の瑞々しい唇が動いた。


「幽。ちょっとこっちに来てくれる?」


 唇から見える牙の鋭さに刺激されて、私はすんなりと従った。

 近づけば霊は手を伸ばして私を迎え入れる。引っ張られるままに霊の身体に覆いかぶされば、柔らかな感触がクッションのようで気持ちよかった。

 長椅子〈シトリー〉は大人しく私たち二人分の体重を支えている。霊の許しがあれば、すぐにでも私に接待をしてくることだろう。それでも別によかった。笠は帰ったばかりだし、閉店後のことだから。


 じっと見つめられ、私は何も言わずに霊に身を寄せた。

 首筋が牙に当たるように気を付ければ、霊は満足した様子で私の背を撫でた。


「ずいぶんお利口になったものね」


 そう言ったかと思えば、日課となっているあの刺激が私の首にもたらされた。

 体の芯が熱い。牙の打ち込まれた場所より血が逃げていく感触――その流れが霊の体内へと至っていると思うと、とても感動的に思えて、優越感にすら浸れた。

 彼女の中に私の血が流れ込んでいる。これは一種の侵略であり、支配なのだと。


 長椅子の上で霊を抱きしめながら、私はほくそ笑んでいた。

 

 霊。有能で愛らしい吸血鬼。放っておけば人間とは比べ物にならぬほどの時間を渡り歩くはずなのに、儚げな印象が付きまとう魔物。

 笠という人外の協力者のもと、安全に仕事をしながら存在し続ける孤独な人。

 血以外のことでも彼女には私が必要だ。そして私にも彼女は必要だ。

 母より受け継いだ〈赤い花〉による魔女のさがの苦しみ。”虐げられる”という性を満たしてくれる者がいる限り、私は老いもせずにこの人の傍に居られる。


 だから、私は縛ったのだ。

 魔人――とりわけ魔女に伝わる主従の魔術というもので、霊の心を捕らえ、命じたのだ。


 私と主従になれと。

 あなたが主人で私が従者。

 私の傍に居続け、私を思うままに虐げよ、と。


 半魔女の私であっても、〈赤い花〉はしっかりと働いた。魔女や魔人の心臓さえ受け継げば、血がどれだけ薄かろうが大抵の魔術は使えるのだ。

 霊はきっと気づいていないだろう。

 本当は彼女の方がこの私に支配されているということを。


 存分に血を吸って牙を離す霊を、私は労わるように撫でていた。

 その愛撫に霊は身を寄せてくる。


「幽」


 うっとりとした声で彼女は言った。


「なんだか――」

 

 何かを言いかけるその血みどろの口を、私は唇で塞いでしまった。


 無粋な言葉など今は聞きたくない。

 初めて会った時――私と主従の契りなど結んではいなかった時から、この人は絶対的な強さと圧倒的な雰囲気を宿す素晴らしい吸血鬼だった。今もそれは変わらない。変わらない、ということにしておきたい。

 だって、霊は気づいていないのだもの。


 唇を解放し、その胸に顔をうずめれば、霊は恍惚とした様子のまま、私の無言の願いにも気づくことなくぼんやりと呟いた。


「なんだか、あなたの方が”ご主人様”みたいね」


 いまだいるかどうかも分からない幽霊の代わりに私を癒してくれる確かな宝物。

 常に薄っすらと浮かぶのだろう戸惑いを口にするその顔が、とても美しかった。

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