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2.赤い靴


 町の西側は高級住宅街だ。

 日頃そういう生活をしていない者からすれば、いちいち目にとめて中を覗きたくなってしまうような豪邸がいくつもある。

 今回の仕事の依頼主はそういうお屋敷に住んでいる女性だった。旦那は医者なのだと思う。本人は若い頃に音楽でもしていたのだろうか。応接間にはピアノと共に映る写真や賞状等が飾ってあった。

 本当にここに座ってもいいのだろうかと思うほどのソファに座らされ、居たたまれなさに冷や汗でもかきそうな中、隣に座る霊は出された紅茶を優雅に飲んでいる。

 そしてテーブルを挟んだ向かい側。依頼主の奥様は青白い肌をした生気の薄い人だった。


「日笠さんは主人の友人でして、以前より相談いただいておりました」


 奥様の膝の上には白い箱が抱えられている。


 日笠というのは笠の偽名だ。どういう経緯で近づいているのかは分からない。彼はいつの間にか何かただならぬ事情を抱えている人間をかぎ取ると、半人半狸の姿のまま近づいていくのだ。近づかれたものは笠を狸だと気づかない。変化の術により、日笠という名前の人間の男になりすますらしい。

 この奥様もきっとそうやって化かされたのだろう。


「あなた方のお話もかねがね伺っておりました。……それで……あの――」

「まずはその箱の中身をお見せください」


 紅茶を手に霊が微笑む。

 その言葉にも表情にも一切の牙は抜かれている。他人――特に依頼人に対しては本当に失礼のないように振る舞えるのが霊という人なのだ。

 まるで身も心も淑女のよう。


 優しげな促しもあって、依頼主の奥様は恐る恐るではあったが素直に従った。

 怯えているのは何故だろう。どうやら、その箱の中身を見ること自体を怖がっているようだ。


 しかし、霊は気づかないふりをしているのか容赦なく奥様を促した。


「どうぞ、中身をここに」


 あらかじめ持ってきた風呂敷をテーブルの上に広げ、言ったのだ。


 奥様は戸惑っていた。触れたくもないらしい。だが、霊が穏やかながらもその意思を変えてはくれないと判断したのか、やがては観念して箱の中に手を突っ込んだ。そして、震える手で掴みあげたのは、一組の靴。真っ赤なバレエシューズだった。


 霊の広げた風呂敷の上で、奥様は捨てるようにバレエシューズを手放した。硬いテーブルとシューズがぶつかり、妙に大きな音が生まれる。その弾みを目にしたとき、私はふと変な気配を感じていた。


 ――何か生き物のような……。


「バレエシューズ……。すでに何度か履かれているようですね」


 霊が穏やかに述べて手を伸ばそうとしたその時。


「駄目っ!」


 突如、応接間中に響き渡るほどの大声を奥様は発したのだ。


 びっくりしてその顔を見れば、奥様もまたはっと我に返って頭を下げた。


「すみません……。でも、触れてはいけません。この靴は呪われています。私以外の人が触ると大変なことが起こるのです」

「大変なこと?」


 霊が訊ねれば、奥様は深くうなずいた。


「この靴に魅了されてしまいます。靴に魅入られた者はどうしてもこれを履きたくなって、サイズの合わない人は自分の足を切り落としてまで履こうとするのです。履いてしまった後はさんざん踊り狂った挙句、急に艶めかしい悲鳴を上げて半狂乱のまま倒れてしまうのです。過去に倒れた者は靴を奪ってから三日三晩眠り続け、生と死の境をさまよいました。このバレエシューズは――私の実の妹が死んでしまった日から、おかしくなってしまったのです」


 必死にまくしたてる奥様。

 風呂敷の上に置かれた物言わぬ一足のバレエシューズは、可愛らしい一方でどことなく不気味な雰囲気を醸し出している。

 呪われた靴。触れた者は魅入られ、履きたくなり、履いたものは踊り狂い、半狂乱のうちに倒れ、生死の境をさまようことになるというバレエシューズ。

 

 この奥様の実の妹が亡くなった日からおかしくなったという品……。


「どうぞゆっくりとでいいので」


 霊は静かな眼差しで奥様の心に忍び込む。


「この靴にまつわるお話を逐一お聞かせ願えますか」


 得も言えぬ雰囲気の中、依頼主の奥様はこくりと頷いた。



 嫉妬というものを私はどのくらい理解しているだろうか。

 したことがないなんて口が裂けても言えないけれど、やはり、兄弟姉妹のいない私には、血を分けた家族への嫉妬という感覚に対して、想像しがたい面もあった。

 けれど、バレエシューズに触れるのを恐れながら語る依頼主の表情を見る限り、幼くして突如命を失うこととなった妹へ抱いていた醜い嫉妬心と、それを自覚して苦悩するさま、さらにはもう戻っては来ない故人への愛と悔恨が歪んではいるけれど今も変わらず残っているように思えた。


「私はあの子に嫉妬していたのです」


 バレエシューズは彼女の妹のもの。

 突然亡くなったのは事故のためだった。


「バレエだって私より後に始めたのに、あの子の方がすぐに上達した。親の期待通りに育っていくあの子が疎ましかったのです。成長と共に、どんどん目立っていく彼女を見て、姉の私はひっそりと思っていたのです」


 ――死んじゃえばいいのに……。


 事故が起きたのは、それから間もなくのことだった。


「即死だっただろうとのことです。せめて苦しまなかったことが、救いでしょうと聞きました」


 誰もが予想しなかった事故。

 発表会を間近に控え、赤いバレエシューズと共に練習を重ねてきた彼女の晴れ姿は、結局、実現せぬままに命と共に失われてしまった。

 突然の悲劇に嘆き悲しむ両親に寄り添い、共に涙をしながらも、彼女は心のどこかで感じていた。


「これであの子はいなくなった。輝かしい太陽は失われ、両親の愛情も私だけのものとなりました。……けれど、妹の遺品となったこのバレエシューズは、その日からおかしくなってしまったのです」


 初めに被害に遭ったのは依頼主の友人だった。

 妹を亡くしてすぐ。葬儀に駆け付けた友人は、ふと引き寄せられるようにバレエシューズのある部屋へと歩みだした。その時は依頼主も異変に気付かなった。ただ友人の気の向くままに歩き、その部屋へと至った。バレエシューズを手に取って興味ありげに見つめている友人を前に、彼女は言った。


 ――なんなら、ちょっと履いてみる?


 悪意など当然なかった。

 興味があるのなら、という軽い気持ちだった。

 だが、大人に隠れてこっそり履いてみれば、友人は急に踊りはじめた。


「最初はふざけているのだと思ったんです。でも、違う。様子がおかしいんです。踊りながら泣き出しちゃって、『お願い、私を止めて!』って叫んだんです。『足を切り落として』って――」


 異変に気付いた依頼主と友人の悲鳴に、大人たちが駆けつけたのは随分後のことらしい。

 友人はとうとう力尽きて倒れ、恍惚とした表情と悩ましげな声を漏らして涎を垂らし始めた。その異様な姿に怯えているところで、やっと大人の一人が駆けつけてくれたらしい。


「その後、しばらくはバレエシューズを見るのも怖かったのです。けれど、両親が信じてくれるはずもなくて、私と友人以外の誰もがバレエシューズの異様さを理解してくれなかった」


 そして、程なくして二度目の異変は訪れた。

 親戚の子が用あって両親と共にやってきた日のことだ。誰もが目を離したその隙に、その子供はバレエシューズの置かれた部屋へと迷い込み、取り憑かれたようにそれを履いてしまった。

 子どもの悲鳴に人々が駆けつけてみれば、赤いバレエシューズを履きながら泣き喚く異様な姿があったのだという。大人数名で取り押さえ、ようやくバレエシューズを奪いとることが出来た頃、子どもはすっかり気を失っていたらしい。

 涎を垂らしながら、恍惚とした表情で。


「そこでやっと、さすがにおかしいと両親も気づきました。私の訴えのことも信じてくれました。これはきっと呪いなんだって。死んだあの子の無念がこのバレエシューズに宿っているのだって」


 その後、バレエシューズは厳重に保管された。

 捨ててしまおうという話もあがったが、流れてしまったらしい。

 これは我が子の遺品。そのうえ、死んだ子どもの霊が宿っているのかもしれないとすると、捨てるなどとても出来ないと依頼主の母が言い出したためだった。


「死んでからも、私は母を独り占め出来なかったんです。でも、それはいい。それはいいんです。この靴には妹の魂が宿っているかもしれない。踊りたかった思い、立ちたかった舞台への憧れが暴走して、人々の心を害している。……それがとても怖いんです」


 霊能力者という人々に見せようという話もあがったそうだ。

 魔女や魔人と名乗り、そう呼ばれる人たちに霊視を頼み、どうにか解決できないだろうかと。なんなら供養できやしないかと。


「けれど、誰も私たちを助けてはくれませんでした。この靴を見るなり霊視を拒否する人もいましたし、任せろと言った人のまじないは効果もなにも現れない。結局、両親は諦めました。そして残った私も結婚し、実家を去る際に、より厳重に保管できる我が家へと妹の靴もつれてきたんです」


 半永久的に保管するつもりだったのだろう。

 この家にも子どもはいるはずだ。子どもたちがいつか触るのではないかと思えば怖くてたまらなかったことだろう。

 だが、そんな時に笠は彼女を見つけ、近づいた。


「失礼を承知で申しますと、あなた方のことも心から信じることが出来ないというのが本音です。けれど、もしもあなた方にどうにか出来る力があるのなら、ぜひともこの靴の呪いを解いてください」


 必死に頭を下げる奥様を前に、霊は優雅に紅茶を飲んでいた。

 香りを楽しみ、後味に浸り、そして存分に楽しんだ後に、カップをことりとテーブルに置いてから、吸血鬼であることがぎりぎりばれない程の不気味な眼差しを奥様に向けた。


「分かりました。こちらの靴はお預かりしましょう」


 我が主人の満面の笑みはいつ見ても胡散臭い。

 奥様はというと、もの言いたげな表情ではあった。だが、彼女に何か言わせる雰囲気すら見せない。結局、奥様は特に反論もせず、バレエシューズを箱にしまい、差し出してから頭を下げたのだった。


「よろしく……お願いします」


 震えた声が痛々しかった。

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