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1.幽と霊


 ゆうという名前を嫌いになったことがあるかと問われれば、たぶん、何度もあるだろう。

 からかわれるきっかけは沢山あったし、この文字である。冷やりとした話が恋しくなる蒸し暑い季節には特に、私の名前もからかわれるものだった。

 幽は幽霊の”幽”。

 母のネーミングセンスの肩を持ちたいわけじゃないが、私の幽は幽霊ではなく幽玄の幽だ。幽玄な女性になってほしいと愛娘であった私に残してくれた宝物だ。

 学生時代はいちいち腹を立てて、自分の名前にも自信を失っていくほどだったが、成長した今ではちょっと逞しくなってきた。母の遺してくれた大切なものとして、私はこの幽という名前に誇りを持っている。


 それでも――。


 幽霊の”幽”か。

 今は昔の悪友共のからかいが、仄かな寂しさを呼び寄せる。

 人々はいつだっていなくなった大切な存在との再会を、幽霊を信じることによって期待している。そこにあるのは希望であり、もう二度と会えないという現実から目を背けたい、信じたくない、今は受け入れられないという人のための夢でもある。

 私は幽霊を信じていた。死んでしまった母とまた会えると信じていた。

 だが、それは夢でしかない。

 たしかに幽霊のようなものは存在する。私が全て幻聴であり、幻視であると信じていたものの一部は、幽霊のようなものたちの仕業だった。しかしそれは、幽霊そのものじゃないのだ。


 ――死んだ母のせいでもない。


 幽霊でもなんでもない幽霊のような存在は、常に私の傍にいる。私の雇い主であり、もっとも頼るべきでもある人もまた、そういった者の一人だった。


「私たちの仕事はね、人間たちの悲しみの上に成り立っているの」


 赤を基調とした私服に身を包んだ妙齢の女性。大陸の西側に存在する諸外国系の人々並みに白い肌をしているが、髪の色や目の色は此処――乙女椿の国民たちとそう変わらない。肌も、髪も、目の色も、若干薄い色をしているくらいだろうか。それでも、乙女椿の人間だと言われればそのまま信じてしまうだろう。そういう容姿をしている。


 彼女の名前はれい。霊の霊は幽霊の霊とぜひとも大声で言いたいところだが、そうではない。由来は霊宝であるらしい。とても有り難そうなお名前だ。


「正体を知る者は、時折、私たちのことをハイエナと呼ぶ。大切な人を失った悲しみを素早く嗅ぎ付けて忍び寄る胡散臭い奴らだと。けれど、ハイエナで結構。彼らだって懸命に生きている。そう罵られるだけならば問題ないの。でもね、幽、困ったことに中には本気で私たちの存在を許さない輩もいる。彼らは狩人であり聖剣士とも呼ばれる人たち。古くより伝わる退魔の力を手に、今も私たちを探している。――撲滅こそが正義だと信じて」


 彼女は、人間ではない。ついでを言えば、私も同じようなもの。


「暗い話はこの辺にしておきましょう。朝っぱらから憂鬱になっちゃ仕方ないわ」


 生あくびをした後、霊は私を手招いた。


「おいで、幽」


 彼女が座っているのはいわくつきの長椅子だ。


 ここは霊の持ち家。店と自宅が一体となった骨董屋。だが、ただの骨董屋ではない。客となるにはそれなりの紹介が必要であり、客の資格のない者には扉が開かない。資格は狸が運んでくる。笠をかぶった狸が困っている者を導き、霊に紹介することで店の扉は開くのだ。

 持ち込まれる骨董品、売られていく骨董品。どれもただのアンティークではない。何かしらの記憶がこびりつき、正当な持ち主といい別れ方をしていないものばかりである。


 今、霊が座っている長椅子もその一つ。ただしこの椅子は、今や霊を主人だと認めているらしい。


 霊は長椅子に名前を付けた。その名前は〈シトリー〉という。座った者に対して、裸の美女にはべられて悩ましいことになるという奇妙な夢を見せてくれる。どういうわけか、女性が座っても同じ夢を見ることになる。起きてみる夢は白昼夢。とんでもないもてなしをこの椅子はくれる。普段はその気がなくても、〈シトリー〉の手にかかればあっという間に溺れてしまう。


 私としてはとても怖くて座れない長椅子だが、霊は主人である特権を生かし、息をするかのように平然と座るのだ。

 そこに座るのがどんな時か、だいたいは決まっている。


「可愛い私の愛玩奴隷。今日の奉仕をなさい」


 威圧的に微笑するその口元からは牙が漏れている。

 あの牙はとても鋭い。狼の牙なんかよりもずっと鋭く細いため、血を吸うのに優れている。そして牙にもたらされる痛みは、思い出すだけで体がじわりとするくらい官能的なものだった。


 奉仕、というのが何なのか。

 分からないはずもない。


 霊は私の主人。

 人間以外のあらゆる血が混雑した半端者の私の魂を揺さぶり、心身をいいように操ることが出来るこの世でたった一人の特別な吸血鬼である。

 今の私は霊のためにある存在。この身体、この魂は、霊のために存在している。

 こうなったのも運命。私は運命を引き寄せ、受け入れた。抗う牙は別の場面にとっておこう。純血の吸血鬼である霊のものと比べればあまりにも頼りない子供の牙ではあるけれど、私も一応、吸血鬼の血を引いている存在なのだから。


 長椅子に座る霊の正面で跪くと、霊はその美しい顔にさり気ない不満の表情を浮かべた。

 いちいち命令しないのが私の主人の特徴だ。次にどうするべきかは私が考え、決める。長椅子から主人は動かない。主人の目的は私の身体に流れる混雑した血の味。ならば、どうしたら吸いやすいかを考え、結論として私は片腕を霊へと差し出した。


「駄目ね、分かっていない」


 だが、霊は一言で拒絶した。


「吸血鬼ならば分からねばならないことよ」

「ごめんなさい」


 私はあわてて謝った。


「やっぱり私は半端者なのです」


 父の顔は知らない。だが、吸血鬼の性質は父から受け継いだものだ。こんな私はヴァンパイアではなくダンピールと呼ばれる。ダンピールはヴァンパイアを殺す力があるともされるが、私の場合、半分引いているはずの母の血も、純粋な人間とは言えないものであるので、その能力も怪しいものだ。

 私の中に流れる人間の血は、いったい、どのくらいの割合だろう。


「いいこと、幽。吸血鬼っていうのには種類があるの。私に流れるのはマグノリア王国の由緒正しき吸血鬼の血筋。そこの出自の風来坊がマグノリアさえも出ていって、東の大国――蘭花ランファに住む吸血鬼と血を交え、その子孫が此処、東の島国乙女椿へ渡った。そして出会ったのが、ローザ国から来た吸血鬼と元来この地に根付いていた吸血鬼の間に生まれた女性。その二人が出会って、私が生まれた。全員吸血鬼だけれど種類が違う。純血の吸血鬼だと人は言うけれど、私だってあなたと同じ、混雑種よ」

「けれど、私には吸血鬼以外の血さえもがいっぱい入っています。何より、私の心臓は吸血鬼のものでもダンピールのものでもないのです。こんな私にあなたのパートナーが務まりましょうか……」

「務まるかどうかじゃないの。務まらなくてはならないの。誰が何と言おうとあなたは私のしもべ。契約は取り消せないのよ。分かったのならさっさとどうすればいいか考えて」


 吸血鬼の血を引いているといっても、私は吸血を必要としていない。私にとっての食事は人間のものと同じであるし、”それ以外に必要なもの”もまた誰かの血ではなかったりする。

 だから、吸血鬼が何を望むかなんて自分には分からないけれど、この高圧的なご主人様はそんな私の戸惑いに付き合ってくれるような性格ではないから、文句を言っても意味がない。


 それに、霊がいま何を望んでいるのか、本当は分かっていた。

 ただ、気恥ずかしかっただけのこと。


 しかし、あまりに無視をすることもまた、従属として正しくないだろう。

 私は観念して、行動に移った。

 長椅子に座り続ける霊。その体に覆いかぶさるように身体を密着させ、麗しいその唇に自分の首筋が当たるように押し付ける。息がかかるとくすぐったい。だが、今にそんなくすぐったさも吹っ飛ぶような感覚が押し寄せてくる。

 期待と不安に胸が押しつぶされそうになっていると、霊がくすりと笑った。


「分かっているじゃない」


 そうして、霊は私の身体をぐっと抱きしめた。

 強い力はいつものことだ。背骨が折られてしまうのではないかと怖がったのも最初の頃だけ。今ではこの強い抱擁が私の支えでもあった。

 このまま殺されてしまうのではないか。その不安は私の命と共に霊の手に――いや、牙に委ねられる。そして、覚悟を決めてすぐにその刺激が体にもたらされた。


「ひっ――」


 思わず声が漏れてしまって、途端に恥ずかしくなった。

 感じているのだと悟られるのは怖い。ただでさえ血を吸わせて満足させているのに、それ以上満足させるなんて悔しかった。霊が主人であるとは言っても、全てにおいて下に置かれるのは納得がいかない。私は何処かで霊よりも上に立ちたかった。

 今のところその願望もろとも吸血という行為一つで見事に、華麗に、そして官能的に砕かれることになっているのだけれど。

 これは霊の朝ごはん。本当は人一人を殺すほどの血が必要であるらしいのだが、それでは町を荒らしてしまうことになる。


 昔は吸血鬼という存在も強い時代だった。闇夜に紛れれば簡単に人を狩ることもできたし、そう簡単には突き止められずに済んだ。だが、今は時代が違う。夜道は街灯が照らしているし、昔よりも便利なものが増えすぎた。

 吸血の欲求に負けて行動すれば、すぐにでも吸血鬼は滅ぶだろう。餌は人間だが、彼らは強敵にもなる。そのうえ、吸血鬼を襲うのは彼らを恐れる人間だけではないのだ。何かを狩る者は何かに狩られる者。霊がこうしてひっそりと暮らしながら仕事をしているのも、狩人や聖剣士という捕食者を恐れてのことだった。


 もちろんそれは、あらゆる種族の混血児である私も同じ。


「あっ、うぐぅっ――」


 唇を噛みしめて耐える私を、霊はさらに引き寄せる。

 吸血には必要のないはずなのに、胸に触れたり、太ももを触ってみたり、抵抗できないからと言ってやりたい放題だ。けれど、不満に思ったからと言って力任せに逃れる術はない。血を吸われていけばいくほど力がなくなり、霊の身体の上に寝そべる形となってしまうからだ。


 私は人間ではない。人間の血も引いているけれど、それ以外の血をもっと引いてしまっている。

 母は半分だけ人間だった。半分だけ人間であり、半分は魔女だった。

 魔女の中でも珍しい〈赤い花〉と呼ばれる特殊な心臓を持ち、魔女のさがと呼ばれる他人の嫌悪感を招きかねない呪いで吸血鬼殺しの本能を持っていた。だが、その本能を生かして仕事をしていたある日、母は戦いに敗れ、私の命を宿すこととなった。

 宿った私を産んでくれたのは何故だろう。記憶をたどっても、いまは亡き母が私を憎んだり、蔑んだりした覚えは何処にもない。記憶にあるのはいつだって優しい母の柔らかな笑みばかりだ。


「相変わらず美味しい……」


 いつの間にか快楽の波が治まっている。

 霊は私を抱いたまま恍惚とした表情を浮かべていた。牙には真っ赤な血が。私の首筋も血だらけだろう。それでも痛みはよく分からなかった。

 胸をぴったりと霊の身体にくっつけながら横たわっていると、霊はにやりと笑ってその指をそっと私の服の中へと忍ばせてきた。


「この肌の中」


 尺取虫のように動き、鼓動を求めて動き出す。


「この胸の中に〈赤い花〉があるのね。誰もが求めた至高の薬。古の猛者たちは、言い伝えを無視して〈赤い花〉を乱獲し、悪魔のほくそ笑む通りの未来を招きそうになった。悪魔は今でもあなた達を滅ぼしたがっているそうよ。大陸の三神獣を呼び覚まし、災いを防ぐものなのだと信じて」

「……私はそんな大層なものじゃありません」


 指の動きのもたらすものに必死に耐えながら、そして、霊の温もりを存分に味わいながら、私は答えた。


「それはきっと別の〈赤い花〉でしょう。私はそんなものになりたくない。運命の許す限り、あなたの奴隷でいたいのです。魂と魂が結ばれている。きっとこれが私のさがなの。あなたの奴隷でいることが、私の魔力の源となる。この関係に身を浸していれば、もしかしたらもっとあなたの役に立てるかも」

「幽ったら。別にそんなことしなくてもいいのよ」


 そう言いながらも、霊は何処か嬉しそうだ。


「でも、有り難いことね。あなたの性がそれであっているのだとしてもしなくても、この関係は私の為になる。ただの人間の生き餌ではないの。あなたは吸血鬼の血をたっぷりと引く魔女。そして、微かに人間の血を引く魔女。貴重な〈赤い花〉のありがたみに、同族の強さと、人間の美味しさを詰め合わせた贅沢品。そんなあなたを独り占めできる身分になれて幸せよ」


 ダイレクトなその言葉。まるで愛の告白のように思えてしまって、何だか嬉しかった。

 気が抜けたその途端、霊が指を使って”悪戯”をしてきた。声が漏れぬように耐える暇も貰えなくて、すぐに私の顔は真っ赤になった。

 そんな私を霊は抱きしめる。


「幽」


 甘い声で囁いてくる。


「私を満足させてくれたご褒美をあげましょうか」


 その後の記憶は曖昧なものだ。


◆ 


 彼が来る時間はいつも小雨の音がする。

 天気予報では晴れと言われていたとしても、彼が来るだけで台無しになる。

 かさという者は、そんな雨男だった。


 男と言っても人間ではない。人間のふりをしていることもあるが、私や霊の前に現れるときはいつだって二足歩行の狸の姿をしている。焼き物のようにユニークな表情は、とても悪いひとには思えない。被っている名前の通りの笠は先祖代々被ってきたらしいものだが、履いている草履は霊の店で譲り受けたものであるらしい。

 ちなみにその草履とは、すり足で歩く音を聞いたものの警戒心を無くすものであるのだとか。

 霊はその草履に〈グシオン〉という名前を付けていたが、由来は聞いていない。たぶん、聞いたとしても覚えられないだろう。そもそもその名前は草履の雰囲気にあまり合わない。


「で、今日も朝っぱらからいちゃついていたってわけかい?」


 応接用のテーブルでデリカシーの欠片もないことを言う笠に対して、霊は眉一つ動かさずに返答する。


「ただの食事よ。お互いの、ね」


 そこに含まれている意味にすぐに気づいて、私は店の隅で小さくなっていた。


 二足歩行の狸という容姿であるとはいえ、一応は男性である笠に対して何を言っているのだろう私の主人は。恥ずかしさにどうにかなってしまいそうな中、笠はわざとらしく咳払いをした。たぶん、彼も居たたまれない気持ちになっているのだろう。


「それはそうと、霊。新しい依頼だ。ほれ」


 テーブルに載せられるのは手紙。

 送り主が誰なのかは私からは見えない。

 受け取って読み始める霊の表情はちっとも変わらない。すらすらと文字に目を通し、そして捨てるように紙を手放すと、獲物の心を魅了するその眼差しで笠を軽く睨み付けた。


「断る権利ってあるの?」


 いつもと同じ第一声だった。

 霊はいつも仕事に対して乗り気ではない。

 そして、返ってくる言葉も同じ。


「ないね」


 不敵に笑う笠の横顔もいつも見るものだ。


「いや、やっぱり訂正しよう。権利はある。だが、君が断れば断っただけ世の中は混沌としたままだ。町に溢れる奇怪かつ悲劇的な穢れを放っておけば、俺が君にプレゼントした御守石の効果も削られていく。そうしたら、きっとまずいだろうね。この店を守る結界はどうなっちまうんだろうなあ」

「あーはいはい、分かった。ごめんなさい、私が悪かったわ。やればいいんでしょう、やれば!」


 毎回同じようなやりとりをして飽きないのだろうか。

 そんな思いを胸に、私は静かに見守った。


 今回の依頼は一体どんなものなのだろう。内容を教えてもらうのはいつも笠が帰ったあとだ。一応は、参加するかしないかを選択する権利を与えられるけれど、霊は主人で私は従者、そんな権利がどうして役に立とうか。

 霊がやれと言ったらやる。待てと言ったら待つ。よく躾けられた雌犬のようにしか動けない私にとって、依頼の内容を知る意味なんて単なる興味と好奇心と心がけのために他ならない。


「よかった。君ならそう言ってくれると信じていたよ」


 わざとらしく笑いながら笠が立ち上がった。

 すり足で店内をうろつけば、〈グシオン〉と名付けられた草履が例の不思議な音を鳴らしだす。外にいるとき、笠はあの力を役立てたりしているのだろうか。依頼主の心にひっそりと忍び寄るときなど、あの力を利用していたりするのだろうか。


「じゃ、俺はもう行くから。君の都合のいい時にでも依頼主のところに行ってくれ。相手は君のことを吸血鬼だと知らない。くれぐれもそれを忘れないようにね」


 名前の通りの笠をかぶり直し、彼はのそのそと店を出ていった。

 彼が姿を消して程なく、小雨はやんだ。

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