REVENGE#2
グロテスクな邪神への復讐を開始したダーク・スターだったが、高ぶる復讐心は彼を狂わせてしまう。しかしふとした切っ掛けで、遥か昔に自分が邪神達から受けた痛みを思い出して…。
登場人物
―ダーク・スター…〈揺籃〉への降下を試みる心優しい復讐者。
―リージョン…〈一なる群体〉。
コロニー襲撃開始から数時間後:PGG宙域、〈暁の安息所〉星系第4惑星〈揺籃〉
漆黒の光明神は万軍に匹敵するがごとき戦闘能力を見せた――広範囲を攻撃できる〈ダーク・シュラウド〉は大気圏を自由に出入りして斬撃の雨を降らせ、傲れる大群に天罰を与えんとした。
当初、ダーク・スターの心は至って穏やかであった。復讐だというのに不自然でさえあった。だがへどろ色をした有機的な意匠の聖剣〈ダーク・エグゼキューター〉が〈揺籃〉の都市上空を覆い尽くす〈一なる群体〉の一部を斬り裂くうちに、激烈な感情が沸々と心で煮え立った。復讐という目的を成し遂げるため、それまで己の健全性を保つ意味合いで忘却の彼方に置かれていた暗い記憶――これまでの人生で最も辛く、屈辱的で、許しがたく、そしてあまりに悲しい負の遺産を掘り返してしまった。その最も重苦しい記憶が青年の心の中に注ぎ込まれ、当然の権利であるとしてその存在感を主張し始めると、狂気じみた満面の笑みが彼の顔に浮かんだ。
「リージョン、君が僕に押し付けたんだよ」
君に理解できようか。かようなふざけた、納得もいかぬ受け入れがたき結果を押し付けられるという苦痛を。ああそうだとも、僕は漸く君を虫けらのように捻り潰せる。そう、元より君はただ力そのものが強大であったに過ぎない。対等な条件下、今のように君が全盛の無限小の力しか出せないならば、君ごときが僕を上回るはずがない。本来であれば守り通せたはずだ。耐え忍ぶという行為がどれだけ苦しいか、君にはわからないだろう。片手間に始末できる君ごときに、僕は対等な条件下に置かれていないという制約のせいで撤退を選ばねばならなかった。最も大切なものが目の前で引き裂かれるところを見ながら、何もできないなど。あれから少しは君も鍛錬したようだが、どちらにしても下等なものでしかない。あの惨劇の日、たかだか君のような、碌に技量を磨いた事もない底辺の塵芥が調子に乗って『自分は強い』だとか『あの星も大した事はなかった』だとか、別に全く才能や技量が介在しないただの狡を用いたごり押しで勝っているだけで、君が勘違いしていると考えたら我慢ならなかったし、虫唾が走った。今君はどんな気分かな。
「もしも君が僕に群体の一部を斬り捨てられる事で痛ければ嬉しいよ。僕を覚えているかい、〈一なる群体〉! この声を! この流派を! この技を!」
狂った興奮で青年は本来起こるはずのない動悸に身を任せ、大して用を成さなくなった心臓が早鐘を打っている気がした。それが錯覚なのか現実なのかはわからないが、甘美な復讐の味は彼を大いに酔わせた。怒りのままに振るう刃の、なんと心地よきものか。あの時誰を怒らせたのか、君は身を持って今思い知る。青年の顔に浮かぶ狂気の笑みは彼の普段の疲れた印象と正反対で、あの心優しい青年がかくも狂乱するとは、誠に信じがたい事実だろう。秒間数千数万の斬撃は彼の心を満たす復讐心に応じて更にスピードを上げた。意図的に物理法則を逸脱させた振る舞いが狂気じみた歓喜の感情との相乗効果で恐るべき破壊を振り撒き、黒々と空を覆い隠すリージョンの一部は一薙で複数の一部が掻き消え、それが秒間に大艦隊の一斉砲火のごとく放たれるものだから、見かけ上はリージョン総体に甚大な被害を与えているが、依然として地表は見えなかった。センサーは何らかの障壁の存在を検知しており、それがかなりの広範囲である事が現時点でわかっていた。それこそがあの異様な大気の正体なのだろう。
「誰だ? 邪魔をするな!」
気も狂わんばかりの悍しい、底冷えするような怪物の声が漆黒の光明神に伝わった。偉大なるドラゴンのクトゥルーにかけて、この群れが一斉に発する有害な声は、腐れ果てて腐肉掃除屋に集られた水底の魚の死体がごとき醜悪さで、あるいはじめじめとした洞窟でのたうつ知性無き大蛞蝓の放つ納骨堂じみた悪臭に類似していた――それらはあくまである程度言い表すのに適当と思われる比喩であり、実際にはそれらの数千倍は厭わしい音声であった。事実として、このわざとらしい愛嬌を纏った〈一なる群体〉に、健全な部分など存在せず、もはやそれそのものが窮極的な冒瀆行為であるらしかった。空を覆う一体の大群からこの復讐に支配された青年向けて投げ掛けられた声――これを声と呼ぶのならば――が不幸にも気流のいたずらで地表まで届き、闇の帷に包まれた都市で辛うじて正気を保っていた避難民の一人に届き、その精神を容赦無く捻じ曲げた。だが青年自身は、そのような穢らわしさに染まる事は無かった。怪物と対峙する者が怪物になったとしても、それが同じ怪物であるとは限らないのだ――青年はあくまで自己完結の狂気に浸り切り、へどろ色の聖剣を振り回していた。
「すぐに思い出せるはずさ、同じ苦しみを知れば。僕が君の世界を血染めにしてあげればね!」
「お、お前! まさかあの時の?」
怪物が発した動揺の声を聞いた事でとほんの少し、それこそ電子一個分程度だけ、青年は淡い期待を抱いた。望みは限りなく薄いが、それでも熱心な新入り信徒のようにそれを祈った――もしかしたらこのグロテスク極まる〈一なる群体〉とて、後悔や罪悪感の類を持ち合わせているのかも知れない。
「思い出したかい?」
狂気の薄らいだ声が怪物に問い掛けた。返答までの時間は永劫のごとき永さに感じられた。その間も半ば自動的に、青年は己の駆る漆黒の光明神を無意識じみた不気味な正確さで操縦し、斬撃の嵐を引き起こし続けた。やがて、あの腐り果てた穢れの美声が返事を寄越した。
「思い出したとも! お前のような恐ろしい化け物に、麗を傷付けさせるわけにはいかない! 俺が不浄から守ってやるんだ!」
認識のずれ。またあの、あり得ざる認識のずれ。何度申し出ても全ての交渉を無視し、彼の故郷を…。
「神になった事で俺は異形となり、そのせいで麗との間に海が広がってると思う事もある…だがそれでも心はそれ程離れていないはずだ――」
それ以上は遮られて言えなかった。
「いい加減にしろ。君が押し付けたものを知るんだ! 君が僕に何をしたか! 君達が招いた全てを!」
青年の膨れ上がる狂気と怒りは更なる猛攻へと繋がった。しかし障壁の隙間から地表が一瞬だけ見えた――地表では建物から炙り出された市民達が組み伏せられ、噛み千切られ、そして引き裂かれていた。その光景を見てあの故郷滅亡の日の最も地獄めいた記憶が、思い出さぬよう隠していた部分さえも鮮明に蘇った。
太古の時代:いずこかの宇宙、滅亡した惑星、いずこかの世界都市
予言とてなき終わりの日が訪れた――空は汚染され、この世のものならざる地獄めいた怪物を目にして狂い果てる人々が、健全さを保っている人々をも巻き込んで恐怖を伝播させていた。才気ある青年はこの地獄の中で、先程妹とその連れ合いがどうなったかを思い出して、しかしその下手人に裁きを下せぬ事が何にも増して腹立たしかった。
青年は一家の期待を集める天才であり、一族の誇りであった。それ故悲劇的にも、妹及び彼女と共に旅行をする予定――こうした男女の旅行は結婚式に相当する文化であった――だった誠実な男とが、一族の寵児を守るため自ら囮になり、そしてその後起きたグロテスクな音色と血の香りは、目を逸らしてその瞬間を見なかったにも関わらず、長い事彼を苦しめ続ける事となる。彼とて科学及び魔術の天才として将来を有望され、様々な新発見や偉業を成すであろうと思われていたから、その自負心は不遜な程だっただろう。しかしながら、それでも己の愛する妹とその将来の伴侶がその身を犠牲にしてまで、己を生かしてくれようとした事実は、あまりにも悲痛であり、必要経費などと納得できるはずもなかった。己はそうまでして生かされるべき存在か? 一族の優秀な者を尊敬し、その者を中心に他の親族が生活を送る古きしきたりにより祀り上げられた身なれど、うら若き男女をその生存のための贄として捧げるなど、正気とは思えなくなった。今まで以上に敬ってくれるようになった妹が、将来の事を嬉しそうに語っていたある日の午後。薄紫色の晴れ空の下で語り合ったあの時、妹はとても美しく見え、どこまでも愛しかった。そしてその彼女が新たな幸せを得られる事を知り、彼女が誠実な伴侶と歩むであろう未来を夢想しては、誇らしく思ったものだった。
だからこそ思わざるを得ないのだ。本当に僕のために彼女らを犠牲にすべきだったのかと。
しかしやがて、青年は悲嘆の水底から必死に水面まで登り切り、現実を受け入れる他ないと覚悟した。彼女達は自ら望んで、誇り高く自己犠牲を選んだ。このふざけたしきたりによりて、一族の期待の星を生き延びさせるという選択をしたのだ。ならばその犠牲は、決して忘れてはならないし、無駄にしてはならぬのだ。
地獄と化した故郷の街を駆け、そこら中で巻き起こる殺戮を目撃し、その度に口から吐瀉物が漏れ出た。喉元と口の中に広がる焼け付くような感覚と不快な刺激臭。気持ちの悪い半消化された食物の粒が混ざった吐瀉物がごぼごぼと溢れ、咽返り何度も転倒した。必死の形相で走り回り、無様に転けて砂や自分の血――そして見知らぬ誰かの内臓――に塗れ、溢れた吐瀉物で服を汚しながら、それでも彼は走った。せめてまだ存命の家族がいるかも知れない。アカデミーから家までの道のりでは、多くのグロテスクな怪物を見たが、彼はその優れた洞察力で、それが一つの意思によって動かされるばらばらの一個体である事を悟った。しかし屈辱極まりない事に、彼の学んだヘリックスの魔法は攻撃へと転用したとてどれ一つそれら怪物を傷付ける事叶わず、プライドは砕かれ満たされぬ復讐心で気が狂いかけた。それはいか程の無念であったか――生まれた街を焼かれ、山河は血に染まり、そして愛する家族が犠牲にならなければ己さえ今頃はあれらに引き裂かれていた。だと言うのに、その復讐が成し遂げられない。
そしてそれだけではない、今なお巻き起こっている目の前の殺戮劇を見る事しかできなかったのである。
『走って逃げている母子は幸運にもあの怪物を直視しても気が狂わない程の精神力を持っているらしい。だが後ろを振り向いて後方確認をした際に運悪く躓き、どさりと倒れる母親。その顔は絶望から、己のしくじりによる壮絶な後悔へと代わり、彼女が抱えていた幼子が腕から投げ出された。背後から迫る怪物の群れから逃れようと必死で立ち上がった彼女の目の前で、道路沿いの建物の屋根からぼとぼとと落ちてきた穢れの群れが幼子に飛びついた。耳を劈く悲鳴と助けを求める視線、そして怪物に幼子が覆い隠される寸前、幼子と目が合い――その後の事は、もう思い出したくもない』
『発狂して自ら眼球を潰す者、命を絶つ者。しかし全ての自殺者が上手く行くはずもなく…死ぬに死ねず苦しみの呻きが大合唱を成し、怪物達は敢えてそうした犠牲者達には手を出さず、苦しむままにしておいた――あの群れ成す単体の怪物、暴走するように血飛沫を浴びる怪物、じっと地獄を眺めて巌のように立っている怪物。これらのコミュニケーション手段を観察し、ある程度その法則性を掴めてきたが、聴き間違いでなければ、あの群体は『正義』という単語を仲間との会話で使用していた。何を莫迦な…』
『あの先は避難所らしい。だがそれを守るために立ち上がった者達はいずこへ? 見れば怪物に組み伏せられており…まさか、そんなはずは…避難所にいる避難者達が見動き取れぬ戦士達の眼前まで連れて来られて…やめろ、やめろ!』
青年はそうした悪逆の徒らの狼藉を前にして、何もできなかった。時間稼ぎすら、妹とその将来の伴侶のお陰で生き永らえた己の命を犠牲にせぬ限りは不可能だったのだ。悔しさに歯噛みする他なかった。
我が家もまた見る影もなく、立派な装飾や彫刻が穢されていた。首から上がどうしても見つからぬ父の遺体に短い葬儀をし、足早に邸宅を捜索していると、中庭で母を見付けた。叫ぼうとするも彼女の視線で射殺され、声を出せなかった――そしてその瞬間、上や横から雪崩込んだ〈一なる群体〉が彼女を取り押さえた。ならばわざと囮として目立ってくれたというのか。
そこに他の怪物――血塗れの怪物と無表情の怪物――も現れたところで、彼らが青年の眼前で血肉の宴を開く事が明らかとなった。血を浴びた狂戦士はつかつかと取り押さえられた青年の愛する母に近付くと、しゃがんでから軽く手で彼女に触れた。その瞬間やめろと叫んだ青年の声は母の慄然たる悲鳴に掻き消され、見れば彼女の黒い肌が削り取られていたのだ。触れただけで頬を剥がせるなれば、やはり悍しい悪鬼であろう。許せないというのに、しかし青年は反撃などできなかった。自分に矛先が向く事を恐れたのだろうが、その我が身可愛さこそは、悔しくて仕方のない屈辱であった。彼はこの時最早、己のプライドを傷付けられる事と家族を傷付けられる事のどちらがより苦しいかが曖昧になっていたが、いずれにせよ激烈な怒りを抱いて涙と吐瀉物にその顔を汚しながら泣き叫んでいたのである。母の頬からどくどくと流れた血が中庭の土を染め、そこがちょうど幼い頃よく母と遊んだ地点であった事を思い出して更に声を炸裂させた。
それを嘲笑うように、あの血塗れの怪物は片腕を振り上げ、それをあっさりと振り下ろした。びしゃりと飛び散った血肉や臓物が彼の顔に付着し、怒号は天を衝いた。
コロニー襲撃開始から数時間後:PGG宙域、〈暁の安息所〉星系第4惑星〈揺籃〉
遥か下方の地上で起きていた地獄めいた饗宴は、ダーク・スターが復讐を志す原因となった遠い昔の事件を思い起こさせた。ほとんど無意識で操縦しつつ、彼は今の心境を吟味した。皮肉な事に、故郷を焼かれ最愛の家族を殺され、プライドをずたずたに引き裂かれたあの事件は、青年の心を穏やかな水面のように落ち着かせた――他ならぬ彼自身が何とかしなければ、眼下で更に犠牲者が続出し、彼と同じ思いをする者達が増えてしまうのだ。リージョンとは目の前にいる空飛ぶ害獣のみならず、地表に蔓延る無数の獣もまた、かの邪神の一部なのだ。それ故、己のための復讐に留めてはいけないと考え直し、タイミングを見計らい始めた。
ほんの一瞬、斬撃を集中させた部分から地表が再び見えた。計算上では惑星全体が障壁で覆われていると推測され、外部から封鎖されている。あの群体や障壁より低い高度には侵入できない。だが遂に、防備の隙を突く機会が回って来たのだ。
「〈ダーク・ペネトレイター〉!」
一迅の黒い風が異様な大気と獣の壁を通り抜け、閉鎖された惑星に侵入した。