第五話
五
月番江戸詰めを勤め上げたばかりだった。
八王子に帰ってきた忠正に、鑓奉行宅に参上するように、との沙汰があった。
忠正は馬で江戸に上った。
馬ならば一日で着く。
何があって呼び寄せられるのか、分からない。
(自分の勤めになにか瑕疵があったか)と首を傾げたが、見当がつかない。月番の志村に聞いたが、分からないと言う。馬を詰所に預けて四時半に鑓奉行の屋敷に向かった。
鑓奉行に、今日中に阿部様の御屋敷に参る、と伝えた。言われた。まだ何の用なのかわからない。
「わしも何なのか分からんのだ。ただ、中村を至急呼べとのことでな」
その日の夕方、鑓奉行と共に、阿部老中の屋敷に向かった。老中の居室に通された。
庭の楓が紅く色づいている。幾枚か庭苔の上に葉が散っていた。
秋である。
阿部老中が座敷に入ってきた。奉行と忠正は平伏して迎えた。
「阿部さま、中村忠正を連れてまいりました」
鑓奉行が声を低くして、そう言った。
「うむ、そちが、中村忠正か、頭を上げい」
忠正は坐り直した。
「中村、そちは、剣に自信があるそうだの」
「は、多少ですが」
「うむ、よい。本日より、八王子千人頭の役目を解く。それと共に公儀仕置役の役職を与える。公儀仕置役とは、この世の隠れた罪人を探し出して斬罪に処する役目だ、忍びの者を三名、手先人として付ける。その忍びの者が、罪人を探し出してくる。幕府からも名指しで、直接命が下る。皆、相手は隠れた咎人じゃ、白州にも評定所にも上げられんよう、周到に手を打ってきおる。だが、咎人であることは確かじゃ……。屋敷は、別に用意してある。月に二十両手当てがでる。家禄ははそのままじゃ。貴公一代の役目じゃ、子にそれだけの腕があれば別じゃがの、とりあえず子の代には千人頭に戻すことになっておる……どうじゃ、やってくれるか」
「それは、命令でありますか」忠正が訊いた。
「そうじゃ、命令じゃ」
「命令ということでしたら、お受けしなければなりません」
忠正は平伏した。
それから三ヶ月が経つ。何も変わらない。中村家が千人頭の役目から離れたことは、もう皆、知っていた。
だが、忠正が、公儀仕置役に任ぜられたことは、秘密である。
志野とるいには、隠しておく事は出来ないので話したが、絶対口外しないよう命じた。
なにもせぬのに、公儀は給金を送ってくる。
もう、六十両貯まっていた。
屋敷を幕府より賜ることになっているのに、その音沙汰もない。
忠正は、刀を一振り買うことにした。差し替え用である。
秋が深まって、八王子に初霜が降りた。
昼過ぎに訪問者があった。秋山左近と名乗った。
お勤めでございなすれば、と、若党に申し出た。
男は客間に通されると、背負って来た籠の底から、二通の封書を出した。それを自分の脇前においた。
忠正が客間に入ってきた。
「おぬしが、秋山左近か、名は聞いておる。顔を合わすのは、始めてだがの」
はっ、はっ、はっと笑った
「お勤めと申したそうだが、なんじゃ、どこぞに悪党がおるかの」
「は、まず、こちらの、封書をご覧下さい、下忍の重田からの連ぎでございます」
忠正の前に置いた。
忠正は、封書を開いて、じっくりと読んだ。
「失礼いたします、粗茶をお持ちいたしました」
客間に入ってきたるいが、茶托に湯呑みをのせてやってきた。
「妻のるいである、こちらはわしの手下の秋山左近である」
秋山とるいを、一言で紹介し終えた。
互いが挨拶するのを横目で見ながら書状を見た。遠州実川藩の家老海野が、藩主の座を狙っているのだという。現在の実川藩主と問題の家老海野は年令の離れた兄弟である。弟の方は海野家に養子に出された。
現藩主には男子が無かった。
もう、すでに、七名の家中の者がこの件で落命している、と書いてある。
騒ぎを収めるには、家老を除くしかない、とあった。
もう一通の方は、老中阿部綱豊からの封書であった。
委細は、忍びの者から聞いて、実川藩家老の、海野を殺れ、という内容である。海野家老を消して、後継ぎは養子を取らせるとある。 海野家老がいなくなれば、騒ぎは自然におさまるだろうと書いてあった。
封書がもう一通ある。開いてみたら、朱印状だった。
公儀仕置役の朱印状である。
老中四名と若年寄の署名があり、それぞれの花押があった。
忠正はその書状を、自分の懐に入れた。
秋山左近は用事がすむと、早々に立ち去った。外はもう薄闇に包まれていた。
晩飯の席についた。
「忠正さん、どういう話だったんですか……」
志野が聞いた。
「いや、何も申せません、ただ、明日にも出立し、遠州実川に向かいます」
志野とるいが、心細そうな顔をした。
「なにも心配はありませぬよ、安心していただいていて結構です。必ず帰ってきますから」
忠正は笑顔を見せた。
夜のうちに旅支度をして、早朝に屋敷を出た。
騎行である。
この馬は、父・正親の愛馬であった。そのまま引き継いで、忠正が養っている。
八王子から相模川沿いに相州に抜けて、大磯で一泊した。
馬は問屋場に預けてある。
翌日は箱根に泊まった。
「中村さま、金本仙吉と申します」ひとりの男が部屋を訪ねてきた。
「金本か……うむ、分かっておる。随行かの」
「はい、その通りです」
「うむ、よし。明日は明け六つ(朝六時)に出る。六つ前に迎えにきてくれ」
「は、分かりました」
「なにか特別に変わったことはあるまいの?」
「はい、今のところ何の報せもございません」
「うむ、よろしい」
次の宿泊地は沼津であった。
五日目で実川に入った。実川に入って直ぐに宿をとった。宿の女中が、夕食の膳を下げに来た時、
「お女中、髪床に行きたいが、あるかの?」と訊いた。
「はい、もちろんございます、宿を出て右に行きますとございます。旅人さんが多いので夜遅くまでやっていますから、十分間に合いますよ。行ってらっしゃいませ」
浴衣姿に大刀一本を持って髪床に向かった。
月代と髭も剃って貰った。
翌日、問屋場に馬を預けて、実川城下に向かいながら「実川藩は緊張しておるかの」と、
金本に訊いた。
「は、緊張しております、いつ暴発してもおかしくありません」
「仕方がないのう、馬鹿めら。家老も家老じゃ、一昔前なら改易じゃぞ。今は公儀も浪人者を出して、世相が悪くなるのを懸念して、温情で対応しておるがな、それを良い事としての大胆なる振るまい、許されんことじゃ」
金本が馬のくつわを取って歩いている。かなりの速足である。これが忍びの者の技かと、忠正は密かに笑った。
八王子を出てから七日目で実川に着いた。
「これより山道を抜けます。この先に人別改めがございましてな、うるそうございますので、それを回避するためでございます」
金本が脇道に入った。脇道というより獣道である。
二里ほども山中を歩いて、元の道に出た。
「これからはまずまず安心です。百姓、商家等の営みがありますからな、そううるさいこともいえません」
「そうであろうの、それだけはどうにもできまい」
歩きながら手甲、脚半を外して旅支度を解いた。
金本の案内で旅籠に入った。
もう夕暮れである。
一時間ほどで真っ暗になった。
金本は、この旅籠を忍び宿である、と言った。
急拵えの隠れ家であるという。
普通の旅人は泊めない、と言った。
夕食後、秋山左近が挨拶にきたので情勢を聞いたが、海野家老方は、毎夜、十人ほどの者が寝ずの番をしていて、守備は堅固だという。しばらく様子を見ているしか手立てがない、と言った。城主側の方から、家老宅に攻め込むこともあるので、それを待って、どさくさまぎれに忍び込むしかない、という。
とにかく待つしかありません、と秋山が応えた。
忠正はそれを聞いて「よし、こうなったら腰を据えよう」と脇腹を叩いた。
次の日、古着屋に行って、商家の手代風の着物を買ってきて、それに着替えた。
城下を歩くには、その方が良い。目立たないのが良かった。
「小端どの、私が婿をとります、なんとか、そうしてください」
次席家老の小端に、城主の姫、康子が頼んだ。康子二十一才である。
「はいはい、わかっております、そうなりますよう、御老中の阿部様にもお願いしてあります、何の心配もありません、お任せあれ」
小端も海野側から命を狙われている。幾度も急場をしのいできていた。
十人以上の手勢がないと、外には出ない。外に出るのは、登城下城のときだけだったが、海野側の攻撃が怖かった。
「一度は家来の分際に落ちた者が、今更、城主になろうとは、身分をわきまえぬ所業である」
これは現藩主、松平頼母の言葉である。
年令をとって身体は弱ったが、頭まで呆けてはいない。自分の領地内のことは、きちんとわきまえている。
海野は弟だが「愚か者め」であった。
元はどうでも、いまは家来である。家来が、主家の後を継ぐなど、とんでもない話であった。
小端側からいわせれば、これは謀反だった。
海野は謀反者である、ということになる。
「大義名分は小端側にあります」
秋山が、そう忠正に言った。
「ただ下級の家来たちの支持が、海野のほうに傾いているのです。なにか、海野が、わしが城主になれば禄高を倍に上げてやるとか言っているそうです……次席家老の小端は、守旧派で人気がありません」
「うむ、おおむね分かった。いずれにしても、わし等は、海野家老を消すことを、命じられておるからな……後取りの筋目の話もあることだしの」
「その通りです。御老中の仰せの通りにやります」
秋山が笑った。
「しかし、わしは、こういう話は好まぬのう。お役目だからやるがのう、本音は勝手にしやがれ、という気分じゃ」
海野家老と小端家老の一派は、なかなか動かなかった。
あと一月半で、七月になる。
実川は温暖な地であった。
冬でも合羽はいらないと、風呂屋で小耳に挟んだ。
風呂屋には毎日通っている。もう馴染みになりつつあった。
海野家老宅の見取り図が上ってきた。
海野家老の居室と寝間に×点が打ってある。
敷地は三千坪ほどあるとのことだ。我が家よりも狭いのか……と、忠正は嘆息した。八王子の中村家は三千七百坪ある。千人頭としては、特別に大きいという訳ではない。普通である。荻原という千人頭の家は七千坪もあった。それでも千人頭の間に上下間系はなかった。同格である。
「私らが決行するときは、小端側と一緒ということになっていますから、真っ直ぐに、海野家老の寝間に向かいます。海野側と小端側の喧嘩には、一切、手を出しません」
秋山がそう言った。
「もちろん、手向かってくれば話は別ですがな、私等は中村様を入れて四人です、人数は少ないようですが、小回りが利いて結構だと思います、相手はひとりですからな」
秋山が煙管を取って、煙草に火をつけた。
煙草の煙が鼻をくすぐった。煙が目に沁みる。忠正がくしゃみをした。
「分かった。後はとにかく、小端がいつ仕掛けるかだの、そこで手抜かりがあってはならない」
忠正が、微笑んで手を頬に当てた。
「もちろん逃がさぬよう、手は打ってあります。おまかせあれ」
秋山が胸をとんとんと叩いた。
「くノ一を一名、海野の屋敷に入れてあります。それを手助けする者が外で見張っています。小端側が、動くときには、すぐに繋ぎが入る手筈になっています」
忠正は、毎日、午前中に二百回、午後に二百回ずつ、刀の素振りをしていた。
ひょう、ひょう、ひょうと空気を切る音が聞こえる。この刀は先だって買い入れた物である。同田貫であった。武骨で刃が厚い。
忠正はこの刀を一生使い続けるつもりで買った。
「中村様、御老中からの書状でござります」重田が封書を持ってきた。
次の予定があるので、早々にかたずけて、帰って来い、というものだった。
そんなことをいわれても、こちらにはそれなりの事情がある。
書状をへっついの焚き口に入れて焼いてしまった。
忠正は近所の裏千家の茶道の宗匠について、茶を習い始めた。毎日昼前に行く。
自分が亭主や半東をやることはないので、正客、次客、末客の役割を中心に教えて貰った。
志野もるいも茶をやる。
八王子に戻ったら、自分も母と妻の客になってやろう、と考えた。 お薄を中心に教えてもらった。
正月が過ぎた。何も起きない、と思っていたら、突然、今夜、小端側が海野の屋敷を攻める、という連絡が入った。
すわ!と、皆が色めきたった。
忠正は、いつものように、風呂屋に行って、その後、刀の素振りをした。
茶も習いに行った。
夜食を食べてから衣類を改めた。
事が終わったら、夜のうちに、出立するつもりである。
二ヶ月いて、実川藩から江戸への道は確りと頭へ入れてある。不安はない。
夜十時に宿を出た。
横道を通って、海野邸に向かった。小端の配下の連中は、西側の木戸口に集まっていた。十五人もいようか。
忠正たちは東側の塀を乗り越えるつもりである。
十二時過ぎに、木戸を木槌で叩き壊す音が聞こえた。
それを合図に、忠正たちが縄梯子で塀を乗り越えた。
小端側が優勢だった。
海野側は、寝入りばなを襲われて、どたばたしている。
忠正は秋山たちと一緒に海野の寝間に走った。海野の寝間に入ると、本人が布団の上で坐っていた。
秋山たちが海野勢と戦っている。忠正が刀を抜くと、海野も刀を抜いた。
忠正は下段から跳ね上げて、海野の脇腹をえぐった。返す刀で首の根を撥ねた。秋山と重田が寝間に入ってきた。
「おう、もう殺したわ。この男に間違いなかろうな」
「はい、間違いありません」
秋山が頷いた。
「よし、それでは、すぐに逃げ出そう」
正門の通用口を開けて外に出た。
「わしはこれから江戸に戻る。お互い生きていればまた逢おう」
そういって、忠正は東海道に向かった。
沼津の問屋場で馬を引き取った。
「旦那、いっこうに馬を引き取りに来なさらんので、処分しようかと、悩んでおりましたのですよ」
「おいおい、冗談ではない。大事な馬だ。預けるときに一両置いていったが、一両では足りなかろう、もう一両出そう、どうじゃ」
「へえ、それでよろしゅうございます」
「うむ、それでは一両じゃ、これでわしは行くぞ、よいな」
忠正はそう言って、馬にまたがった。
この間の、阿部老中の書状には、四谷に屋敷を下賜した、と書かれていた。八王子の家は平地にしてしまったと書かれてある。
四谷の屋敷とはどのような物か、楽しみであった。
住み慣れた八王子を離れて志野がどうしているか、気になった。るいは江戸に戻ってきて喜んでいるだろう。
四谷をぐるっと廻って、半刻もかかって、自分の家を探しあてた。江戸時代は、家に表札を出す習慣がないので、一軒の家を探しだすのに、大変な思いをした。
「おい、わしだ、帰ったぞ」
大声で呼ばわった。
るいが出てきた。志野も後に続いてくる。
「まあ、殿様、お帰りなさいませ、お変わりもなく、無事にお帰りですか」
「うむ、無事じゃ、何ともない。しかし、この家は大層立派な家じゃの」
下女に脚を洗って貰いながら、忠正が訊いた。
「ええ、元は八百石取りの石坂というお方のものだったそうです、そちらが改易になって空き家になっていたのを、私どもの方に下されたのです。御老中の阿部様の格別なご処置だそうですよ」と、志野がたわいもなく笑った。
「そうですか、温情ですな」
忠正が座敷に上って、すぐに膳が出てきた。
「家で飯を喰うのも久しぶりじゃ、やはり一番じゃのう」
飯をかき込みながら、忠正が笑った。
懐から朱印状を出して、るいに手渡した。
「読んでみよ、現在のわしの役目が分かる」
るいの目がくりくり動いて朱印状を見て、
「公儀仕置役と言うのは、罪人を懲らしめるのでございますか?」
るいが朱印状を志野の手に渡した。
「そうじゃ、法の陰で悪さをしているものは大勢いるからのう、そういう者めらを、懲らしめる、そういうことじゃ」
「これは、表面に、三葉葵の紋章がありますね」
「そうです、母上、そういう代物ですよ、これは」
今度は志野の方を向いて応えた。
「まあ、急にお偉くなってしまいましたねえ」
「母上と正木先生のお陰です」
「まあ、わたしなんか、何もしていませんよ、皆、ご先祖さまのお陰です」
るいに、この朱印状をしまう布袋をつくるよう命じた。
「薄板を布と布との間にいれてのう。頼むぞ、大事な朱印状だからの」
翌日、一月二十一日に、阿部老中邸に、挨拶に出向いた。
「阿部様、戻って参りました。様々なるお心遣い、ありがとうございました」
「うむ、御苦労だったの。次に向かって貰うところがある。しかし慌てんで良い。一月ほどもゆっくりしろ。今度は上総海津じゃぞ、近いからの、長くても五日ほどで行って帰れよう。それと、もうひとつ中村家を二百石加増して、五百八十石とすることになった。ありがたく思えよ、その代わり月に二十両の手当ては、十両に減らされるがな、これは、まあ、辛抱せい」
家に帰ると、昼食中だった。
ひもかわうどんである。
「わしも所望する」
忠正が厨の板敷きの円座の上に坐った。
「阿部様は、何といってらしゃいましたか」志野が訊いた。
今日からは、家禄が五百七十石となりました、あと、十日ほどで、次なるお勤めで上総に参ります。それだけでござる」
「まあ、二百石の加増ですか」
「その代わり、月々の二十両の手当て金は、十両に減らされてしまいました」
忠正が、あはは、と笑った。
阿部老中の話では、上総の海津の代官が悪さをしているので、斬って来いという。並みの剣客でも敵わない位、腕は立つらしい。
とにかく、十日後だと、忠正が笑った。一ヶ月後では遅い。困っている人もいるだろう。早いうちにやっつけてあげた方が好い。
代官は幕府の解任の命をも、無視しているという。
刀を研ぎに出した。
十日の間、るいを、毎夜抱いた。
一夜のうちに、二度抱いたこともある。
今回は、行ったらすぐにけりをつけてしまうつもりだった。
そして、すぐに帰ってくる。
実川にいたときに無聊を囲って、茶を習いに行っていたと言ったら、
「あらまあ、それなら、近いうちに、お茶会をしましょう」と志野が応えた。
「まだ客の役しかできませんぞ、母上」
「ええ、よろしいんですよ」
この家には離れに茶室がある。
志野は、その内に近辺の奥さま方を呼んで、茶会を催そうと考えていた。武家の奥方もいるし、商家の内儀もいる。
月に四回くらい、お茶会を催したい、と考えていた。
志野もいよいよ楽隠居である。
るいのやることに一切口を出さなくなった。
いつもにこにこしながら、黙ってるいを見ている。
忠正は志野とるいを連れて、青山の料亭に出かけた。
当店の、おすすめ御膳というのがあったので、三人とも、それを頼んだ。
忠正は酒を呑んだ。一合、二合、三合。
酒を呑みながら、料理を食べた。
「忠正さん、私の前でそんなにお酒を呑むなんて、始めてですね」
志野が言った。
「そうですかね、酒は幾度も呑みましたでしょう。婚礼の宴の席でも随分呑みましたよ」
「あら、そうでしたかねえ」
「とにかく、返杯、返杯の連続でしたからな、どの程度呑んだのかも知りません」
忠正が頭を振って、含み笑いをした。
酒は三合で止めた。
鯛の刺身を食べた。
るいの義父母がやってきた。。忠正が誘ったのである。るいが驚く顔を見たいと、忠正が内緒に呼んだのだ。
「あら、まあ、父上、母上しばらくでした、とるいが頭をさげた。
「うむ、忠正殿にお招きいただいての、やってきたというわけだ」
「あら、まあ、そうでしたか。私、何も知りませんでした」
忠正と志野が、小川春意とその妻に挨拶をした。
「この度、加増となりまして、五百八十石とあいなりました。屋敷も下賜されまして四谷におります、今後とも宜しくお願い申しあげます」
「るいから聞いたが、老中の阿部様が肩入れをして下さっているそうだの。ありがたきことじゃのう」
「はい、おっしゃるとおりです、ありがたいことです」
なんとか、わしの息子にも良いことがないかのう、と春意が笑った。
「はあ…、阿部様は能力があれば誰でも引き上げると言っておられましたが」
「能力か、何もないわ、全くの凡人じゃ」
春意が、ははは、と笑った。
「まあ、本音は、今のまま、二百石の家禄を守ってくれればよい、と考えているがの、それで上々だと思っておる」