第四話
四
八王子千人頭の家柄は、世襲制であった。
千人頭の家は十家ある。
ひとりの千人頭の下に、百人の同心がいる。
組頭と世話役が一人ずつおり、後は平同心であった。
十家合わせて千人になる。
同心たちの生活は半士半農であった。
ほとんどの同心の禄米が三十俵二人扶持で、それだけでは喰えなかったからである。
千人頭の家だけは別格だった。
神君、徳川家康の代からの幕臣である。
その千人頭を斬ってしまった。
これは許されるものではない。
鈴木作久は慌てて逃げ出した。
もともと斬ろうなどとは思っていなかった。
鈴木は酒呑みであった。昼間でも酒を呑みながら、勤めをする。酒を呑んだときは気分が良い。酒を呑んでいないときは、いらいらして気が落ち着かなかった。幻覚を見たり、幻聴を聞いたりする。
その日は酒を呑んでいなかった。昼番の勤めが長めいて、酒を買いにいく暇がなかったのである。
その酒のせいで、頭から説諭されていた。
「お前の勤めはなってない」「昼間から酒を呑んで勤めに出るとは何事じゃ」「お前は酒毒に犯されておる、酒を止めよ」とか。
本当に、斬ろうとなど、考えてもいなかった。それが「酒を止めよ」と言われて、ぷっつんと切れたのである。思わず刀を抜いて、お頭の首の根を刈っていた。
その場から逃げることしか頭になかった。
巾着だけを持って逃げた。江戸に向かった。
途中、茶屋に寄って、酒を分けてもらった。
酒を呑んでも、落ち着かなかった。
中村源一郎の姿が目に浮かんだ。中村源一郎は鬼神であった。
これまで、百回以上、正木道場で手合わせをしたが、一度も勝ったことがない。勝ったことが無いだけではない。竹刀を一打ちもせぬうちに、面、胴と打たれてしまう。
中村源一郎が、仇討ちにやってくると思うと、背筋が震えた。
江戸に入った。
すぐに口入屋に向かった。なにか職につかなければ、食い詰めてしまう。
鈴木は、湯屋の釜焚きの仕事を得た。
湯屋の釜焚きならば表に出なくてもすむ。
名は作次郎と名乗った。
湯屋の屋号は、富士乃湯という。両国の回向院裏にあった。
本所と両国は、すぐそこ、の距離である。源一郎も、鈴木も、互いに、何も知らずにいた。
鈴木は一日に一度だけ、富士乃湯の外に出る時があった。酒を買いに出る時である。
それ以外、一切、外に出ない。
「うーむ、いったいどこに隠れたものやら」
これは源一郎のひとりごとである。
だいたい、なぜ斬られたのか、何が原因なのか、それすらも分からぬ。
まったく格好が悪い。鈴木のようなものに、一刀で斬り捨てられるとは何だ。いくら剣術が嫌いでも、自分の身を守るすべ位は習って置くべきではないか、と源一郎は思った。
愚痴である。言っても、しょうがない、と思っても、勝手に愚痴は出てくる。
怒りの矛先は、鈴木作久よりも、父親の正親に向かっていた。
「まったくだらしがない」の、一言である。
気晴らしに下谷の直心影流の道場に行ってみた。
直心影流、戸田道場とある。
「同じ直心影流で、八王子の加山道場の者でござる」
「お名前は、何と申されるの」
「中村源一郎と申します、三百八十石取りの幕臣でござる」
そう述べて、手をついて頭を下げた。
「八王子の当流派というと、正木先生ではありませんかな」
相手がそう訊いた。
「はい、先月までは。正木先生は、三月いっぱいで引退されまして、後を加山大助先生が継いでおり申します」
「左様か、私は当道場の主、戸田左馬ノ介と申す」
ゆっくり遊んでいかれよ。そう言って上座に坐った。
稽古着がないので防具だけを着けて、道場に進み出た。百回ほど素振りをした。
その素振りを見て、戸田は、これは、と思った。
上座から降りた。
「皆の者、止めよ」
門弟たちに、そう声を掛けた。
源一郎の傍に、立って、
「八王子の直心影流加山道場の方である、一手ずつ稽古をつけて貰うが好い」
門弟たちが、道場の隅に坐った。
「お主、師範代かなんかでござろう」
戸田が源一郎に訊いた。
「正木先生の代には師範代ををしておりました」
「うむ、やはりのう」
戸田が、ふむふむ、と納得したように頷いた。ひとりが立ち上がってきて、源一郎の前に来た。
一礼して、竹刀を正眼につけた。
源一郎も正眼に構えた。
そのまま、すすす、と間合いを詰めた。
相手が慌てて、面を打ちに来た。
源一郎は、完全に、相手の内懐に入っていた。竹刀で軽く、相手の首を叩いた。
二番目の男は、源一郎が間を詰めてきたら、すぐに叩き落そうと、上段に構えてきた。
源一郎は構わず踏み込んだ。
「きええい」
相手が,打ち込んで来た。
源一郎は相手の右手首を叩いた。竹刀が飛んだ。
三人目の男は、正眼から、胴を突いて来た。
源一郎は身体を開いて、それをかわすと、首を打ち払った。
そうして、道場にいた者全員と稽古をして、防具をはずした。
「お見事でござる、免許皆伝でござるか」
「はい、その通りでございまする」
「どうでござるかのう、できれば毎日当道場にきて、門弟どもに稽古をつけてやってほしいと思いおるが……」
「先生、私は敵を持つ身でござります、そうはいたしかねます」
源一郎は首を振った。
「なに、敵を持つ身とな……左様か、それでは致し方ないのう」
「申し訳ありません、ただ敵探しに疲れたときは、また寄せていただきます」
申し訳ありませんと、また頭を下げた。
それから何日かして、
「おつぎの婚礼がありましての、出て参りました」
加山がまた江戸に出てきた。
「そうですか、それでは私も同席しましょうか」
源一郎そういうと、
「そうですか、出てくれますか、おつぎも喜びましょう」
「問題は衣装ですな、古着屋にでも行って来ましょうか」と源一郎が言うと、「いやいや、買う必要はありませんぞ、質屋にいって借りてくれば十分でござる」加山が手を振って笑った。
「実は私の衣装も質屋からの借り物でござっての、源一郎殿も、そうされい、私が明日、質屋に行って来申す」
加山がそう言っておつぎの長屋に帰っていった。
翌日、加山が、紋付羽織袴を持ってやってきた。
加山と源一郎、ふたりで髪床にいった。
婚礼は明日である。内輪だけでひっそりとやろうと、決まっていた。何せ、ふたりの子持ちと三十女の婚礼である。いたしかたなかった。
その日は、源一郎もおつぎの長屋に行って、三人並んで寝た。
おつぎが「若様が婚礼に出て下さるとは思ってもいませんでした。ありがとうございます」と頭を下げた。
「なに、私らは姉弟みたいなものですからな、当然でござるよ」
正に、姉弟のようなものだった。おつぎは、中村家に下女として、奉公していたことがある。源一郎六才のときだった。
そうだ、おつぎは中村家の奉公人だったのだ。源一郎は、改めてそう思い起こした。
主が奉公人の婚礼に出るのは当たり前のことだった。
源一郎の幼いときから、なにくれとなく面倒をみてくれた存在である。
泣いた時にはあやしてくれたし、悪戯をしたときには叱ってくれた。
源一郎は婚礼のお祝いに、三両包んだ。
三両という金は、婚礼への祝い金としては、破格である。
普通ならば、一分か二分程度が相場であった。庶民はもっと少ない。
その話が舞い込んできたのは、四月の半ば、桜が全て散って、あやめの咲く頃であった。
(桜が咲くのも散るのも、一向に気が向かわなかったな)源一郎は、そう呟いた。
そこに、本所の岡引きの親分が顔を出したのである。
「親分、敵がみつかりましたか」
源一郎が、親分が、坐るか否かというところに、慌てたように訊いた。
「ひょっとして、この男ではないか、というのがみつかりやした」
「それで、その男は何処におりますか」
「まあ、中村様、落ち着きなせえ」
親分がそう言って、逸る源一郎を止めた。
「そいつは、湯屋の下男をしておりましての、一向に外に出てきません。一日に一度だけ、酒を買いに出てきますんで、当人だろうか、どうか、窺うにしても、殺るにしても、この時にしか手立てがありませんな」
親分が、ただ何刻、酒を買いに出るのか、ちょっと分かりません、と語った。
「全くわかりませんのか」
源一郎が訊いた。
「昼間とか夜とか、まちまちだそうです。ただ午前中に、出ることはないそうですぞ」
「かたじけない。して、その湯屋というのは、何処にありますのかな」
親分が、自分の掌で、自分の頬を叩いて、
「いけねえ、肝心のことを言い忘れていくところでやした」
と、照れ笑いした。
「湯屋の場所は、回向院裏でございます」
「回向院裏……。それでは、すぐそこではござらんか」
ふうう、と、大きな溜息をついた。
酒好きということからも、鈴木作久に違いない、と思われた。
これからどうするか、まずその男が鈴木なのかどうか、確かめねばならない。
翌日、まず、古着屋に行って、雲水の装束を買ってきた。その後、髪床に行って、頭を丸坊主にして貰った。
雲水の格好をして、笠を被って、回向院に向かった。
回向院裏の富士乃湯というのは、すぐに見つかった。
裏口の場所も確認した。
源一郎は、裏口の路地の入り口に立って、読経し始めた。
読経と言っても般若心経だけである。
他のお経は知らない。
般若心経だけを、何度も繰り返し唱えた。目は裏木戸の方に向いている。
二時間ほどして、裏木戸が開いた。一升どっくりを持って男が出てきた。
顔をじっくりとみた。
鈴木作久に違いなかった。
源一郎は鈴木の後を追った。
早足で歩いて、鈴木を追い、追いつきざまに、背中に小刀を刺した。
鈴木が倒れた。
とどめに首を切った。
廻りに野次馬が集まってきた。
「仇討ちでござる、どなたか、自身番に報せてくださらんか」
一人の男が駆け出して行った。
源一郎は鈴木の首を切り落とした。
自身番から、大八車を引いて、番人がやってきた。
「仇討ちだそうですな」
そう源一郎に訊いた。
「左様でござる、お鑓奉行さまの許可も受けており申します」
そう言って、源一郎は風呂敷を広げて、首を包んだ。
「それがしは、これから、八王子千人頭の詰所に参ります。何か問題があれば、そちらのほうへ、どうぞお越し下さい」
源一郎は、頭の入った風呂敷をぶら下げて、麹町に向かった。
麹町そばの伊賀町に千人頭の詰所があったのである。
今月の月番頭は、原文衛であった。源一郎は「父の仇を討ちました、明日、お鑓奉行の屋敷に参りまして、そのむね、申し上げてきます、それでよろしいでしょうか」と訊いた。
「うむ、そうか、やったか、よろしい。それでは明日、身共も同道しよう。鈴木の首は、明日、鑓奉行に見せた後、詰所内のどこぞに埋めてしまおうではないか」
原文衛がそう言った。
「八王子まで、持って帰ることはなりませぬか、母に見せとうござる」
「ああ、それはなりませぬよ、女子に見せるものではござらん、髪の毛でも持って帰られてはいかがかな」
「そうですか……」
たしかに、女子に見せるものではあるまい。
見たいと言うのは、悪趣味である。
そう思った。
翌日、原文衛と源一郎は、鑓奉行のもとへ向かった。
源一郎は汚れた風呂敷を捨てて、新しいもので包みなおしている。
風呂敷包みをぶら下げながら歩いてきた。
鑓奉行の屋敷につくと、
「八王子千人頭、原文衛でござる、本日は、中村家仇討ち完了のむね、お届けに参った」
そう言って表座敷に上った。座敷では、懐紙に首をのせて、手元に置いた。
鑓奉行が出てきた。
「本日はなにか、仇討ちが完了したとか聞こえたが」
「は、左様にてございます」
文衛と源一郎が、平伏した。
「たしか、中村源一郎とか申したの、そちが跡取りじゃの」
「はい、おっしゃる通りでございます」
源一郎が、頭を上げて、そう応えた。
「それは重畳、よくしてやられた」
「首はご覧になりますか」
源一郎が訊いた。「いやいや、結構でござる」と言って、鑓奉行が掌を前に突き出した。
源一郎は熨斗袋を、懐から出して鑓奉行の前に置いた。
「些少でございますが、お礼のしるしでございます」
そうして深々と頭を下げた。
後始末は鑓奉行に託された。
へたをすると家禄を減らされるかもしれない。改易になることだって有りうる。一度改易になって再びお召し抱えになるということもあるが、その場合は禄高二百俵と決まっていた。
鑓奉行が訊いた。
「中村、そちの剣術の腕前は、いかほどかの?」
「はい、町の剣道場の師範が務まる程度でござります、直心影流の免許皆伝でございますれば、誰にも負けないと自負しております」
「そうか、自信があるのだの」
鑓奉行がにこにこ笑った。
二、三日経ったころ、鑓奉行から屋敷に参るようにと、連絡があった。
原文衛が同道した。
「原殿、いつもお手を煩わして、すみません」
「いや、いいのですよ。なにしろ月番ですからな」
原がそう応えた。
鑓奉行の屋敷に着いた。書院に通された。
奉行が待っていた。
「おう、待っていたぞ」
挨拶もそこそこに、奉行が、源一郎に、一通の書状を手渡した。
「禄高は元と同じで、千人頭としての勤めも同じゅうすると、している。良かったのう」
そう言って、は、は、は、と笑った。
長屋の皆と大家には、もう挨拶をしてあった。
明日は、青山の小川家に挨拶に出向かわなければならない。
それが終わったら、その足で八王子に帰ろう、と思っていた。
仇討ちが終わったことは、原文衛から知らされてある。
翌朝に、早飯を喰ってから、小川家に向かった。
小川春意は在宅であった。
「朝早くから、どうしましたかのう」
るいが座敷に入って来、茶を源一郎と春意の前に置いた。
そうして、部屋の隅に坐った。
「仇討ちが終わりましたので、八王子に戻ります。それでご挨拶に参りました」
「なに、仇討ちが終わったとな」
「はい、三日前、敵の居場所が判明いたしまして、その日の翌日に斬ってしまいました」
源一郎は、こちらへご報告に参るのが遅れましたのは、幕府からのご沙汰をお待ちしたためでござる、と頭を下げた。
「そうですか、旧禄安堵ですな」
「はい、その通りです」
源一郎がそう言って笑った。
「そうすると、五月十日が祝言ということで、よろしいかのう」と春意が訊いた。
「は、よろしゅうございます」
源一郎が笑って応えた。
「それでは、これで、急いで八王子に戻りますので、よろしゅう、お願い申し上げます」
新宿の問屋場で馬を借りて、甲州道を下った。
その日の夜遅くに、八王子に入った。
夜四つ(十時)の鐘が鳴ったばかりだ。
八木宿で馬を下りて、真っ暗な道を辿って、自らの屋敷についた。門の通用口を叩くと、
「どちらでござるかな」とすぐに返事がきた。
「わしだ、源一郎だ」
下男の仙吉が、「わっ、若さまですか」と言って通用口をあけた。
源一郎が入って、どんどん、板敷きを踏み鳴らして、志野の居室に向かった。
志野は起きていた。
「ただいま戻りました」と頭を下げると、
「ご苦労様でした」
と、源一郎を見る目が潤んでいた。
「どこぞに怪我でもしていませんか」
「怪我など、いたしませぬ、無傷でござるよ。強いて言えば、江戸から馬で来ましたので、股ずれが出来て、痛いのです」
ははは、と源一郎が笑った。荷物を開けて封書を差し出した。
志野がそれを見て「まあ、まったく、禄高まで安堵とは、信じられないような話ですね」と笑った。
千人頭はたまに改易されることがあった。
改易後、再お召抱えになった場合は、二百俵と決まっている。
翌日は、近所の千人頭の家を廻り、挨拶をしてきた。
源一郎という名を、忠正に改めた。中村忠正である。悪い名前ではない。志野とふたりで決めた名であった。
忠正は屋敷中の畳の表替えを、畳屋に頼んだ。るいを向かえ入れる準備である。襖と障子の張り替えも頼んだ。正親が死んで間もないので、万事、ひそやかに、行おうと、示し合わせていた。
中村組の組頭と世話役には、出席するよう伝えてある。千人頭九人には当然、伝えてあった。座敷と料理は、八王子の料亭に頼んだ。
五月五日、端午の節句に、江戸から箪笥二棹が届いた。箪笥の他に着物が届いている。数えてみると、十二枚もあった。
五月九日、小川家の人々が八王子に着いた。
春意は、「今晩は、脇本陣に泊まり申す」と言って、八木宿の旅籠に向かった。
「明日は、家の若党を、お迎えに寄越します。それまでごゆっくり、どうぞ」そう言って忠正は屋敷に戻った。
翌日、祝言が行われた。
万事ひそやかに、ということで、酒に酔って歌い出すという者もない。しかし、笑いながら、話をしている人も多く、寂しい披露宴でもなかった。
「奥方様、中村組組頭の吉川正吾でござります、今後ともよろしゅう願い上げます」
「同じく世話役の大高竜介でございます、よろしゅう願います」
千人頭の連中も、次々に、るいに挨拶に来た。
(頭を下げたり上げたり、るいも大変じゃのう)忠正は腹の中で笑った。
忠正には、小川春意と小川家の親類二名が挨拶にきただけだった。
それは仕方なかろう、これが江戸で挙式していたならば、逆になっているに違いない。忠正はそう思った。
翌朝、春意たちは、江戸に向かって帰っていった。
忠正とるいは、大和田村まで見送った。
その日の夜、
「るいさん、朝は六時に起きて、夜は十時に寝てください。中村家の決まりごとです、ただし、忠正が外出中のときは別です。帰るまで待ってください。家には、若党が二名、下男が二名います。女は、女中が一名と下女が三名です。どうぞ、うまく使ってやってください」
志野がそう言って、お願いしますと、頭を下げた。
「まあ、お母さま、そのようなことで、頭をお下げにならないでくださいませ、私もまだ分からないことだらけで、お母さまが頼りです、これから教えていただきたいことが沢山あります。どうか、よろしく、お願い申し上げます」と、るいが頭を下げた。
嫁に向かって頭を下げる姑など、聞いたことがない。るいは感動した。
そうして、ふたりで、にこにこ、笑った。
「まあ、あなた。可愛らしい、お嫁さんですこと。あなたがお嫁に来てくれて、嬉しいです」
志野はるいの手を握った。
「忠正をよろしくお願いしますね」と、笑った。
庭の隅にある正親の墓に詣でた。
志野は毎日、墓参りしている。
墓の周りは、雑草もはえておらず、きれいになっていた。
「それでは、多少歩くが、八王子の町を案内しておこう」
忠正に誘われて家を出た。
「と言っても、田舎だからの、何も見るところはない」
るいも、その後を付いて出た。
甲州道中を江戸に向かって歩いた。
追分を抜けると、八木宿に入る。
「るい、そんなに後に下がることはないぞ、もそっと、わしの傍に来い。それでは話も出来んわ」
忠正が後ろを振り返って言った。
「はい、それでは」と、るいは傍に近づいた。
「うむ、それでよかろ、いつもそのようにしろよ」
「でも、よろしいのですか、こんなに近ずいて」
「うむ、かまわん、女が男の後を三歩開けて歩く、なぞと言うのは、馬鹿馬鹿しい話じゃ、そんなものは無視して良い、そんなことで、咎めを受けることもあるまいしの」
北から風が吹いている。
冬に吹く北風とは違う。爽やかだった。
「そこが呉服屋の市井だ、家に出入りの呉服屋だからの。その隣は紙屋でな、襖紙から落とし紙まで、紙なら何でも売っている、皆、注文すれば届けてくれるからの、必要があれば用人に言え。用人が好いようにしてくれる、任せて置けば良い。米と青物は、組下の同心たちから買うのでな、任せて置けば、勝手に、厨の外に置いていく、これも下女たちに任せて置けば良い。金は後で支払うことになっておるからな。まあ、後で、母上から、同じことを聞かされよう」
忠正が、そう言って笑った。
黙って聞いてやってくれ、と頭を下げた。
自分の妻に、頭を下げるなど、あってはならないことである。
るいが「まあ、旦那さま、頭など下げないでくださいませ、お願いです」と、るいは地面に手をついた。
「よし、分かった。手を上げてくれ、人目がある、もう止めよう」
きっと優しい人なのだ、誰彼構わず頭を下げてしまうのは、その証である。るいはそう思った。
それなのに、一度剣を持つと鬼神になるという。
先日の婚礼の宴で、組頭の吉川という男が、そう教えてくれた。
今は道場の筆頭の弟子となっているが、実際は、道場主より忠正のほうが強いのだという。千人頭という家柄があるせいで、道場主になれなかったのだというのだ。
るいには、それが、自分にとって、悲しむべきことなのか、喜ぶべきことなのか、よく分からない。
ただ、忠正はひとり息子である。始めから、剣術道場の後継ぎとしての道は閉ざされている。そう思った。
これは仕方のないことだと、るいは首を振った。
なによりも、まず、家に付与された役目の方が大事である。忠正は正しい決断を下したのだ。
るいはひそかに微笑んだ。良い人と結婚したと、思った。
まず心の低いのが良い。
そのうえ、正直である。
まあまあの顔立ちだった。
夜のことも優しくしてくれる。
文句を付けるところがない。嬉しかった。