表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第四話

       四


 八王子千人頭の家柄は、世襲制であった。

 千人頭の家は十家ある。

 ひとりの千人頭の下に、百人の同心がいる。

 組頭と世話役が一人ずつおり、後は平同心であった。

 十家合わせて千人になる。


 同心たちの生活は半士半農であった。

 ほとんどの同心の禄米が三十俵二人扶持で、それだけでは喰えなかったからである。

 千人頭の家だけは別格だった。

 神君、徳川家康の代からの幕臣である。

 その千人頭を斬ってしまった。

 これは許されるものではない。

 鈴木作久は慌てて逃げ出した。

 もともと斬ろうなどとは思っていなかった。

 鈴木は酒呑みであった。昼間でも酒を呑みながら、勤めをする。酒を呑んだときは気分が良い。酒を呑んでいないときは、いらいらして気が落ち着かなかった。幻覚を見たり、幻聴を聞いたりする。

 その日は酒を呑んでいなかった。昼番の勤めが長めいて、酒を買いにいく暇がなかったのである。

 その酒のせいで、頭から説諭されていた。

「お前の勤めはなってない」「昼間から酒を呑んで勤めに出るとは何事じゃ」「お前は酒毒に犯されておる、酒を止めよ」とか。

 本当に、斬ろうとなど、考えてもいなかった。それが「酒を止めよ」と言われて、ぷっつんと切れたのである。思わず刀を抜いて、お頭の首の根を刈っていた。

 その場から逃げることしか頭になかった。

 巾着だけを持って逃げた。江戸に向かった。

 途中、茶屋に寄って、酒を分けてもらった。

 酒を呑んでも、落ち着かなかった。

 中村源一郎の姿が目に浮かんだ。中村源一郎は鬼神であった。

 これまで、百回以上、正木道場で手合わせをしたが、一度も勝ったことがない。勝ったことが無いだけではない。竹刀を一打ちもせぬうちに、面、胴と打たれてしまう。

 中村源一郎が、仇討ちにやってくると思うと、背筋が震えた。

 江戸に入った。

 すぐに口入屋に向かった。なにか職につかなければ、食い詰めてしまう。

 鈴木は、湯屋の釜焚きの仕事を得た。

 湯屋の釜焚きならば表に出なくてもすむ。

 名は作次郎と名乗った。

湯屋の屋号は、富士乃湯という。両国の回向院裏にあった。

 本所と両国は、すぐそこ、の距離である。源一郎も、鈴木も、互いに、何も知らずにいた。

 鈴木は一日に一度だけ、富士乃湯の外に出る時があった。酒を買いに出る時である。

 それ以外、一切、外に出ない。

「うーむ、いったいどこに隠れたものやら」

 これは源一郎のひとりごとである。

 だいたい、なぜ斬られたのか、何が原因なのか、それすらも分からぬ。

 まったく格好が悪い。鈴木のようなものに、一刀で斬り捨てられるとは何だ。いくら剣術が嫌いでも、自分の身を守るすべ位は習って置くべきではないか、と源一郎は思った。

 愚痴である。言っても、しょうがない、と思っても、勝手に愚痴は出てくる。

 怒りの矛先は、鈴木作久よりも、父親の正親に向かっていた。

「まったくだらしがない」の、一言である。

 気晴らしに下谷の直心影流の道場に行ってみた。

 直心影流、戸田道場とある。

「同じ直心影流で、八王子の加山道場の者でござる」

「お名前は、何と申されるの」

「中村源一郎と申します、三百八十石取りの幕臣でござる」

 そう述べて、手をついて頭を下げた。

「八王子の当流派というと、正木先生ではありませんかな」

 相手がそう訊いた。

「はい、先月までは。正木先生は、三月いっぱいで引退されまして、後を加山大助先生が継いでおり申します」

「左様か、私は当道場の主、戸田左馬ノ介と申す」

 ゆっくり遊んでいかれよ。そう言って上座に坐った。

 稽古着がないので防具だけを着けて、道場に進み出た。百回ほど素振りをした。

 その素振りを見て、戸田は、これは、と思った。

 上座から降りた。

「皆の者、止めよ」

 門弟たちに、そう声を掛けた。

 源一郎の傍に、立って、

「八王子の直心影流加山道場の方である、一手ずつ稽古をつけて貰うが好い」

 門弟たちが、道場の隅に坐った。

「お主、師範代かなんかでござろう」

 戸田が源一郎に訊いた。

「正木先生の代には師範代ををしておりました」

「うむ、やはりのう」

 戸田が、ふむふむ、と納得したように頷いた。ひとりが立ち上がってきて、源一郎の前に来た。

 一礼して、竹刀を正眼につけた。

 源一郎も正眼に構えた。

 そのまま、すすす、と間合いを詰めた。

 相手が慌てて、面を打ちに来た。

 源一郎は、完全に、相手の内懐に入っていた。竹刀で軽く、相手の首を叩いた。

 二番目の男は、源一郎が間を詰めてきたら、すぐに叩き落そうと、上段に構えてきた。

 源一郎は構わず踏み込んだ。

「きええい」

 相手が,打ち込んで来た。

 源一郎は相手の右手首を叩いた。竹刀が飛んだ。

 三人目の男は、正眼から、胴を突いて来た。

 源一郎は身体を開いて、それをかわすと、首を打ち払った。

 そうして、道場にいた者全員と稽古をして、防具をはずした。

「お見事でござる、免許皆伝でござるか」

「はい、その通りでございまする」

「どうでござるかのう、できれば毎日当道場にきて、門弟どもに稽古をつけてやってほしいと思いおるが……」

「先生、私は敵を持つ身でござります、そうはいたしかねます」

 源一郎は首を振った。

「なに、敵を持つ身とな……左様か、それでは致し方ないのう」

「申し訳ありません、ただ敵探しに疲れたときは、また寄せていただきます」

 申し訳ありませんと、また頭を下げた。

 それから何日かして、

「おつぎの婚礼がありましての、出て参りました」

 加山がまた江戸に出てきた。

「そうですか、それでは私も同席しましょうか」

 源一郎そういうと、

「そうですか、出てくれますか、おつぎも喜びましょう」

「問題は衣装ですな、古着屋にでも行って来ましょうか」と源一郎が言うと、「いやいや、買う必要はありませんぞ、質屋にいって借りてくれば十分でござる」加山が手を振って笑った。

「実は私の衣装も質屋からの借り物でござっての、源一郎殿も、そうされい、私が明日、質屋に行って来申す」

 加山がそう言っておつぎの長屋に帰っていった。

 翌日、加山が、紋付羽織袴を持ってやってきた。

 加山と源一郎、ふたりで髪床にいった。

 婚礼は明日である。内輪だけでひっそりとやろうと、決まっていた。何せ、ふたりの子持ちと三十女の婚礼である。いたしかたなかった。

 その日は、源一郎もおつぎの長屋に行って、三人並んで寝た。

 おつぎが「若様が婚礼に出て下さるとは思ってもいませんでした。ありがとうございます」と頭を下げた。

「なに、私らは姉弟みたいなものですからな、当然でござるよ」

 正に、姉弟のようなものだった。おつぎは、中村家に下女として、奉公していたことがある。源一郎六才のときだった。

 そうだ、おつぎは中村家の奉公人だったのだ。源一郎は、改めてそう思い起こした。

 主が奉公人の婚礼に出るのは当たり前のことだった。

 源一郎の幼いときから、なにくれとなく面倒をみてくれた存在である。

 泣いた時にはあやしてくれたし、悪戯をしたときには叱ってくれた。

 源一郎は婚礼のお祝いに、三両包んだ。

 三両という金は、婚礼への祝い金としては、破格である。

 普通ならば、一分か二分程度が相場であった。庶民はもっと少ない。

その話が舞い込んできたのは、四月の半ば、桜が全て散って、あやめの咲く頃であった。

(桜が咲くのも散るのも、一向に気が向かわなかったな)源一郎は、そう呟いた。

 そこに、本所の岡引きの親分が顔を出したのである。

「親分、敵がみつかりましたか」

 源一郎が、親分が、坐るか否かというところに、慌てたように訊いた。

「ひょっとして、この男ではないか、というのがみつかりやした」

「それで、その男は何処におりますか」

「まあ、中村様、落ち着きなせえ」

 親分がそう言って、逸る源一郎を止めた。

「そいつは、湯屋の下男をしておりましての、一向に外に出てきません。一日に一度だけ、酒を買いに出てきますんで、当人だろうか、どうか、窺うにしても、殺るにしても、この時にしか手立てがありませんな」

 親分が、ただ何刻、酒を買いに出るのか、ちょっと分かりません、と語った。

「全くわかりませんのか」

 源一郎が訊いた。

「昼間とか夜とか、まちまちだそうです。ただ午前中に、出ることはないそうですぞ」

「かたじけない。して、その湯屋というのは、何処にありますのかな」

 親分が、自分の掌で、自分の頬を叩いて、

「いけねえ、肝心のことを言い忘れていくところでやした」

 と、照れ笑いした。

「湯屋の場所は、回向院裏でございます」

「回向院裏……。それでは、すぐそこではござらんか」

 ふうう、と、大きな溜息をついた。

 酒好きということからも、鈴木作久に違いない、と思われた。

 これからどうするか、まずその男が鈴木なのかどうか、確かめねばならない。

 翌日、まず、古着屋に行って、雲水の装束を買ってきた。その後、髪床に行って、頭を丸坊主にして貰った。

 雲水の格好をして、笠を被って、回向院に向かった。

 回向院裏の富士乃湯というのは、すぐに見つかった。

 裏口の場所も確認した。

 源一郎は、裏口の路地の入り口に立って、読経し始めた。

 読経と言っても般若心経だけである。

 他のお経は知らない。

 般若心経だけを、何度も繰り返し唱えた。目は裏木戸の方に向いている。

 二時間ほどして、裏木戸が開いた。一升どっくりを持って男が出てきた。

 顔をじっくりとみた。

 鈴木作久に違いなかった。

 源一郎は鈴木の後を追った。

 早足で歩いて、鈴木を追い、追いつきざまに、背中に小刀を刺した。

 鈴木が倒れた。

 とどめに首を切った。

 廻りに野次馬が集まってきた。

「仇討ちでござる、どなたか、自身番に報せてくださらんか」

 一人の男が駆け出して行った。

 源一郎は鈴木の首を切り落とした。

 自身番から、大八車を引いて、番人がやってきた。

「仇討ちだそうですな」

 そう源一郎に訊いた。

「左様でござる、お(やり)奉行さまの許可も受けており申します」

 そう言って、源一郎は風呂敷を広げて、首を包んだ。

「それがしは、これから、八王子千人頭の詰所に参ります。何か問題があれば、そちらのほうへ、どうぞお越し下さい」

 源一郎は、頭の入った風呂敷をぶら下げて、麹町に向かった。

麹町そばの伊賀町に千人頭の詰所があったのである。

 今月の月番頭は、原文衛であった。源一郎は「父の仇を討ちました、明日、お鑓奉行の屋敷に参りまして、そのむね、申し上げてきます、それでよろしいでしょうか」と訊いた。

「うむ、そうか、やったか、よろしい。それでは明日、身共も同道しよう。鈴木の首は、明日、鑓奉行に見せた後、詰所内のどこぞに埋めてしまおうではないか」

 原文衛がそう言った。

「八王子まで、持って帰ることはなりませぬか、母に見せとうござる」

「ああ、それはなりませぬよ、女子に見せるものではござらん、髪の毛でも持って帰られてはいかがかな」

「そうですか……」

 たしかに、女子に見せるものではあるまい。

 見たいと言うのは、悪趣味である。

 そう思った。

 翌日、原文衛と源一郎は、鑓奉行のもとへ向かった。

 源一郎は汚れた風呂敷を捨てて、新しいもので包みなおしている。

 風呂敷包みをぶら下げながら歩いてきた。

 鑓奉行の屋敷につくと、

「八王子千人頭、原文衛でござる、本日は、中村家仇討ち完了のむね、お届けに参った」

 そう言って表座敷に上った。座敷では、懐紙に首をのせて、手元に置いた。

 鑓奉行が出てきた。

「本日はなにか、仇討ちが完了したとか聞こえたが」

「は、左様にてございます」

 文衛と源一郎が、平伏した。

「たしか、中村源一郎とか申したの、そちが跡取りじゃの」

「はい、おっしゃる通りでございます」

 源一郎が、頭を上げて、そう応えた。

「それは重畳、よくしてやられた」

「首はご覧になりますか」

 源一郎が訊いた。「いやいや、結構でござる」と言って、鑓奉行が掌を前に突き出した。

 源一郎は熨斗袋を、懐から出して鑓奉行の前に置いた。

「些少でございますが、お礼のしるしでございます」

 そうして深々と頭を下げた。

 後始末は鑓奉行に託された。

 へたをすると家禄を減らされるかもしれない。改易になることだって有りうる。一度改易になって再びお召し抱えになるということもあるが、その場合は禄高二百俵と決まっていた。

 鑓奉行が訊いた。

「中村、そちの剣術の腕前は、いかほどかの?」

「はい、町の剣道場の師範が務まる程度でござります、直心影流の免許皆伝でございますれば、誰にも負けないと自負しております」

「そうか、自信があるのだの」

 鑓奉行がにこにこ笑った。

 二、三日経ったころ、鑓奉行から屋敷に参るようにと、連絡があった。

 原文衛が同道した。

「原殿、いつもお手を煩わして、すみません」

「いや、いいのですよ。なにしろ月番ですからな」

 原がそう応えた。

 鑓奉行の屋敷に着いた。書院に通された。

 奉行が待っていた。

「おう、待っていたぞ」

 挨拶もそこそこに、奉行が、源一郎に、一通の書状を手渡した。

「禄高は元と同じで、千人頭としての勤めも同じゅうすると、している。良かったのう」

 そう言って、は、は、は、と笑った。

 長屋の皆と大家には、もう挨拶をしてあった。

 明日は、青山の小川家に挨拶に出向かわなければならない。

 それが終わったら、その足で八王子に帰ろう、と思っていた。

 仇討ちが終わったことは、原文衛から知らされてある。

 翌朝に、早飯を喰ってから、小川家に向かった。

 小川春意は在宅であった。

「朝早くから、どうしましたかのう」

 るいが座敷に入って来、茶を源一郎と春意の前に置いた。

 そうして、部屋の隅に坐った。

「仇討ちが終わりましたので、八王子に戻ります。それでご挨拶に参りました」

「なに、仇討ちが終わったとな」

「はい、三日前、敵の居場所が判明いたしまして、その日の翌日に斬ってしまいました」

 源一郎は、こちらへご報告に参るのが遅れましたのは、幕府からのご沙汰をお待ちしたためでござる、と頭を下げた。

「そうですか、旧禄安堵ですな」

「はい、その通りです」

 源一郎がそう言って笑った。

「そうすると、五月十日が祝言ということで、よろしいかのう」と春意が訊いた。

「は、よろしゅうございます」

 源一郎が笑って応えた。

「それでは、これで、急いで八王子に戻りますので、よろしゅう、お願い申し上げます」

 新宿の問屋場で馬を借りて、甲州道を下った。

 その日の夜遅くに、八王子に入った。

 夜四つ(十時)の鐘が鳴ったばかりだ。

 八木宿で馬を下りて、真っ暗な道を辿って、自らの屋敷についた。門の通用口を叩くと、

「どちらでござるかな」とすぐに返事がきた。

「わしだ、源一郎だ」

 下男の仙吉が、「わっ、若さまですか」と言って通用口をあけた。

 源一郎が入って、どんどん、板敷きを踏み鳴らして、志野の居室に向かった。

 志野は起きていた。

「ただいま戻りました」と頭を下げると、

「ご苦労様でした」

 と、源一郎を見る目が潤んでいた。

「どこぞに怪我でもしていませんか」

「怪我など、いたしませぬ、無傷でござるよ。強いて言えば、江戸から馬で来ましたので、股ずれが出来て、痛いのです」

 ははは、と源一郎が笑った。荷物を開けて封書を差し出した。

 志野がそれを見て「まあ、まったく、禄高まで安堵とは、信じられないような話ですね」と笑った。

 千人頭はたまに改易されることがあった。

 改易後、再お召抱えになった場合は、二百俵と決まっている。

 翌日は、近所の千人頭の家を廻り、挨拶をしてきた。

 源一郎という名を、忠正に改めた。中村忠正である。悪い名前ではない。志野とふたりで決めた名であった。

 忠正は屋敷中の畳の表替えを、畳屋に頼んだ。るいを向かえ入れる準備である。襖と障子の張り替えも頼んだ。正親が死んで間もないので、万事、ひそやかに、行おうと、示し合わせていた。

 中村組の組頭と世話役には、出席するよう伝えてある。千人頭九人には当然、伝えてあった。座敷と料理は、八王子の料亭に頼んだ。

 五月五日、端午の節句に、江戸から箪笥二棹が届いた。箪笥の他に着物が届いている。数えてみると、十二枚もあった。

 五月九日、小川家の人々が八王子に着いた。            

 春意は、「今晩は、脇本陣に泊まり申す」と言って、八木宿の旅籠に向かった。

「明日は、家の若党を、お迎えに寄越します。それまでごゆっくり、どうぞ」そう言って忠正は屋敷に戻った。

 翌日、祝言が行われた。

 万事ひそやかに、ということで、酒に酔って歌い出すという者もない。しかし、笑いながら、話をしている人も多く、寂しい披露宴でもなかった。

「奥方様、中村組組頭の吉川正吾でござります、今後ともよろしゅう願い上げます」

「同じく世話役の大高竜介でございます、よろしゅう願います」

 千人頭の連中も、次々に、るいに挨拶に来た。

(頭を下げたり上げたり、るいも大変じゃのう)忠正は腹の中で笑った。

 忠正には、小川春意と小川家の親類二名が挨拶にきただけだった。

 それは仕方なかろう、これが江戸で挙式していたならば、逆になっているに違いない。忠正はそう思った。

 翌朝、春意たちは、江戸に向かって帰っていった。

 忠正とるいは、大和田村まで見送った。

 その日の夜、

「るいさん、朝は六時に起きて、夜は十時に寝てください。中村家の決まりごとです、ただし、忠正が外出中のときは別です。帰るまで待ってください。家には、若党が二名、下男が二名います。女は、女中が一名と下女が三名です。どうぞ、うまく使ってやってください」

 志野がそう言って、お願いしますと、頭を下げた。

「まあ、お母さま、そのようなことで、頭をお下げにならないでくださいませ、私もまだ分からないことだらけで、お母さまが頼りです、これから教えていただきたいことが沢山あります。どうか、よろしく、お願い申し上げます」と、るいが頭を下げた。

 嫁に向かって頭を下げる姑など、聞いたことがない。るいは感動した。

 そうして、ふたりで、にこにこ、笑った。

「まあ、あなた。可愛らしい、お嫁さんですこと。あなたがお嫁に来てくれて、嬉しいです」

 志野はるいの手を握った。

「忠正をよろしくお願いしますね」と、笑った。

 庭の隅にある正親の墓に詣でた。

 志野は毎日、墓参りしている。

 墓の周りは、雑草もはえておらず、きれいになっていた。

「それでは、多少歩くが、八王子の町を案内しておこう」

 忠正に誘われて家を出た。

「と言っても、田舎だからの、何も見るところはない」

 るいも、その後を付いて出た。

 甲州道中を江戸に向かって歩いた。 

 追分を抜けると、八木宿に入る。

「るい、そんなに後に下がることはないぞ、もそっと、わしの傍に来い。それでは話も出来んわ」

 忠正が後ろを振り返って言った。

「はい、それでは」と、るいは傍に近づいた。

「うむ、それでよかろ、いつもそのようにしろよ」

「でも、よろしいのですか、こんなに近ずいて」

「うむ、かまわん、女が男の後を三歩開けて歩く、なぞと言うのは、馬鹿馬鹿しい話じゃ、そんなものは無視して良い、そんなことで、咎めを受けることもあるまいしの」

 北から風が吹いている。

 冬に吹く北風とは違う。爽やかだった。

「そこが呉服屋の市井だ、家に出入りの呉服屋だからの。その隣は紙屋でな、襖紙から落とし紙まで、紙なら何でも売っている、皆、注文すれば届けてくれるからの、必要があれば用人に言え。用人が好いようにしてくれる、任せて置けば良い。米と青物は、組下の同心たちから買うのでな、任せて置けば、勝手に、厨の外に置いていく、これも下女たちに任せて置けば良い。金は後で支払うことになっておるからな。まあ、後で、母上から、同じことを聞かされよう」

 忠正が、そう言って笑った。

 黙って聞いてやってくれ、と頭を下げた。

 自分の妻に、頭を下げるなど、あってはならないことである。

 るいが「まあ、旦那さま、頭など下げないでくださいませ、お願いです」と、るいは地面に手をついた。

「よし、分かった。手を上げてくれ、人目がある、もう止めよう」

 きっと優しい人なのだ、誰彼構わず頭を下げてしまうのは、その証である。るいはそう思った。

 それなのに、一度剣を持つと鬼神になるという。

 先日の婚礼の宴で、組頭の吉川という男が、そう教えてくれた。

今は道場の筆頭の弟子となっているが、実際は、道場主より忠正のほうが強いのだという。千人頭という家柄があるせいで、道場主になれなかったのだというのだ。

 るいには、それが、自分にとって、悲しむべきことなのか、喜ぶべきことなのか、よく分からない。

 ただ、忠正はひとり息子である。始めから、剣術道場の後継ぎとしての道は閉ざされている。そう思った。

 これは仕方のないことだと、るいは首を振った。

 なによりも、まず、家に付与された役目の方が大事である。忠正は正しい決断を下したのだ。

 るいはひそかに微笑んだ。良い人と結婚したと、思った。

 まず心の低いのが良い。

 そのうえ、正直である。

 まあまあの顔立ちだった。

 夜のことも優しくしてくれる。

 文句を付けるところがない。嬉しかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ