第二話
二
その報せは、突然、伝えられた。
中村組の組頭、吉川正吾からである。
中村正親が切られて死んだ、というのであった。
相手は、中村組の同心、鈴木作久と言う男だと言う。正親は、鈴木の勤怠を咎めて、叱りつけているときに、突然切られた、というのだった。
もともと父は、剣術が得意ではなかった。なにしろ、腰に差した刀を抜ききれぬほどのものであったのだ。この太平の世に、なぜこのようなものを腰に差していなければならんのだ、というのが父の口癖だった。
鈴木作久の顔は、見覚えている。正木道場の門弟だった男である。剣術の腕は、中の下といったところであった。
とにもかくにも、仇討ちに出なければならぬ。
それらしい男が日光道中を江戸に向かったと茶店の親父が言っている、とのことが、書状に認められていた。
源一郎も逃げるならば江戸だろうと、見当をつけていた。逃げるために転々としていたのでは、食い詰めてしまう。江戸ならば、目立たぬように生きれば、なにかしらの職について、隠れて生きていくのも可能であった。鑓奉行に届け出て、仇討ちの旅に出た。旅といっても江戸である、何のこともない。
本所の荒井町に長屋を借りることが出来たので、そこを塒にして江戸の町を廻ることにした。
毎日出て歩く。深編み笠を被ってだ。
長屋の住人たちには、菓子を持って、挨拶しておいた。自分が敵持ちだということも、鈴木の人相描きを見せて、言ってある。
朝夕の飯は、長屋の隣の女房に、二分金を渡して頼んだ。近所の岡引きにも、挨拶に出向いて鈴木のことを話して、人相描きも見せてきた。もちろん、小判三枚を置いてである。
「先生、あっちらに任せなせい、必ず見っけだしやすぜ」
親分がそう言って胸を叩いた。
ひとりで探していたのでは、いつ見つかるかわからぬ。
探す手は多いほうが良い。源一郎は他の町の岡引きにも敵探しを頼んだ。
この日は、午前中に青山の小川家に挨拶に出かけた。
るいが出て来て迎えてくれた。
「よくいらしゃいました、父は在宅でございます」
そう言って頭を下げた。
るいの後を付いてゆくと、小川家の当主、小川春意の居室に案内された。
「父上、源一郎様でございます」
「うむ、よくみえられた、お元気かの」
春意は、にこにこ、笑って源一郎を迎えた。
「は、いたって健康でござります」
「この間は、るいがつまらぬ事を言いに行きおって、申し訳なかった。るいがことを信じてくれたとのこと、ありがとうござる」
「は……」
「今日はなにか用件があって見えられたかの」
春意は、鋭く、源一郎の顔色を見た。
「は……、実は、父の正親が切り殺され申しました。組下の同心にでございます」
源一郎はるいの顔を見て、そのまま視線をずらして春意を見た。
「なに、ううむ、切り殺されたとな」
「はい、左様にござります」
「さあ……、それでは大変じゃ、仇討ちをせねばならんのう」
春意がそういって、考え込む姿勢になった。
「はい。幸い、相手が、日光街道を江戸に向かったという情報を得ております。相手は江戸にいると思われます。あちらこちら逃げ回っていれば、直に食い詰めますからな。江戸にいれば、名を隠して職につくことも、可能だと思います、それで江戸に出てきました。諸方の岡引に、金を渡して、敵探しをして貰っています」
源一郎がそう語ると、春意が、
「そうならんように努めます。もし、四月中に敵を討てなかったら、その時には、ご相談に参ります」
「るいとの婚姻は、しばらく先に延ばそうか」
源一郎はるいに、
「分かってくれましたか」
と訊いた。
「分かりました、でも、私は五月十日に嫁入りしたく思います。何とか四月中に敵をお討ちくださいませ」
源一郎は、むっと、言葉が詰まった。
「分かり申した、四月中に敵を討てるよう努めましょう」
とりあえず、そう応えるしかない。
午後、青山から麻布一帯を歩いてみた。武家屋敷ばかりで、人通りも少ない。
こういうところには、隠れていないなと思った。
しかし、意外と穴場かもしれない、と思いなおして、丹念に足を運んでみた。
武家屋敷にもいろいろある。上には門櫓があり番人がいる大名屋敷から木戸と板塀だけの下級武士の家まで様々だった。
源一郎はそれらを眺めながら、仙台坂を下り高輪を左に曲がって、本所に帰っていった。
加山大助の家は、八王子の上壱分方村にあった。
加山はそこで、茶筅と茶杓を作って、江戸の茶道具屋に売って、生計を立てていた。
しかし、正木道場を継ぐことになれば、竹細工の仕事は、止めようと考えている。
父の代からの竹細工屋であったが、未練はなかった。
相手は百姓の娘であったが、結婚して、男、女とふたりの子もいる。
祖父の代までは武士であった。
しかし、武士に戻りたい、という訳でもない。
単に剣術が好きなだけだった。
江戸に妹がいる。おつぎという名である。
縁遠い女で、三十才になったいまも、ひとり身でいた。
井筒屋、という米問屋で、奥女中をしている。井筒屋の家作にひとり住まいをしていた。
加山が月に二度、江戸に出るときは、いつもおつぎの長屋に一泊した。
たしかに行き遅れた感はある。
そのおつぎに「あにさん、もっともっと、江戸に来て下さいよ」
おつぎは、加山が江戸に出てくると、決まってそう言う。
「私だって、生身の身体なんだから、寂しいですよ。もう、本当に縁ってあるんですかね」
この前、江戸に出た時には、そんなことを言った。
加山も、どこぞに、おつぎに言い寄る男がいないものか、と、考えている。
器量は十人並である。背も小さからず大きからずで、女としてはまったく普通であった。
年令は三十才であった。
縁談が舞い込んだ。
加山はそれを、おつぎの口から、直接聞いた。
江戸に出て来た日の夜であった。おつぎは、のぼせて、赤い顔をしている。
「お相手は、米の小売屋さんなんですよ」
おつぎはそう言った。
「ご主人だそうです。三年前に奥さんがなくなられて、後添いにということでした。小さい子供がふたりいるそうです」
「うむ、そうか、しかし、それは仕方があるまい、お前も歳だ。高望みは出来ないぞ、子供も小さいうちなら懐きやすかろう」
この縁談を見過ごしたら、もう話は来ないかもしれない。
井筒屋の主人が仲立ちをしている。断れば井筒屋の顔を潰すことにもなる。
「ええ、それは、よく分かっています、……問題は別にあるのです」
「別に問題……、なんだそれは、男に妾でもいるのか」
加山は、懐に腕を抱え込むようにして、話の先を促した。
おつぎは、少しの間、口をつぐんで、
「強請られているんです、この私が」
「強請られている……お前が……なんで」
加山が首を傾げた。
「私に色がいるというのです」
「色、そんなもんが、お前にあるのか」
「嫌ですよ兄さん、そんなものが、ある訳ないじゃありませんか、言いがかりですよ、どこから嗅ぎ付けたかしれないけれど、言うことを聞かないと、真米屋に言うというのです……あ、ごめんなさい、真米屋というのが、今度の縁談の相手です」
「ふむ。それで、誰が強請ってくるのだ」
加山が訊いた。
「五郎造という香具師の元締めと正福寺というお寺の和尚です。私が、その和尚と出来ている、というのです」
「うーむ、それでいくら出せと言ってくるのだ」
「二十両です、私はそれ位のお金なら持っています。五郎造と正福寺の和尚も、それ位のお金なら持っているだろうと踏んでいるのです」
「二十両出して、話が終わるならいいが、そうはいくまいよ、一度出したら、また強請って来るに違いあるまい、いうことを聞いてはいけない」
加山は、そう言った。
妹のたった一度の縁談をぶち壊しにしてはならなかった。
おつぎが二十両持っているといっても、それはただの二十両ではない、十数年かけて貯めた、心のこもった金だ。
「それで、正福寺と五郎造とやらの住家はどこにあるのだ」
加山が訊いた。
「正福寺は青山にあるそうです、五郎造の住家は、新富町の料理茶屋の向かいにある、妾の家だそうですけど」
「兄さん、どうするんですか」とおつぎが訊いた。
「心配はいらん、話を聞きに行くだけだ」と加山が応えた。
加山は、一旦、八王子に戻った。そして、師匠の許しを得て、江戸に舞い戻ると、源一郎のいる長屋を探した。中村の家に行って、源一郎が本所の長屋にいると、聞いてある。
源一郎がいる長屋は、それほど時間がかからずにみつかった。
訪ねてみると、留守だった。加山は、かまわず、板敷きに上った。
暮六つに、源一郎が帰ってきた。加山は行灯に火をつけて待っていた。
源一郎は長屋に入ると、加山に、「やあ、貴兄、どうしましたか」と声をかけた。