第一話
一
庭の桃の木に、鶯が来て鳴いている。
源一郎は、それを、庭に面する座敷に寝そべって、眺めていた。
もう四半刻(三十分)ほどもそうしている。
鶯が去らないからである。
ふと、人の気配がした。
鶯が飛び去った。
「あらあら、こんなところで寝そべって、お行儀の悪い」
母の志野であった。
「母上が見えたので、鶯が逃げたではありませんか」
源一郎がそう言いながら、起き上がって坐った。
「え、鶯が逃げた……ああ、鶯ねえ。そういえば先ほどからよく鳴いていましたね。私が来たから逃げたのですか」
「左様です」
「でも、そうではないかもしれませんよ。ただ単に、ここにいるのに飽きて、飛び去ったのかもしれませんでしょ」
「いいえ、母上が来たせいです」
源一郎は、そう決め付けた。
「ところで、何か御用ですか」
と、源一郎が志野に訊いた。
「るいさんからのお手紙が届きました」
そう言って、志野は源一郎に書状を手渡した。
源一郎は、その場で、るいの書状を開いた。
るいは、源一郎のいいなずけである。半年ほど前に、幕府の鑓奉行の仲立ちで整った縁談であった。五月十日に祝言をあげることに決まっていた。
「母上、明日、そうですな、今日が三月二十五日ですから、明日が二十六日ですな、明日の昼に我が家に来るそうです」
「まあ、るいさんが……」
「どうぞ、お読みください」
源一郎が、書状を志野の手に渡した。
「………この、申しあげたき儀あり、というのは何でしょうか」
志野がそう訊ねた。
「さあ、わかりませぬな、とにかく、明日が来るのを待つだけです」
そう言って、源一郎は、立ち上がって袴を穿いた。
「母上、私はこれより、正木道場に行って参ります」
両刀を腰に差しながら、部屋を出て行った。
「今夜は、食事を食べますか、それともどこかで済ませてきますか」
志野が、源一郎の背中に声をかけた。
「今夜は早めに帰りますので、家で食事をします」
お願いします、と言って屋敷を出た。
正木道場とは、直心影流の剣術道場のことである。源一郎はそこで、師範代をつとめていた。ほぼ二日に一度は顔を出す。師匠の正木六左衛門は、年令は六十五才と高齢で、最近では滅多に、道場に顔を出さない。それで、源一郎ともうひとりの師範代、加山大助が、
一日おきに道場に詰めていた。
加山大助は、次の道場主になることが、決まっている男である。
次の道場主には源一郎をと推す声もあったが、源一郎は即座に断った。
自分には勤めがある。先祖代々、家に付与された役目であった。
それは、八王子千人同心の頭としての勤めである。
源一郎の姓は中村というが、中村家はそれで、三百八十石という高禄を得ていた。
中村家の今の当主は、源一郎の父、正親だが、今は日光火の番の役目に出ていて、八王子には不在であった。
この度の、日光火の番を終えたら、自分が隠居して、後をお前に譲る、と正親は言って出て行った。
正親は四月には、八王子に戻ってくる。
であるから、あと一月ばかりで、源一郎が中村家の当主となることに決まっていた。
婚姻は、中村家が代替わりしてから、ということになっている。
当主が不在中の縁談であった。しかし、事の成り行きはすべて正親に報せてあり、了解をとってあった。すでに結納もすませてある。
(申し上げたき儀あり)とは、いったいなんであるのか。
一抹の不安を感じながら、源一郎は正木道場の門をくぐった。
稽古着に着替えて、防具をつけた。
道場では、六人ほどの者が稽古している。
源一郎は竹刀を持って、前に進み出た。
面は着けていない。
その場で百回、素振りをした。
その後、身体の向きを変えて、「では、ひとり二番、お相手仕ろう」と声をかけた。
門人たちが一斉に隅に下がった。その中から、一名が立ち上がって来て、源一郎の前で一礼した。源一郎は竹刀を構えた。
相手は、くわあ、と奇声を発して、面打ちにきた。その面打ちを身体を開いて避けた源一郎は、相手の伸びきった籠手を打った。
「もう一本」と源一郎が、声をかけた。
相手は、今度は突きに来た。一回、二回、三回といなして、三度目に面を打ちに来た相手の竹刀を弾き返すと、切り返して首横を打った。
次の相手は面、面、面と面ばかり狙ってきた。この男の面打ちは鋭いところがあるが、こう単調では、相手に読まれてしまう。三回まではつきあったが、四回目で抜き胴を取った。
二本目は、相手が面を打ちに来て源一郎がかわしたあと、そのまま切り返して突きにきた。
(なるほど、こういう芸当もできるのか)と源一郎は腹の中で笑った。突きをかわした後、身体を入れ替えて、竹刀で相手の首を押さえた。
そのようにして六人の者全員に、稽古をつけた。うっすら、汗を掻いていた。稽古着から普段着に着替えて、道場主正木六左衛門に挨拶に出向いた。
源一郎は廊下でひざまずいて、頭を下げた
「先生、ご機嫌はいかがですか」
「源一郎か、中へ入れ」六左衛門がそう言った。
源一郎は座敷内に坐った。
そんなに遠慮するな、もっと近くに寄れ」
六左衛門の前に行って坐り直した。
「かねがね、申してきたとおり、わしは、今月いっぱいで身を引いて隠居する。わしの後は、知っての通り加山が継ぐ。本来なら源一郎が継ぐべきだが、千人頭の家の嫡子という立場では、そうもいくまい、仕方もなきことじゃ」
六左衛門が、そう言って茶を呑んだ。
門弟の筆頭は源一郎である。六才の子供のころから、二十年も正木道場に通っている。
「そこでじゃ、これは昨日、加山にも伝えてあることじゃが、加山とお前のふたりに秘技を伝えておこうかと思うての」
「秘技ですか……」
「そうじゃ、やる気があるかの」
「はい。もちろんです」
「うむ。それでは、明日の夜六つ半(七時)に道場に参れ」
しっかり飯を喰うて参れよ、そうでないと身がもたんぞ、と、六左衛門が、部屋を出て行く源一郎に声をかけた。
(これは、明日は忙しいのう)家に帰る道を辿りながら、源一郎はそう思った。
るいの話も、簡単にすむ話とは思われない。
いったい、何が言いたいというのだろう。わざわざ八王子まで出て来ての話である。深刻な話であることは、明白であった。
考え考え歩いているうちに屋敷に着いた。
母の志野が、湯が沸いていますからお入りなさいと、針に糸を通そうとしながら、源一郎に言った。
「母上、私がやりましょう」
そう言って、志野の手から針と糸を取ると、直ぐに通して、志野の手に戻した。
「まあ、ありがとう、駄目ね、もう目が悪くなってしもうて」
「まあ、仕方がありません。それだけお年令をとられた、ということですよ」
「まあ、歳をとったなんて、そんな情けないことを言わないでください」
志野が源一郎を睨んだ。
もっと叱られるかと思ったが、志野は意外とあっさりと、話題を変えた。
「湯浴みが終わったら月代を剃ってあげますからね、母のところにいらっしゃい。それと着物も新しい物に着替えて、今着ているものは、洗濯物に出しなさい」
「はあ、分かりました、それでは、これより湯浴みして参ります」
自室に入ると、源一郎は衣服を脱いで、浴衣に着替えた。そしていままで着ていた衣服を丸めると、洗濯物置場に置いて、湯殿に向かった。
ほぼ、三日に一度の割で湯浴みしている。
髭をそった。源一郎は、髭の薄い体質であった。三、四度撫でるだけで、髭剃りは終わってしまう。
糠袋で身体を擦った。垢落としをして、三、四度湯を被って、湯に浸かった。四半刻ほどで、源一郎は湯殿を出た。
「母上、それでは月代をお願いします」
源一郎は、そう言うと、志野の前にどっかりと腰を下ろした。
志野が手近の小物入れより髪剃りをだして、源一郎の月代を剃り始めた。
源一郎は、膝の上にひろげた半紙で、落ちてくる髪を受け止めていた。
「母上、明日は、午後六時には道場に参ります。なにか、お師匠様より秘技をお授けくださるとのことで、楽しみでございますぞ」
「まあ、秘技をですか、それは、どのようなものですか」
「さあ、わかりません、もし分かっていても、お答えはできませんな、何せ秘技ですからな」
「そうですか、親にも話せぬようなものですか」
「その通りでござります」
明日は帰りが遅くなりますので、先にお休み下さい。そう言ったときに、月代も剃りあがった。
志野が髷を結ってくれた。
翌日。
午後一時に、るいはやってきた。
駕籠に乗っての八王子入りである。小者がひとり付き添っていた。
源一郎、るいとも、結納のとき以来の再会であった。
相変わらず可愛らしいな、と源一郎は思った。るいは美人とはいえないが可愛げがあった。笑顔になると、その可愛さが増す。
源一郎二十六才、るい十八才である。
客間に通して、茶を出した。
るいが決まり切った、挨拶を述べた。
「それで話しておきたい事とは、なんですか」
志野が、そう促した。
「はい……」
るいはそう言ったきり、しばらく無言で、押し黙っていた。
そうして、思い切ったように、口を開くと、「実は、いま小川の家は強請りに合っています」と言った。
小川というのは、るいの家の姓である。
「強請りに……」
源一郎が、掌を頬に当てた。この掌を頬に当てるのは、源一郎のくせである。
「そうでございます」
「まあ、何でそのようなことに」
志野が、心配げな顔で、そう訊いた。
「それが……、よく分からないのでございます。相手は、五郎造という香具師の元締で、私が不義密通をしているという事実無根の話を捏造して、強請ってきます。家の近くに正福寺というお寺があり、ここの住職が破戒坊主で、五郎造と結託して強請ってきます。口にするのもけがわらしいことですが、私が正福寺の和尚とできている、というのです。この話を口外されたくなければ、百両出せと要求して来ています」
るいが、いただきます、と言って茶を呑んで話を続けた。
「本来、口外されて困るようなことは、ひとつもないのです。なにゆえ、このような話が捏造されたのか。なにゆえこのように嘘八百を並べられるのか……わかりません」
「それは、相手は、どこでも良かったのでしょう。要するに金のありそうな、対面を気にしそうな家であれば、どこでもよかったのです」
源一郎は、そう言って、志野の顔をみた。
「るいさんは、なにひとつ身に覚えのないことなのでしょう」
と、志野が訊いた。
「はい、ございません」
るいが応えた。
「それでは、何も気にせず胸を張っておられればよろしい、と存じます」
志野が坐ったまま胸を張って見せた。
「その五郎造とか正福寺の和尚とかいうものは、いつもは、何れにおりますかな」
源一郎が訊いた。
「正福寺の和尚は、お寺におります。五郎造の住家はよくわかりませんが、新富町の妾の家によく出入りするとか、聞きましたが」
るいが苦虫を噛み潰すような顔をした。
「左様か、よろしい、どう話をつけるか考えましょう」
源一郎は、そういって、頬を撫でた。
るいは、一時間ほどで、江戸に向かって帰っていった。
源一郎は、大和田村まで見送った。
暮れ六つ(午後六時)に道場に入った。
まだ半刻も時間がある。
六左衛門の居室に、到着したむね、伝えにいった。
稽古技に着替えると、身体をほぐしにかかった。四半刻ほどして、加山大助が顔をみせた。
「やあ、源一郎殿、今晩は楽しみでござるの」
加山がそう挨拶した。
「まさしく」
源一郎が応えた。
このふたり、二十年前からの兄弟弟子である。源一郎が幼いころには、竹刀の持ち方から教えてくれた。
年令は加山のほうが十才上だった。
腕の方は、源一郎が加山を追い越して、いま、稽古をすれば三本のうち二本は、源一郎が取る。
しかし、源一郎は、今でも加山を兄弟子として、崇めていた。
加山には恩がある、と源一郎は思っていた。
自分をここまで高めてくれたのは、加山である。
六左衛門が道場に現れた。
師匠は上座に坐って、源一郎と加山の礼をうけた。
「うむ、それでは始めようかの」
六左衛門が下の板敷きに下りた。
「秘技はふたつある、剣技と柔術の技だ。まず剣技に参ろう、加山相手せよ」
加山が立ち上がった。
「まず正眼につけて、打ち込んで参れ」
六左衛門は、そう言って、自分は腰をすえて、下段に構えた。
加山は正眼に構えて息を整えると、「えや!」と打ち込んだ。
六左衛門は、その竹刀を受けるのではなく撥ねて、加山の首の根を押さえた。
「よいか、剣を受けるのではない、弾き返すのじゃ、そうして切り返して、首の根を刈る。次、中村参れ」
源一郎に声がかかった。
「良いか、相手の剣を折るくらいの気合が必要じゃ。さすれば、剣は折れんでも手は痺れよう。さ、打ち込んで来い」
源一郎は、師匠の頭に思い切り竹刀を打ち込んだ。竹刀と竹刀のぶつかる音が響いた。次の瞬間、首を竹刀で払われていた。
「よいか、分かったであろう、肝要なのは、打ち合うときの力だ。それでは、後は加山と中村で練習しろ、悪いところが見られれば、わしが口を出す」
六左衛門は、上座に上って腰を下ろした。
あいだあいだに、加山もっと間を詰めろとか、中村もっと力いっぱい向い打て、とか指示してきた。
「よろしい、半刻経った。これで次の技に挑もう。防具を外してよいぞ」
六左衛門がそう言った。
加山と源一郎とは、端に坐って防具を解いた。
先ほど、師匠は柔術の技だと言った。いったい、どんな技であろう、いずれにしても楽しみであった。
「よし、それでは参ろうか」
六左衛門が立ち上がった。
「先に中村に教えるが、坐って見ている方は、ただ見ているだけでなく、身に付くよう心掛けよ」
中村、竹刀を持って参れ。六左衛門が源一郎に命じた。
源一郎は竹刀を持って、六左衛門の前に立って、一礼した。
「その竹刀で、わしに打ちかかってこい。構えは正眼からじゃぞ」
そういわれて、源一郎は正眼に付けた。
「けああ」と、怪鳥のような声をあげて、六左衛門の頭を打ちにいった。しかし、途中で、両腕をとられて、そのまま背負われて、投げられてしまった。
「よし、もう一度参れ」
同じことの繰り返しであった。
いずれも竹刀を振り下ろす前に、内懐に入られてしまう。
これは大変な技だと源一郎は思った。
投げるのがではない、間合いを詰めるのがである。人を投げるには、それなりに間合いをとらなければならない、それをどう源一郎が見切るのか。
源一郎は、六左衛門が加山を投げるのを見ながら考えた。
そうして、自分なりに、答えを出した。
相手が刀を振り上げるのと同時に、懐に飛び込むのである。あまり間合のことは意識せずに、振り下ろしにくる相手の手を掴むことに集中すべきだ、と思った。
六左衛門と加山の修練が終わった。
「あとは、加山と中村のふたりでやれい」
六左衛門が上座に坐った。
それから一刻ほども修練を続けて、稽古が終わった。
夜十時である。身体中が痛かった。道場は板敷きである。その板敷に、二十回ほども叩きつけられたのである。身体が痛まない方がおかしい。
だが、技は自分のものとした、と源一郎は思った。
提灯を手にして、源一郎は屋敷に帰った。
志野は寝ずに待っていた。
「母上、茶漬けを下さらんか、湯がなければ冷や飯でも結構でござる」
「お待ちなさい」と言って、志野が厨にむかった。そして、水と握り飯を持って、戻ってきた。
「多分、お腹を空かして帰るでしょうと、思っておりました、どうぞ召し上がれ」
「ありがとうございまする。母上、今夜の私は、身体が、がたがた、でござります。荒い稽古でござった。きついのひと言でござる」
そう言って、源一郎は、握り飯を食べた。
「そうですか、それで秘技は授かったのですか」
「授かり申した」
まさに秘技でござる、と源一郎が応えた。
「そうですか、それでは、これで免許皆伝になりますか」
「左様です。これで免許皆伝になり申した」